はてなキーワード: どんどんとは
2ちゃんやはてなで良く見かけるミソジニーに満ちた文章や処女崇拝はネタ師が作り上げたもので、それに反応する人も初期のうちはわかった上で煽り煽られを楽しんでいたような雰囲気があったが、だんだん広まるにつれて本当に信じ込んでしまっている奴が出てきてしまったように思えてならない。まぁ、だからなんだって感じではあるのだけれどそういう奴がどんどん煮詰まっていよいよ現実で何か事件を起こしたらおもしろかろうなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070123172733
そもそも物を書くのが仕事じゃないのでいつでもいいわけで。そのいつでもいいというのが後でなのであって。
そういう理由でつけられる後では、そのことについて何かアクションを起こす気が向いた時の後でなのであって。
もしそのことについてアクションを取るのマンドクセって思うようならそのことに対しての後では数限りない後での中でも優先順位がどんどん下がっていくわけで。
そうなった後では、もはや後でではなく、後でという考えであったけれども、多分この先も触れずに終わるかもしれないな、でも触れるかもしれないし、の後でなわけで。
だから多分その後でタグは未来永劫、後でなのである。人生は後回しにしても構わないものを全て相手にしているほどはないのである。
だから、多分セミリタイアした後で書くことにする。でもやっぱり書かないだろう、なぜなら後でタグは時効のために存在するのだ。しておかねばならないようなことを時効にしてしまうために後でを我々は選択しているのだ。
書いて欲しかったら借金取りのように自宅まで押しかけてこなきゃ書いてあげないよ。逃げ切るために後でをつけるのさ。後で警察には出頭するつもりです、だから今は見逃して欲しいとしてずるずる時効まで引っ張るのです。
だから、後で。今しなくてもいいためにではない、未来永劫しなくてもいいために我々は後でを選択しているのだ。
たくさんの友人ができ、新しい仕事まで舞い込んだ。ネット上の自分のイメージと、現実の自分とのギャップが悩みの種だ。
タイトル:「日記を書いてから」。本文:「5分以上レスが付かないとそわそわします。病気かもしれません」。
10月15日、名古屋に住む増田明美さん(26歳、ハンドルネーム:まぁす)が、はてな匿名ダイアリー(HAD)「増田」に書いた日記だ。
ネットが得意な友人から増田を紹介されたのは9月。PCは苦手で、チャットやメールに使うくらいだった。インターネットにも疎く、増田が何なのかも分からなかった。増田がその後の人生を大きく変えることになるとは、想像もしなかった。
とりあえず、紹介メールに従って、ログインしてみた。日記機能があったので、「作者はid:wanparkさんと見た。ともだち、ともだちられの仕様がわんわんワールドっぽいw」という日記を書いた。その日、知らない人からレスがついた。嬉しかった。ほぼ毎日、日記を書くようになった。レスへの返事も欠かさなかった。
日記にレスがついていないか、自分の日記に誰かが訪問していないか、はてブされていないか、一日中、気になった。朝起きるとまずPCを立ち上げて増田をチェック。会社でも、上司の目を盗んでは何度もアクセスした。休みの日は1日中増田を見て過ごした事もある。友人との旅行にまでPCを持っていって、ホテルでも 増田をチェックした。
友人リンク機能「マイはてなー」にもハマった。マイはてなーは、他のユーザーにリンク依頼し、承認されれば、自分の友達として自分のページを閲覧できるという仕組み。知らない人ともどんどんつながれるのが楽しかった。でも、すぐに廃止された。
ある時ふと思い立って、友人と、マイはてなー数がどこまで増えるか競い合った。この勝負を見届けに、多くのユーザーが、増田さんのページに集まった。勝負の状況を伝える日記のレスで、いつのまにか、負けたほうの罰ゲーム――名古屋・栄のうなぎ屋で、巨大ひつまぶしを食べる――まで決まっていた。
勝負には勝った。面白そうだったから、言われるままに巨大ひつまぶしの店を予約した。初めて主催した、増田のオフ会だった。
オフ会に参加したのは、勝負した2人と、それを見届けたユーザー11人。初対面の人も多かったが「皆いい人でびっくりした。ネットの人って、もっと“イタイ”と思っていたから」。
増田のオフ会は、その後何度も主催した。増田のビジネスモデルをユーザー皆で考える「増田版無敵会議」もその一つ。増田が赤字運営だという記事を読んだ時、1ユーザーとして何か役に立てないかと考え、思いついた。
場所を借り、内容を練り、80人以上のユーザーを集め、司会を務めた。もともと仕切るタイプではないし、人前で話すのも初めての経験だったが、大好きな増田のためなら、何でもできた。
増田で、仕事も変わった。11月のある日、増田がきっかけで知り合った人から、自分が働いているIT系企業に来ないかと誘われた。
名古屋で一人暮らしをし、ACアダプタの細いピン作り職人のバイトで生計をたてていた当時。実は、そろそろ東京の実家に戻ろうと考えていた。実家の母親の健康状態が悪かった。一人っ子の自分が支えてあげないくてはいけないと思っていた。
「でも、自分と一緒に何かやりたいと言ってくれる人がいる。こんな機会は2度とないかもしれない」――悩んだ末、名古屋に残って仕事を受けることにした。バイトをやめ、その会社で営業職として週4回、働き始めた。
マスコミがこのことを聞きつけ、取材に来た。HADで仕事を見つけるという一つの“成功例”として、新聞に載った。
でも実は、仕事を受けたことは後悔していた。会社側が期待していたのは、精力的にオフ会をこなし、人脈も広い“増田のまぁす”。しかし、職場での自分は、シャイで人見知りで、営業は苦手。
増田のイベントなら、みんなに喜んでもらうため、盛り上がって楽しむために、頑張れる。でも、好きでもないものを売るための営業の仕事は、ただただ、辛かった。悩んだ。
「辞めよう」――8月、決意した。
「増田を始めてから、一緒に何かしようと声をかけてくれる人は多くなった。増田内での私は、モチベーションが高くて何でもできる人に見えるみたいで」。
そのイメージは間違っていると、自分では思っている。「本当の私は、思いつきで行動するだけの、何もできない頭悪い子」。一人歩きする“まぁす”のイメージと、自身の自己像とのギャップに、悩むこともある。
それでも増田は大好きだ。増田がきかっけで、友達が増え、イベントを主催し、仕事をもらい、インタビューを受け──想像もしなかった新しい人生が拓けた。増田から受けた恩は計り知れない。
今は、もっとたくさんの人に増田の良さを知ってもらいたいと強く思っている。増田を盛り上げるのに少しでも貢献したいから、イベントを積極的に主催したり、取材を受けたりと、広告塔の役割を自ら買って出る。
――あなたにとって、増田とは?
「新しい世界を切り開いてくれたもの。自分の全く知らなかった、“別世界”に遭遇するきっかけをくれたもの」。
つぎはぎして着る心配なんて全くしなくていいほどに。
ファッション雑誌にはみんな新品が並んでおる。モードである。彼等はみんなナウい。彼等はみんな作られた今のファッションである。
数あるファッションの中から選び取られた似たような者たち。
今のファッションはどんどん変わっていく、この街ではファッションは今で捉えられてしまう。
だからファッションは全部モードだ。困ったことにそうなってしまうと、どんどん買い換えなければ過去のおヨウフクは今のファッションではなくなってしまう。
今のファッションは即ちモードで、今だけそれはファッションなのである。
今の期間がわからないぐらい今のファッションはゆヴぃきたすなのである。
お洋服のとっかえひっかえも素早くしないとお店のラインナップからは外れ、それを買うみんなのラインナップからも外れていく。
これは事実で。孤独であり、みすぼらしく感じる。私はなんでパリっパリのお洋服を着ないの?いっつもそんなことを考えてしまう。
買えないことはない、だから買うのだ。ほら、みんなと同じだ。私はファッションになった。
そうしていくうちに全てのお洋服とスタイルがFになる。
Fashionになるのだ。
はてなは技術系の面も持ち合わせてはいるが、どんどん普通の人たちが流入してその匂いはどんどん薄れている。
一方、日本におけるGoogleにその側面は当てはまるが、まだまだYahoo!という大衆色の強い存在に悩まされている。
見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快な生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやりと発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブな信仰・呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんのレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味で死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味がほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティストの実験用人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオンは社会的だ。カブトムシは社会的だ。カカオは社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲや保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫と野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタのメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄の存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。
わざわざ人を区分けして、「なんとか文化圏」とか「なんとか派」とか言ってる人、全然関係ないところから急に「まとめてみた」とか記事を書く人って、結局自己がしっかりと確立してないんだと思う。
たいていそういう分類をしたがる人は、自分が属するグループを優れてるほうにする。あるいは「こんな低レベルな争いには自分は加わらない」ことを「まとめ」というメタ視点に立つことで気取っている。他者と区別することでしか自分を認識することができない。他者を見下すことでしか自分の存在意義を見出せない。そもそも、大声で叫んで誰かに話を聞いてもらわないと、自分がここにいるのかどうかすら不安になる。
そういう「おこちゃま」には確かにインターネット・ブログって福音だ。特にはてなは、はてブという、ブックマークされる側にはブクマ数、ブックマークする側にはお気に入り登録の数という、自尊心を刺激する仕組みが整っているので、承認欲求を満たしたい人が寄ってくるのだろう。
いまどきほとんどはてな周辺でしか聞かれない「ネットはリンクで成り立ってて、便利な情報を繋げるのが目的」という話(それを大上段に振りかざす論調)も、結局は自分がリンクする・されることで、「ほらボクこんなに便利なリソースを作ったんだよ!」と誉められたいというのが第一の理由なんじゃないかね。
「ブログは書けば書くほど自己不安が高まり、攻撃的になる」という研究もある。リンクが大事だと思うのって、WWWの思想を知ることによってではなくて、それがどんどん自尊心を満たすための手段として重要度が増してくるからじゃないのか。
ポケットベルという物をまわりのみんなが持ち始めた。何だかコソコソと取り出しては、足早に電話ボックスに駆け込んで凄い早さで交信していた。でも、あんな小さい画面に数字の語呂合わせでやりとりできることなんてたかが知れているので、たいして気にも留めないふりをしていた。
やがて、連絡が付かないからと言って半ば強制的にポケベルを持たされた。知らない間に漢字まで表示できるようになっていて、びっくしりて、正直ちょっとうれしかった。でもまわりのみんなは携帯を持ち始めていた。何処にいても電話がかかってくるなんて、どうしてそんなことに耐えられるのかが不思議でならなかった。
あっと言う間にポケベルを持っているのは私だけになって、困ったことに公衆電話が見る見る減っていった。まわりのみんなはいつも携帯で楽しそうに話していた。不意にかかってきてそのまま歩きながらしゃべる内容なんてどうせ大したことはないということにして、敢えて携帯を持たない変わり者のふりをしていた。
そのうち、連絡が付かないのは困ると言って、無理矢理携帯を買わされた。顔をしかめながら受け取って、人前では極力出さないようにした。嬉しそうに画面を触ったりしているのを見られるのを避けるためだ。持ってみると電話は単なる電話に過ぎず、特別に楽しい話ができたりするわけではなかったし、あの楽しそうな人たちの仲間入りができた気もしなかった。
インターネットを始めたのはまわりの人より早かった。パソコンのメールというのがどんなに便利かを力説して回ったけど、あんまりみんな興味がなさそうだった。自己紹介のホームページも作ってみた。でもすぐに書くことが無くなって、でもこれは名刺みたいなもんだからまあいいんだろうと思うことにした。
しばらくすると、みんながケータイの画面をのぞき込んでばかりいるようになった。ケータイでメールなんて、打ちにくくてしょうがないしあんな読みにくい画面でするやりとりなんてたかが知れている。やっぱりメールはパソコンでするもんだよ、大体ケータイ見ながらニヤニヤしてるのって不気味じゃん、とケータイのメール機能を使うことを拒否し続けた。
今度も、ケータイのメールで連絡が付かないと不便だからと、また無理矢理メールを使わされるようになった。ワクワクしながらメールを送ったり受信したりしたが、やっぱりあの楽しそうな人たちの仲間入りができた気はしなかった。
パソコンのホームページはずっと放置していたが、ブログというものが流行りだして、いろんな人が楽しそうに書いていた。お互いやりとりできるようにもなっているみたいで、どんどん繋がっていくのが面白いよ、とみんな言っていた。でも特に世界に対して言いたいことは無いし、用事があるならメール送ればいいじゃん、と言い続けていた。
去年、絶対面白いって、といいながらお節介な知り合いが懇切丁寧にブログの開設と使い方の説明をしてくれた。渋々のふりをして、毎日更新した。まわりのみんなは読んでるよとは言ってくれたけど、思ったよりコメントは付かなかった。やっぱりあの楽しそうな人たちにはなれなかった。
最近、まわりのみんなのブログの更新が滞りがちになっている。みんなmixi日記の更新で忙しいらしい。mixiをやっている人たちはみんな楽しそうだ。もうじきまた無理矢理mixiに入らされる気配だ。でももうたくさんだ。入っても、きっとあの楽しそうな人たちの仲間には入れない。そう思うと自分でもびっくりするほど強烈にイヤだ。悔しくて堪らない。あの楽しそうな人たちが、次ぎに行く場所は何処だろう。先回りしておけばいいのかな。そうすれば仲間になれるのかな。
とても良い記事だったので転載しました。
ここからの二次転載を禁止します。転載は転載元からがマナーですよぉ♪
荒らしは絶対に禁止!
たとえば料理が上手な人が、ウィスキーを使ってなにか料理を作ったとする。隠し味程度に使えば、食べた人は「美味しいなあ、変わった風味だな」としか思わないだろうし、ある程度の量を大胆に使えば「あ、なにか癖のあるお酒を巧く使っているな」と思ってくれるだろう。超絶に料理上手な人がたっぷりと使えば「すげえ、ウィスキー使うとこんなに美味しい料理が作れるのか!」と感動してくれるだろう。
さて、今度は料理が下手な人がウィスキーを使って料理したとしよう。使用量が少なければ、食べた人はただ「不味い」としか思わないだろうし、量が多ければ「不味い上になんだこれウィスキー使いすぎ」と思うだろう。
もうおわかりかと思うが、上記のウィスキーにあたるものが、ここ最近ではすでに原義を離れて「中二病」とか「邪気眼」とか「エターナルフォースブリザード」とか呼ばれているものの正体である。
それはただの食材に過ぎない。ここで言われているようにそれ単体を重要なパッションとして誇るべきものではないし、かといってそのさらにリンク先でなされているようにそれ単体で非難すべきものでもない。大量に使えば目立つし、それが不味ければさらに悪目立ちするというごく単純な事実があるだけだ。試みに、その「痛い設定」とやらを「共産主義的思想」とか「ミリタリー蘊蓄」とかに入れ替えてみるといい。まったく同じ図式ができあがるはずだ。
二つ理由がある。一つは、「だれでも一度は考えたことがある」という共感の呼びやすさだ。邪気眼コピペはこのむずがゆく恥ずかしい共感を介して爆発的に広まった。単に「あるあるw」と笑い飛ばすギャグだったはずが、作品への非難に使われるようになった、その変節の根底には、「だれだって考えつくのだから安っぽいだろう」という認識がある。
そして理由の二つ目は一つ目から導かれる。「だれでも一度は考えたことがある」がゆえに、実際にこれを使用してなおかつ不味い作品が(ことにネット時代のこんにちでは)大量に流通しているという事実である。
だから、料理を食べずにレシピだけ見て非難したい輩はこういう愚かな帰納を行ってしまうのである。
↓
今さらこんなことを言うまでもないだろうが、だからクリエイター諸氏は安心してエターナルフォースブリザードで相手をどんどん殺していただきたい。こと娯楽に関して大衆は我々の想像よりもはるかに味がわかる。うまければ受け入れられるしまずければ拒絶されるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20070114141116
格差っていうのが稼いでいる額だとするとね、今稼いでる人は高齢で、稼いでないひとが若年。
だとすると、若年の人は将来的に稼ぐ可能性があるし、高齢の人は引退しちゃうから実際格差社会なんてわからないわよね?
こんなことがいいたいんじゃないかしら。
でも、これって世代間の格差よね。
本当の格差社会は賃金で使役されるサラリーマンと自由にお金を使えるオーナー層との事を言うと思うのよ。
サラリーマンで年収一千万はすごいけど獲得資産は賃金でしかないの。
するとどんどんオーナーと格差が開いてしまう。
それが格差社会なの。
はまち<はまち2<メジロ<ブリ これが格の違いよ。
ちょっとズレた話題だってのは承知の上で。
あくまで聞いた話だが、前述の『あるある』や『おもいッきり』、そして『ためしてガッテン』や『伊東家の食卓』といった番組は、こうした生活関連商品のバイヤー部門の担当者は欠かさずチェックしているのが常なのだという。真偽のほどは定かではないが、さもありなんと思わせる話である。
ここに出てる番組の中では『ためしてガッテン』が一番信用できるかな、と思う。程度問題ですが。
食品系では健康効果を誇張する場面がないとは言えないけど(「最新の論文では」っていうのが多いのはちょっと気になる。評価が定まってない段階のものも結構あるんじゃないかなぁ)、基本的になんらかのデータは提示するし、該当する実験データがない場合はちゃんと「ない」というし。
ためしてガッテン:過去の放送:不思議食材シリーズ[1] 期待の新健康食! 寒天の不思議パワー
過去の放送内容に関してフォローがあるのも好感が持てる。
ためしてガッテン:過去の放送:500回記念!徹底検証・血液サラサラの真実(?にお答えしますではないけど)
科学との関わりで行くと最近(っていっても半年前になるのか)環境ホルモンについてやってたのが印象に残った。
ためしてガッテン:過去の放送:?にお答えします 環境ホルモン
(0:34追記)
( ;^ω^)<へいわぼけ: 「否定の論文がないから肯定した」 “納豆”で血液サラサラは嘘 「あるある大事典」とNHKのトリック
こんなん見つけてしまった。
「ためしてガッテン」は納豆の血栓防御効果があるかのように視聴者に思い込ませてきた。
納豆に関してはためしてガッテンのサイトで検索してもそれっぽいのは出てこなかったんだけどなぁ。
ためしてガッテン:過去の放送:常識大逆転! 体脂肪の新改善術
これかな?あるあるのナットウキナーゼってのとは別の観点みたいだけど。
(さらに追記)
( ;^ω^)<へいわぼけ: 「否定の論文がないから肯定した」 “納豆”で血液サラサラは嘘 「あるある大事典」とNHKのトリックの元ネタを読んだ。
◇「納豆で血栓が防げる」と宣言した「ためしてガッテン」
http://anond.hatelabo.jp/20070110192233
てゆーかまあそのとーりなんだけどさ。どんどん下から入ってきてくれればいいんだけど、やめる人もいるしさー。部下の指導でイッパイイッパイだよ。海自結構キツいし。そこそこの年で幹部になれたとしても定年早いもん。ある程度の出世で子供養えればいいや、って人多いと思うよ。
ある程度満たされていた人間にいい加減な自由を与えたら何が起きたのか。
僕が受け取っていた自由は駄目になるほうの自由の方だけで、前々から良くなる方の自由は与えられていた。それはむしろ前の世界でも推奨されていた。前の世界の方がその意向は強かった。
こっちの世界じゃ駄目になる自由もまた推奨され・喧伝されている。
阿呆な僕にいい加減な自由を与える頭のいい人達を僕は憎む。阿呆を阿呆へ近づけるだけだ。頭のいい人たちを頭のいい人たちへ近づけるだけだ。
僕はどんどん本当の幸せから遠ざかっていく。そうか、彼等は阿呆な僕らの相手をするのが・面倒を見るのが嫌でこういう自由を彼等にも僕らにも与えたのか。
僕らは人生を捨てて、彼等はその分人生を得たんだ。僕らの得たものは大きな不幸で、彼等の得たものはちょっとした幸せだ。
でもそれはイコールだったのだろう。
↓
http://anond.hatelabo.jp/20070109224928
↓
http://anond.hatelabo.jp/20070110021746
SBMって、チェック行為になるんだよ。
出勤簿や、スタンプカードやスタンプラリーみたいなもんと、同じような心理作用がある。
ポイントはコレ 『何かやった気になる』ってこと
読んで理解して新たな知識や新たな思索を得られる人、得られれば満足な人なんて
一部の教養があり洗練された人達だけ。大多数はラジオ体操よりハンコが重要になってくる。
わかりやすいから。何を得たか?何をしたか?って問いに、答えやすいから。ブクマしたよ。タグつけたよって。
でも、ブクマのほうが大事になってくるタイプの人は、どんどんどんどん読まなくなっていく。
読むという行為の持つ魅力よりも、ブクマという行為のほうが報酬としてわかりやすいから。
で、そういうブクマ経済でブログを認識してる人が自分のブログなんて持ってたら、既にまともに書けなくなってる。
被ブクマを報酬と認識する回路になってるから、書くという行為そのものが持つ魅力や満足感を報酬と感じにくくなるからね。
上記のような理由で、ブクマは馬鹿をより馬鹿にする危険性がある。
よって、違法にすべきだと思うのであります。