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はてなキーワード: 闘牛とは

2015-09-18

戦争法案ではない犬法案

今回の法案について本質議論をしない野党にはほんとうに頭が下がる

与党には信じられないくらい頭のキレる戦略家がいる前で、

野党戦争法絶対反対と歌い続けるおばさんらの姿は子猫か盲な闘牛のようだ

では要点を順を追ってみる

この話の重要な点は日本世界の変化にどう対応するかという流れにあるという点だ

アメリカ世界戦略的の変更

 ↓

日本への圧力

 ↓

・2014.7の閣議決定(集団的自衛権行使の決定)

 ↓

憲法解釈変更(今回の法案)

 ↓

・今後、憲法の変更へ?

わかるだろうか?おかしいのだ。順番が

アメリカからまり国民を経由せずに法案が決まるのだ。

これは大げさに言えば立憲主義でも主権国家でも、民主主義でも無くなってしまっているのだ。

そしてそこの不安定さことそが有事の際に最も問題なのだ

与党尖閣や対中を睨んでこの法案を通したいのはよくわかる。

安倍首相気持ちも、八月の談話から十分読み取れる。

しかし今回、先の大戦でのちっぽけなプライドのために、日本は本当に大事プライドを捨ててしまう事になった。

さて、この法案の「当面の」問題点は何か

この法案だと、状況が変化すれば与党が想定していたものと違う使い方ができることだ。

野党らはこれをもって戦争法案だの騒いでいる。

そして野党は見事にここの議論に終始した。

相手の土俵に乗るにしてもあまりにお粗末だ。

本来日本がまず考えるべきは何なのか

2025年中国台湾,沖縄侵略

2030年前後に起こる米中戦争にどう対処するか

このあたりだろう。

日本仮想敵国として中国がいて、残念ながらこの近未来予想は濃厚に避けがたい現実になりつつある。

しかし、それに対しどう対応するかを模索する時間もまだ残されている

そしてそれをこそ真剣に話し合わねばならない。

もしアメリカが飲めない要求をしてきたのなら、それに応じるかアメリカと距離を置くことにするかを議論しなければならないのだ。

その道以外の選択肢も考え、議論模索しなければいけないのだ

しかしたら、

日本自身が核を持って抑止力を発揮する手もあるかもしれない

しかしたら、

各国が自国利益より全世界の人の命を優先しようと世界に呼びかける方法だってあるかもしれない

しかしたら、

EU同盟を結んで、三つ巴で世界バランスを保つ手もあるかもしれない

戦争入り口を潰すためにロシア韓国周辺国との関係改善しておく事だって必要だろう

しかしたら、

中国サイドにくみする方法だってあるかもしれない

やっぱりアメリカがいいかもしれない

そういった議論があって必要があれば初めて憲法を変えればいい

アメリカに言われて圧力国民を経由せずに、アメリカに嫌われたくなくて日米同盟の強化なんて笑わせる

この法案

今後日本米国につく以外に選択肢が無くなる事を意味し、

米国の言うことの拒否不可能になることを示しているのにだ

今回は世界の中心はアメリカじゃなくなるけどおまえどーすんの?って世界の潮流において、

国民議論なしにアメリカに愛ではなく忠誠を誓う事になったのだ

私としては、日本主権国家ではないのだと、ハッキリさせられた事が悲しく残念だ

2015-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20150617112518

捌(さば)くスキルがないと食べられる状態を想像できないよね。

???想像力がないのかな???

わかったよ。極端な例を出して論点がずれたことを認めて謝罪します。

要は「キャラ付けアピールがうるさい」ってことだ。

周りに誰も居ない時は俺が相手しなきゃいけないだろ。

俺も「食いしん坊だなぁ」ってニコニコ笑ってろっていうのか?そんなことできるくらいなら、増田なんかに書いてねぇぞ。

かといって「お前はあの魚を捌いて食えるのか?魚みたいな顔しやがって」なんて言わないよ。

想像力が豊かですね」とも言わねえしな。

だって、加工後の形態想像しろ と言われりゃできるだろうさ。

刺身食べた直後に水族館に行けば、そりゃ考えちゃうだろうさ。

逆に仔ブタレース見た後にトンカツ出されたら複雑な気分になるだろうさ。

知り合いの板前さんが「泳いでる魚を見ても『どう包丁入れるか』『どう盛りつけるか』を考えてしまう」って言っていたんだよ。

それくらい毎日魚を捌いていれば、そりゃあそういうこともあるだろう。


そうじゃなく普段の女子自称)が、泳いでいる魚を見て、調理された状態が目に浮かぶのか?ってこと。

闘牛を見て牛丼想像するか?

競馬を見て馬刺し想像するか?

三匹の子豚を聞いて生姜焼き想像するか?

俺なんかアンパンマンアンパンってことすら意識しないことあるからね。





っていうか何でふりがな振ってんの?読めなかったの?

常用漢字じゃないから。落ちてるからって何でも拾うもんじゃないよ。

2014-12-27

画像検索なんかで、ぼやっとしたイメージ動物を探したい時の備忘録

学名だとヒットが少なかったり、学術的に正しいがゆえに、出てきてほしいものが出てこないことがあるので

canine: 犬っぽいやつら

vulpine: 狐っぽいやつら

feline: 猫っぽいやつら

mustelid: 細長い肉食なやつら

rodent: 鼠っぽいやつら

prosimian: 猿のなかでも、いかにもな猿顔ではないやつら

cow: 牛乳を出しそうな牛

bull: 闘牛に出てきそうな牛

bison: 肩がごっついワイルド感ある牛

buffalo: 角がごっついワイルド感ある牛

antelope: スリム系のワイルド感ある牛

出てきていないものは、そのまま英訳でいけるか、特定動物名が代表してるパターンが大体

2014-06-24

年金制度破綻・縮小させるのと、移民日本人絶滅させるのどっちがマシなの?

日本の金の八割を持っている老人世代に、更に年金制度医療制度で金を渡す。

そりゃあ若者結婚できないわ。

フルタイムで働けば子供は育てられないし、フルタイムで働かないと子供を育てる金がない。

正直、医療年金を縮小して、フランスのように子育て政策をするべきだよね。

子供産んだら子育てオムツとかを無料にすると。

ヨーロッパのように福祉を重視しすぎて、貧乏移民につけいれられるぞ。

スペインみたいに闘牛が禁止になってたり、ノルウェー首都犯罪発生率ニューヨークの4倍になったり、イギリスではイスラム法勝手に持ち込んで窃盗の罪で手首を切り落とすとか言ってるし、ロンドンは2066年にはイスラムが多数派になり、イギリスサブウェイでは豚肉を全店舗撤去ブロンド白人は五十年後には絶滅するっていうし。

日本とんこつラーメンやら無くなる日がくるかもな。

中東みたいならいい。政治的権利福祉は一切与えない。これを徹底できればな。

2012-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20121114201431

闘犬闘牛闘鶏

異種ならハブvsマングースあたりがあるが

最近動物擁護から風当たり強くなってるらしい

今後存続できるのかどうか

2010-01-14

巻物の第3巻

私は、成功するまで頑張りつづける。

当方の闘牛を行なう国では、闘牛用の若い雄牛を選びだすとき、次のような方法で、その能力を試される。牛は競技場へ引きだされ、闘牛士の槍で、軽く突つかれるのである。勇猛な牛は、闘牛士を攻撃する。牛は何回も突つかれる。このときの、牛の反撃のありさまを見て、闘牛用の牛としての等級がつけられる。

刺された傷にもめげず、何回も反撃した勇猛な牛のみが、闘牛用の牛として選びだされるのである。

これより、私は、これと同じ方法で、毎日、人生そのものに試されるのだ。いかに傷つこうとも、いかに血を流そうとも、私が頑張り前進しつづければ、私は必ず成功する。

私は、成功するまで頑張りつづける。

私は敗北するために、この世に生まれてきたわけではないし、失敗が私の血管の中を駆けめぐっているわけでもない。私は羊飼いに鞭うたれるのを待っている羊ではない。

私はライオンである。私は、羊たちとともに、話し、歩き、眠ることをきっぱりと拒絶する。私は、泣きごとを言ったり、愚痴をこぼす者の言葉を聞かない。なぜなら、それは伝染性の病だからである。彼らは羊とともにいるがよい。私は、失敗という名の屠殺場へ引かれていきたくはないのである。

私は、成功するまで頑張りつづける。

人生栄光は、それぞれの旅の終わりにあるのであって、始めたばかりの地点にはない。そのうえ、その目標地点へは、何歩で到達できるのか、私には知るよしもない。千歩あるいて後、私は失敗と出会うかもしれない。しかし、次の曲がり角の向こうに、成功は隠れているのかもしれないのだ。だが、その角を曲がらないかぎり、何人も、そこに成功があるかどうかは、けっして知ることはできないのである。

私にできることは、ただ、次の一歩を踏み出すことだけである。ゆえに、私はつねに次の一歩を踏みだす。その一歩が、無駄な一歩であろうと、有効な一歩であろうと、それは私の関知するところではない。

事実、一度に一歩だけ踏み出すことは、そう難しいことではない。問題は、それをくり返せるかどうかである。


巻物の第2巻

http://anond.hatelabo.jp/20100111191057

2009-01-30

もずく兄弟VSお歯黒兄弟

「ごめーん、待った? え、一時間遅れちゃってる? ごめんねー。電車がさ、もう行っちゃっててね、ひどいのよ。今日湿気がすごいでしょ、湿気。髪が巻いちゃって巻いちゃってセットしてても全然まとまんなくて、もうホントどうしようかと思っちゃってたけどすんごい急いで家を出たらもう電車待っててくれてもいいのに、いっちゃってるし。最悪ぅって感じよねー。それでさ、この前ね、合コン行ったじゃない、合コン。あの時に東大オタクみたいな人いたでしょ。ちょっとブサイク入った感じの。アイツからメールが来てさ、チケットが余ったから一緒にいきませんかとかメールしてくるわけよ。そりゃやっぱあの時の合コンでは一番アタシが目立ってちゃったっていうのは仕方ないけど、それでもいきなり誘って来るかなー。でもさー、そのチケットっていうのがなんか変なプロレスみたいな試合なのよねー、兄弟統一トーナメントとかいう聞いたこともないようなの。もう少しロマンチック映画とか、コンサートとか普通は最初誘うでしょ、最初のデートって雰囲気が大事じゃない? やっぱり、オタクっぽいからそこまで気が回んないのはしょうがないのかなー。ブサイクだけど、東大だからまあ許してあげよっかなーって思って、OKしたのね。 日東駒専あたりだったらたぶん断ってたけど。慶応だったら悩んだかな、悩むよね、普通。それで会場の前で待ち合わせしたんだけど、アイツって、もうそれは山にでも登るんですか? みたいなオタファッションで来るわけよ。うわ、これでおしゃれなの? と思ってちょっと目の前が暗くなったんだけど、まあ、教えてあげればファッション改善できるからそこは目をつぶってあげる事にして、会場に入ったわけ。なんか闘牛でもするような会場で、真ん中にロープの張ってないリングみたいのがあってね、そこで兄弟が対決する試合なんだとか解説してくるのよ。ああ、もうこれは本当にオタクなんだな、マニアなんだな、って思いながら試合が始まったんだけど、これがもうひどいの。どっちかの人がどっちかの人をボコボコに蹴るの、もう容赦なしに。アタシその時、思ったわ、いきなり最初のデート女の子にこんなの見せる? コイツってオタクはまだしも絶対血液型B型だなって。B型ってマイペース過ぎるのよね。ねえ、ねえ、アタシって血液型何型だと思う? え? B型? 冗談ばっかり。アタシいつもはA型ってよく言われるんだけど、実はO型なの。やっぱり几帳面に見えちゃうんでしょうね。でね、そのボッコボコに蹴られてた人が蹴ってた人の足を捕まえて、いきなりこう、ばーんっ!ってそのままリングに投げたの。もうすごい迫力。そしたらさ、アイツが言うわけ。『出た、カウパースープレックス』って。カウパーだよ、カウパー! たぶん、語源から言うと我慢して我慢して出す、みたいな技だと思うんだけど、私その時思ったの、たぶん、これを言いたいからアタシをこの試合に連れてきたんじゃないかって。ちょっと下ネタっぽい言葉を言ってその気にさせといて、そのままの勢いで最後まで行っちゃおうみたいな下心で誘ったんだって。よく見ると、顔はそりゃ確かにブサイクオタクっぽいけど、体は大きくてがっしりしてるっていうか。たぶん、脱いだらすごいんですみたいな。腹筋割れてますよみたいな。想像してたら、だんだん恥ずかしくなってきちゃって。まあ、ブサイクは慣れるって言うし、東大だし、オタでもいいかなー、でも最初から許しちゃったら軽く見られそうだけど、まあ、いいかなーとか思ってたのよ。そしたらアイツったら試合が終わったら、『いやー、すごかったねー、じゃあ!』とか言ってそのまま帰りだすのよ。どう思う? え? どっちが勝ったかって? 確か・・・もずく兄弟? いや、それはどうでも良いのよ。その気にさせといて、失礼にもほどがあるでしょ、そのまま帰るとか。ありえないわよ、ホント。絶対後悔するんだから。え、キャプチャード・スープレックス? 何それ?」

http://anond.hatelabo.jp/20090130003129

http://throw.g.hatena.ne.jp/sasuke8/20090128/p1

2009-01-12

http://anond.hatelabo.jp/20090112230456

放置安定という言葉を君に送ろう。

もっと言えば、ネット口論でどっちが勝った負けたなんて実際わけわからんし、無意味だからやめとけよと。

 

2ちゃんやらなにやらだったら、マジ相手しても意味無いから放置。言い争いしたいなら別だけど。

ブログやらサイトやらやってて、女に粘着された場合、あまりに空気を悪くする発言が多ければアク禁にしちゃう。これは男でも一緒だけど。

mixiだったら最初から戦う気で応対しない。

とりあえずこれがド安定。

 

どうしても戦いたいってんなら、闘牛みたいなもんだ。感情的になったら100%負けるよ。

相手が言いたいことを汲んだフリして数レス、数トラバだけ返して後放置の「はいはいワロスワロス」戦法とか

理詰めで封殺して発狂させて、周囲を「あ、女性の方がイタいのか」と思わせて味方につける戦法とかがぱっと思いつくやりかたかなぁ。

「アテクシの勝ちね」と思わせときながら、客観的に見ればガン負けの状態に持ってけたら御の字でしょう。

 

ちょっとは聞いてあげる余裕が無いとなだめるとかムリだよ。

2008-08-07

偶蹄目オタが非オタ彼女に偶蹄目世界を軽く紹介するための10頭


インスパイヤ元 - アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本cf.「○○世界軽く紹介する10本」テンプレまとめ


まあ、どのくらいの数の偶蹄目オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、

「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない偶蹄目の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、偶蹄目のことを紹介するために見せるべき10頭を選んでみたいのだけれど。


(要は「天才!志村どうぶつ園」の正反対版だな。動物バラエティの道具に使って笑いものにするんじゃなくて、相互のコミュニケーションの入口として)


あくまで「入口」なので、紹介するのに過大な負担を伴う5メートル、10メートルの偶蹄目は避けたい。

できれば中型、長くても2メートルにとどめたい。

あと、いくら偶蹄目に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。

偶蹄目好きが 「『オカピ』はキリンと同じワンダネット(網目状の毛細血管)がある」 から進化歴史を理解するために外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。


彼女の設定は

偶蹄目の知識はいわゆる「動物バラエティ」的なものを除けば、NHK動物番組程度は見ている

サブカル度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。


アミメキリン

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「キリン以前」を濃縮しきっていて、「キリン以後」を決定づけた(※ビール業界の話ではありません)という点では外せないんだよなあ。心臓から頭までの高低差が2メートルだし。

ただ、ここで偶蹄目オタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な種について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報(「キリンはときどき小鳥も食べる」とか)を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。


リャマ、アルパカ

アレって典型的

オタクが考える一般人に受け入れられそうな偶蹄目(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの、

という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、

それを彼女にぶつけて確かめてみるには、一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

「偶蹄目オタとしてはこの二つは“家畜”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。


ウシ

ある種の偶蹄目オタが持ってる動物への憧憬と、農林水産省のオタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも家畜

童貞的なださカッコよさ」を体現する闘牛

童貞的に好みな女」を体現するホルスタイン

の2種をはじめとして、偶蹄目オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。


マッコウクジラ

たぶんこれを見た彼女は「あれ?当然クジラ目だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の種がその後続いていないこと、これがアメリカでは大人気になったこと、アメリカなら捕鯨スポーツになって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、現在世界中捕鯨に反対されてること、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。


ムース(ヘラジカ)

「やっぱり偶蹄目はどこか迫力に欠けるよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「アジアスイギュウ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この角にかけるムースの思いが好きだから。

断腸の思いで削りに削ってそれでも2メートル、っていう角が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

ムースの角の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれがレイヨウやカリブーだったらきっちり1メートルにしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて2メートル分を作ってしまう、というあたり、どうしても

「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク

としては、たとえムースがそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。角自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。


アメリカバイソン

今の若年層でバイソンの群れを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

新大陸発見よりも前の段階で、偶蹄目の楽園とか自然の豊かさとかはこの時代で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティ自然現在は近代的になってしまったアメリカにもあったんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく偶蹄目好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆる保護区でしかバイソンを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。


ホンシュウジカ(奈良公園

奈良公園の「鹿」あるいは「鹿の角きり」といった丁寧な管理体勢をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。

「終わらない観光客の群れを毎日眺めてる」的な感覚がシカには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアニメ版らき☆すた』で柊つかさ奈良公園のシカに襲われたのだとも思う。

観光名所化した日常を漫然と生きる」というシカの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「シカの気分」の源は「鹿せんべい」にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。


ヒツジ:メリノ種

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういう毛を刈るために飼育されてる家畜を、さらにこういうかたちでジンギスカン鍋にして、それが非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。


キョン八丈島

9頭まではあっさり決まったんだけど10頭目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にキョンを選んだ。

キリンから始まってキョンで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、がきデカ以降の偶蹄目時代の先駆けとなった種でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい種がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10頭目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。



「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。



追記

2008-07-15

わが子を自分探し病から守る 前編

あなたも私も自分探し

あなたに漠然とした質問をひとつします。

深く考えずにとりあえず答えてみてください。

「答えはどこにあると思いますか?」

本当に漠然とした質問で戸惑ってしまったかもしれません。

でも、答えてください。

反射的に出てきた言葉でいいので何か答えてください。

何となく決まり文句で出てきた言葉でいいので答えてください。

答えましたか?

これは自分探し病にかかっているかどうかをチェックするテストです。

「自分の中にある」と答えたあなた!自分探し病にかかっています。

このテストは、速水健朗自分探しが止まらない」を読んで、私が勝手に考えたものです。かなり精度の高いチェッカーだと自負しています。実際の自分探し患者である自分自身の病理をよくよく観察して考案しました。

自分探しが止まらない」を読んで、自分自身が自分探し病にかかっていることを認めざるを得なかったのです。不本意ながら。

でも、病を自覚できたおかげで、最近悩んでいたことがすっきりしました。

娘の教育にあたっての妻との衝突の悩みです。

「これだけは誰にも負けないという何かを、何でもいいから持つべし!」というのが、娘の教育にあたっての私の方針でした。決して突飛な考え方ではないと思います。

しかし、これを聞くと妻はため息をつきます。そして言うのです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

たしかに妻は、勉強や運動で飛び抜けた成績をあげたこともなく、これといった得意分野もありません。何かの趣味に熱中することもありません。

では、どうして妻は、私にとってかけがえのない存在なのでしょうか。

そして、娘の教育方針はどうしたらいいのでしょうか。

現在子育て世代は、深刻な自分探し病世代でもあるように思います。自分探し病でわが子まで不幸にしないために、私の考えをまとめてみました。

あいのり」に漂う時代の空気

自分探しが止まらない」では、我々の世代はみんな、自分探し社会から強制され続けてきた世代であることを、様々な事例から明らかにしていきます。

我々の世代というのは、「あいのり」世代として区切ることができます。青春時代に放送されていた恋愛バラエティー番組が「あいのり」であるという世代です。比較して語られるのが「ねるとん」世代。

私は「あいのり」世代です。そして、「あいのり」の本質恋愛バラエティーではなく自分探しバラエティーであると、「自分探しが止まらない」は分析しています。

私は「あいのり」という番組が大嫌いですが、好むと好まざるとにかかわらず、時代の空気というものは誰もが影響を受けてしまうものです。そして、テレビ番組時代の空気を映す鏡です。極論すると、我々の世代の全員が自分探し病の患者か予備軍なのです。

ねるとん」のキーワードは「三高」、「あいのり」のキーワードは「本当の私」、ここに世代間の意識の違いがくっきりと現れます。

高身長高学歴高収入」と恋愛成立の条件を「相手」に求める「ねるとん」に対して、「あいのり」は「本当の私を分かってくれる人」といった具合に、一見すると相手に求める条件のようでいて、じつは「自分」の内面的なことがすべてであるという違いです。

就職恋愛自分探しの「あいのり」世代

私たち「あいのり」世代は、徹底した自己分析によって自分の適性にぴったりの職業を見つけて、その職業に就くことによって初めて幸せ社会人になれると刷り込まれ続けてきました。

というか、刷り込まれてきたという自覚もありません。仕事自己実現であり、答えは自分の中にあるのであり、就職活動=本当の自分探しであるという考え方に疑問すらわかない状態です。

自分探し病が重症になると、恋愛についても同じ考え方をしてしまうわけです。恋愛=本当の自分探しであり、やっぱり答えは自分の中にあると考えるのです。

常に本当の自分とやらを見つめ続け、

「よくよく考えてみたら、私にはこんな一面があると気づいたの。だからあなたとはお別れね。あなたが悪いんじゃないの、あなたを選んだ私は、まだ本当の私じゃなかっただけなの。」となるわけです。

ファンタジーのつもりだった「個性重視教育

問題をややこしくしているのが、この考え方が「あいのり」世代特有の奇妙なものであることを自覚するチャンスが無いということです。「自己分析」という自分探しキーワードを「あいのり」世代が口にしても、スルーされてしまうという罠があるのです。

罠のポイントは、「あいのり」世代の奇妙な考え方にお説教のひとつくらいしてもよさそうな50代から60代あたりの世代こそが、私たちに「個性重視」教育を施した当事者であるということです。

その世代の人たちは、ある種のファンタジーというか、ものの考え方の振れ幅の片方として教えていたつもりで、まさかそこまで本気で私たち世代が信じ込んでくれているとは思ってもいないのです。

(没個性・画一教育へのアンチテーゼという意味での)「個性重視教育

をやっていたつもりが、いつの間にか括弧書きの部分が取れて、

「個性重視教育

になってしまったのです。

ファンタジー現実になってしまったわけです。バリバリの没個性・画一教育を受けて育ってきた世代には、どうにも実感の湧かない現実でしょう。自分たちが目標に掲げて実現した世界なのに。

だから、「自己分析」というキーワードを「あいのり」世代が口にしたところで、そこに信仰にも似た過剰なまでの熱量が含まれているとは思ってもみません。文字通りの意味で受け止めて、微妙にずれた言葉キャッチボールが成立してしまうのです。ある程度の「自己分析」が就職活動に必要なことは間違いないのですから。

相当に丁寧な言葉キャッチボールをしないと、この微妙な、だけどとても大きなずれに気付くことは出来ません。

議論を台無しにする認識のずれ

このような「自分探し」をめぐる世代間の認識のずれは、自分探し病についての建設的な議論を台無しにしてしまいます。

50代から60代あたりの世代は、まだマシです。我々「あいのり」世代が抱えている「自分探し」観を懇切ていねいに説明すれば、

へぇ?、そんな風に考えていたんだね。思っても見なかったよ。」と素直に受け止めてくれる人も少なくありません。

問題は「ねるとん」世代です。「ねるとん」世代は、「自分探し」がブームになった世代なので、「自分探し」について自分たちの世代もよく知っているつもりです。「深夜特急」が青春時代に刊行され、そのマネをして旅に出たという友達がまわりにたくさんいた世代です。

だから、自分探しについて自分なりの考え方を既に持っています。そして、それを語り尽くしたら、議論をおしまいにしてしまうのです。

自分探し?そんなものは俺が若い頃にもあったし、俺もかぶれた時期があった。あんなものは一種の通過儀礼で、いつまでも自分を探しているやつは甘えているだけなんだよ。」みたいな感じです。

たしかに「ねるとん」世代が青春を謳歌していた頃に「自分探し」はブームになり、「ねるとん」世代も多くの人が自分探し病にかかりました。

しかし、まさに「ブーム」でした。

ねるとん」世代の多くは「ブーム」として自分探し病にかかり、「ブーム」だからこそ、しばらくすると熱は冷めていったのです。

自分探し病がそのまま重症化してしまった人も、もちろんいました。オウム真理教に入信してしまった人などです。ただし、それは特別な存在でした。

しかし、我々「あいのり」世代は、自分探しこそが幸せへのパスポートであると社会全体が大合唱している中で青春時代を過ごしてきました。今の大学生にいたっては、物心ついてからずっとです。

自分探し病の病原菌に、いつか治すべき流行病として感染したのが「ねるとん」世代。素晴らしいワクチンであると学校で接種されて感染したのが「あいのり」世代なのです。自分探し病にかかるということの意味合いが全く違ってくるのは当然でしょう。

そのあたりの認識のずれに気付かないまま自分探しを論じているブログがたくさんありました。

404 Blog Not Found

「探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51003082.html

Baldanders.info

「『自分探しが止まらない』を眺める」

http://www.baldanders.info/spiegel/log2/000376.shtml

どれも、我々「あいのり」世代の自分探し観と微妙にずれた、彼らの世代の自分探し観を前提として持論を展開し、議論を切り上げてしまっているように思えます。

適応しすぎた私と背中を向け続けた妻

自分の病理として捉えつつも、このように冷静に分析できたのは、私が自分探し病にかかりつつも、それほどこじらせないで済んでいたからです。

妻のおかげです。

私と妻、それぞれがまったく違う生き方をしてきたのが功を奏しました。

私は圧倒的な優等生としてずっと生きてきました。常に学級委員を務めていて、勉強も出来ました。しかも、好奇心旺盛で何にでも興味を持ち、個性的と賞賛される発想を、ずば抜けた行動力と調整力によって実現してしまう伝説級の優等生でした。運動神経は全くありませんでしたが、スポーツから逃げるのがしゃくで、中高と運動部に所属して、それなりにこなしていました。

あくまで事実を書いただけですw

より適切に表現するならば次のような感じでしょうか。

キモオタなんだけど、やたらと行動力があって、運動以外のスペックが全般的に高くて、何より精神的なダメージへの耐性がむやみに高いせいで、周囲の微妙空気も含めて力技で引っ張り回して、何だかんだで思い通りにしてしまう人間でした。

要するに、「あいのり」世代が受けてきた「個性重視教育」に、これ以上ないくらいに適応した人間だったのです。学校が楽しくて仕方ありませんでした。

就職するときには、超氷河期の中でしたが、おもしろそうだと思った仕事にすんなりと就くことが出来ました。今も仕事が楽しくて仕方ありません。

一方、妻は、勉強も運動も人並みで、特に何かに熱中することもなく、至って普通に生きてきました。学生時代に何かを成し遂げた思い出も無いそうです。

なんとなくいくつかの会社を受けて、内定をくれた会社就職し、しばらく働いてから寿退社。今は専業主婦です。

要するに、「個性重視教育」に背中を向け続けてきた人間なのです。学校では先生のお説教憂鬱で仕方なかったとのこと。

相変わらず我が道をばく進する大学生だった私が、ひょんなことから出会った専門学校生の妻に交際を申し込んだ理由は、そんな妻の普通すぎる価値観が逆に新鮮だったからでした。

まぁ、正直なところ妻の美しさが最大の理由でしたが、新鮮な価値観に魅力を感じたのも嘘ではありません。妻としても、私のキモオタぶりも含めて、すべてが新鮮だったからOKしたそうです。

私と妻の価値観のぶつかり合い

実際に交際を深めていく中で、かけ離れた価値観をぶつけ合うことが、やはりとても生産的なすばらしい行為であることを知りました。というか、妻がここまで徹底抗戦してくるとは思っていませんでした。

私が積み重ねてきた経歴や、獲得したたくさんの語彙や、膨大な知識に、まったく臆することなく、というか意味を見出さず、ひたすら一つのことを問いただし続けるのです。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

そのあまりにシンプルな問いと向き合ったおかげで、私の自分探し病は悪化しないですんだのかもしれません。

「あなたは私を幸せに出来るの?」

「俺には輝かしい学歴があるからね。」

「あなたの大学卒業生はみんな幸せになれるの?」

「いや、これが結構残念なことになっちゃう人も多くてね。

だけど、俺は違うよ。就きたい職業イメージもしっかりしているし、そこに向けた努力もきちんとしているし。」

「あなたの希望通りの仕事に就けたら、私を幸せに出来るの?」

仕事はおもしろそうだし、お給料は人並みにもらえるらしいし、安定している業界だし、忙しい職場だけどそれなりに家庭生活とのバランスもとれるっぽいから、大丈夫だと思うよ。」

「本当に?」

「たぶん…。」

「私を幸せに出来るの?」

「いや、そう言われると…。これから社会がどんな風に変わるか分からないし、仕事が自分にとって本当におもしろいかは入社してみないと分からないし、それなりに出世するつもりでいるけど、学歴とか関係ない職場だし…。言われてみると…。」

真剣に具体的に考えて、私は愕然としてしまいました。

私にあるのは可能性だけで、何一つ確実なものは無いのです。

輝かしい学歴も、個性的な発想力も、築き上げた人脈も、彼女幸せを約束するための十分条件にはならないのです。いや、必要条件ですらないのです。

三段跳びに例えると、助走で最高に気持ちよく走ってきて、スピードものってタイミングもばっちりだけど、ホップステップジャンプでうまく跳べるかなんて、踏み切ってみないと分かりはしないってことに、初めて気付いたのでした。

走ることと跳ぶことって全く別のことですもんね。うまく助走出来た方が、うまく跳べる可能性が高くなるというだけです。うまく助走できていたのに、うまく跳べないことなんてざらにあります。一方で、助走ではいまいちスピードがのらなかったのに、うまく跳べてしまう人も少なくありません。

更に言えば、ホップステップまではうまく跳べたのに最後のジャンプで大失敗なんて、歴史教科書ではむしろ多数派です。

何はともあれ跳ばなきゃ話にならない

そんな問答を彼女としながらも、私はとりあえず就職活動を進めていて、希望通りの業界内定をもらいました。

しかし、内定を手に大学4年生となった私に、トラブルが発生したのです。勉学以外の活動が面白すぎて夢中になっているうちに、最後の一年でとるべき単位が大変なことになっていたのです。時間割のすべてのコマをパズルのように埋めて、すべての授業で単位を獲得できれば卒業できるという状況でした。

跳ぶことの怖さに気付いてしまった私にとって、そんな状況は、跳ぶのを止めて、とりあえず助走を続けるのにぴったりの理由に思えました。

その年度の卒業は諦めて、もう一度就職活動を仕切り直そうと思ったのです。自分探しを延長するのにぴったりの大義名分だと思ったのです。

三段跳びの踏み切り板が近づいてくると、もう少し走れば、もっといい感じのスピードタイミングになるかもしれないと思えてきたりもするのです。

内定した会社より、重役面接で落とされた別の会社の方がやっぱり自分にあっている気がしてきてみたりするのです。

そんなことを彼女にほのめかしてみたところ、一喝されました。

「何が何でも卒業して就職した方がいいと思う。最初から留年するつもりなんだったら、別れる。

だって、就職留年して別の会社内定したところで、幸せを約束できるわけじゃないのは一緒でしょ。試験勉強応援するからさ。」

彼女がそういうんだったら仕方ないというか、そうした方がいいことは薄々気付いていて背中を押してもらったというか、私は卒業に向けて全力投球することになったのでした。

そして、私は無事に大学卒業して就職し、今に至るというわけです。彼女、つまり妻が一喝してくれて本当に良かったです。

助走って楽しいんですよね。でも、助走はしょせん助走なんです。助走としての個性重視教育にしろ詰め込み教育にしろ、過剰に最適化された私は、走ることがあまりにも心地よかったこともあって、跳ぶことをついつい先延ばしにしてしまうところだったのでした。

たしかに、踏み切り位置がきっちり決まり過ぎていた頃は、それゆえの悲劇もあったのかもしれません。

足のタイミングが踏み切り位置にたまたま合わなくて失敗したとか、もう少し長めに助走していたらスピードがぐっと上がっていたはずだったとかです。

だから最近は、そのあたりの悲劇を無くすために、踏み切り位置をきっちり決めないでOKとする風潮になってきました。

でも、何だかんだ言って、結局は跳ばなきゃ話にならないのです。

「もっと真面目に助走しろ!」と怒られ続けてきた妻にしてみると、それほど意味がないように思える助走なんかさっさと切り上げて、早々に跳んだ方がいいに決まっているのでした。

ということで、妻に一喝されたおかげで、私は自分探し病をこじらせないで済んだのでした。

でも、いまいち問題の本質を理解しないままでいて、危うく娘まで自分探し病的な考え方に押し込めてしまいそうになっていたところを、再び妻に一喝されたというわけです。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!」

「誰にも負けない何か」を求めたくなる理由

「誰にも負けない何か」というのは、私がずっとすがりついてきたキーワードでした。

閉塞感が漂う時代は、多くの人が確実そうなものにすがろうとします。医学部が人気になったり、公務員試験競争率が高くなったり、金相場が上がったりします。

でも、私たちの世代は、「すがれそうな確実なもの」という幻想をことごとくぶち壊された世代でした。

私たちが大学受験をした当時は、医者余りで食いっぱぐれる医者も出てくるなんて言われていました。

学歴は、無くて困ることはあるけど、あったところで何かを保証されるわけで無いことを、みんな知っていました。

大規模リストラニュースが毎日のように流れ、終身雇用の原則は、音を立てて崩れ落ちていきました。

そもそも、大企業自体があっさり潰れる実例をたっぷりと見せつけられました。

かといって官僚も、天下りありきの賃金構造モチベーションが維持されていて、そんないびつな構造を維持できるはずがないと、みんな薄々気付いていました。

そんな状況と、骨の髄まで染み込んだ個性重視教育から導き出されたのが、「誰にも負けない何か」という考え方なのです。

確実なものなんて望めない世の中だけど、それでも望もうとするのならば、努力によって磨き上げられた圧倒的な才能くらいでないとすがりつくことは出来ないという悲壮な認識です。

でもね、そんなものに手が届くはずがないのです。認めたくないですけど。

だから、妻の反撃は私を追い詰めていきます。

「誰にも負けない何かなんて、私には何にも無いよ!あなたにはあるの?」

「Aの分野における、Bという条件での、Cなら誰にも負けない自信がある!」

「随分限定するのね…。そこに需要があるの?」

「ある!…はず。」

「食べていけるの?」

「…いけると思う。」

子どもの学費もあるんだよ。」

「いける…ん…じゃないかな…」

「厳しいんじゃない?」

「まあ…ちょっと…覚悟は…しておいて…」

それなりにスペックが高いと自負している私は、努力さえすれば「誰にも負けない何か」が手に入ると思っていました。でも、ちょっとやそっとでは「誰にも負けない何か」なんて到達できるはずがありません。

そこで、私はニッチ路線をひた走る戦略へと方針転換したのでした。数は少ないけど熱烈に支持してくれそうな見込み客がいて、市場としてこれから成立しそうな分野に、今から開拓者として乗り込んでおこうというわけです。この方針転換自体は間違っていないと思っていますが、もはや「すがりつける確実なもの」というレベルの話でないことを、認めざるを得ません。

というか、「一生安泰」のためには、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」必要があります。一発屋が、むしろ不幸へとつながりやすいことをみんな知っています。かといって、「誰にも負けない何か」を「ある程度維持し続ける」という生き方は、もはや普通人生以上の修羅の道です。

要するに、「誰にも負けない何か」なんて見果てぬ夢であって、それを目指すことは悪くないけれども、それを必ずつかめるはず、それをつかんで初めて幸せになれるなんて考えるのは大間違いだということです。

でも、なにか確かなものが欲しい!

そこで頭に浮かんだのが、「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻が、私にとってかけがえのない存在であるということでした。

どうして妻は私にとってかけがえがないのか

私にとって妻がかけがえのない存在である理由を考えてみました。

私は常に暴走モードに入っています。ふと思いついた楽しそうなことに向かって、闘牛のようにとりあえず一直線に向かっていきます。

そんな私の背中にまたがった妻は、時々私の耳たぶを引っ掴んで大声で叫ぶのです。

「あんたバカぁ!?そっちに行ったら危ないでしょ!ちゃんと前見て走りなさいよ!」

妻を背中に乗せていなかったら、私は壁に激突しまくって瀕死の重傷を負っていたことでしょう。

一方で、私の背中に乗っていなかったら、自力で前に進むのが苦手な妻は、その場に座り込んでため息ばかりついていたことでしょう。

今となっては、これ以外考えられない組み合わせです。

「誰にも負けない何かなんて何も無い」妻ですが、私を操縦することにかけてだけは、誰にも負けないわけです。

一方で、こんなきっついツンデレ妻を背中に乗せていられるのは私くらいだという、妙な自信もありますw

もちろん、最初からこの組み合わせがうまく機能していたわけではありません。長いつきあいの中で、お互いに激しくぶつかり合って、お互いに譲り合ったりしていく中で、何とか作り上げたギリギリのバランスです。

自分らしさの大切な要素だと思っていたものを、それぞれが泣く泣く諦めたりして今があるのです。そして、これからもぶつかり合いは続きます。

そうなんです。ぶつかり合いは続くんです。あらゆる状況は常に変化していくわけで、最高の関係を築き上げたつもりの私たちの間で、微調整どころではないぶつかり合いが、これからも発生し続けることは間違いないのです。

結局は、個人と個人とが直接ぶつかり合って作り上げた関係性の中にしか、確かなものなんて無いというのが私の結論です。そして、それは常に揺らぎ続けるものであって、確かなものにし続けるために不断の努力が欠かせないものなのです。

不断の努力無しには崩壊してしまうものが「確かなもの」であるかは微妙なところですが、わが家では、その程度の「確かなもの」で十分とし、それ以上のゆるぎない何かを求めるとろくな事にならない気がします。

答えはどこにあるのか?

私たちが探し求めている「自分」というのは、結局のところ「存在意義のある自分」なんですよね。

そして、それは「自分の適性を最大に生かして仕事をすること」とか、「誰にも負けない何かを身につけること」とか、「自分のすべてをありのままに受けて入れてくれる恋人と出会うこと」とかではなくて、「大切にしようと決めた人と、お互いがお互いにとって大切であり続けるためにもがき続けること」でしか手に入らないものなのです。

かといって、「キミとボクの関係世界のすべて」だなんて、そこに過大な意味を見出そうとすると、また妙なことになってしまいます。

そうではありません。あくまで、世界のすみっこで生きている個人同士が、その存在の小ささを受け入れた上で、お互いの存在価値を認め合って、それに見合った努力をし続けるということなのです。

「答え(=「存在意義のある自分」)は、どこにあると思いますか?」

という質問に改めて答えるならば、「大切な人と自分との間」にあるといったところでしょうか。

追記 わが子を自分探し病から守る 後編へ

後編へのリンクを忘れていました。

増田なもので、すみません。

わが子を自分探し病から守る 後編

http://anond.hatelabo.jp/20080715002502

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