劉備亡き後の蜀漢をよく支えたが、志半ばにして五丈原に死した。
その判断は公明正大で、諸葛亮によって流罪とされた者ですら、彼を恨まずその死を嘆いたという。
彼の手になる「出師表」は古今の名文とされ、「読みて涙を堕さざればその人必ず不忠」と言われるほどである。
唐の凌煙閣二十四功臣の第四位。
もとは太宗の政敵である李建成の部下であったが、その剛直さを買った太宗が自身の側近として登用した。
皇帝となった太宗に対しても容赦なく諫言し、亡くなったときには「朕を写す鏡を失った」と太宗を嘆かせた。
そのやりとりが多く記録された「貞観政要」は帝王学の名著とされている。
魏徴と同じく、性剛直にして諫言を多くすることで知られ、寇準がやってくれば百官が震え上がると言われた。
その性格のため周囲の恨みを買い、讒言により宰相を追われるが、死後に名誉回復がなされた。
賄賂を厳しく取り締まったことで、貴族からは恐れられ、民からは慕われた。
その峻烈な性格は「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ」と言われるほどだった。
死後、人気はさらに高まり、「包公故事」として劇や小説、あるいはテレビドラマの題材となった。
南宋の三忠臣、亡宋の三傑と呼ばれたうちの一人。
弱冠にして科挙に首席合格した傑物であり、「正気の歌」などの優れた詩を残す。
南宋の首都が陥落したあとも抗戦したがモンゴル軍に捕らえられた。
彼の才を惜しんだクビライから、帰順すれば宰相にするとまで言われたが、「宋の宰相がどうして二姓に仕えようか」とただ死を望んだ。
やむなく文天祥を処刑したクビライは、彼を評して「真の男子なり」と讃えた。
エセン率いるモンゴル軍に明軍が大敗し正統帝が囚われたとき、于謙はすぐさま正統帝の弟を皇帝に立て、徹底抗戦の構えを見せた。
首都である北京にまで迫ったエセンを撃退し、正統帝を取り返したが、のちに反逆者の汚名を着せられ処刑された。
地方の官吏であった頃に、賄賂を受け取らずに都に戻る清々しさを詩に詠んだという故事は、「清風両袖」の語源となっている。
道教に傾倒し政治を顧みない明の嘉靖帝を諌めたことで投獄された。
海瑞は、棺桶を買い、妻子に別れを告げ、死ぬ覚悟を持って直諫に臨んだという。
嘉靖帝の死後、釈放されてからも要職に就けないまま役職を転々としたが、その謹厳な性格は変わらなかった。
この海瑞のことを描いた戯曲が、文化大革命の発端となった「海瑞罷官」である。
明末、抗清の武将。
李自成の乱によって明の首都である北京が陥落すると、江南へ退避して亡命政権を打ち立てた。
揚州にて清の大軍と戦っていたがついに包囲され、熾烈な抵抗を行った末、落城時に自刎した。
それによって莫大な損害を被った清軍は、報復として揚州の八十万人を虐殺したと言われる。
日本で生まれて七歳で明へ渡り、北京陥落後は亡命政権の一つに拠った。
そこで隆武帝に気に入られ、国姓の「朱」を与えられたので、以降「国姓爺」と呼ばれるようになった。
父親が清に降ったのちも、鄭成功は奮戦を続けたが、抗しきれず台湾へと渡った。
その地を支配していたオランダ人を追放して独自政権を打ちたて、翌年に死去した。
清の官僚として、地方の農村の再建と腐敗した官吏の処分を行い、名声を高めた。
道光帝によって欽差大臣に抜擢され、阿片禁輸の大任を託された。
私はアルバイトの帰りだった。
それまではいいんですよ。後1キロぐらいで家に着く。そういうところにいたんですけど、運悪く、お兄さんと当たってしまって、お兄さんの携帯が落ちて、画面が割れたらしい。しっかりと見れていないので、どれくらい壊れたのか分からない。ただ、Apple商品の携帯らしくお金がかかるらしい。
と、簡潔にいうとこんなところ。
ちなみに私は、高校生でアルバイト始めたてでアルバイト料金はまだ貰っていない。
とまあこんなところ何ですよね。
ぶつかってしまったのは、帰宅時間で、いつも通ってる国道も混んでいました。
私は危険で、車の方達にも邪魔と捉えられるので歩道で自転車をこいでいた。
それまではいつものと同じで変わりは無かった。だが先に言ったお兄さん達(2人)は歩道を塞ぐような形で歩いていた。ゆっくりお兄さん達に自転車でこいで、行けるかどうか見てて、行けると思った時に携帯を落としたお兄さんに当たってしまい、そのお兄さんの携帯が落ちた。
私は、自転車を降りて、直ぐに謝りに行った。(この時は携帯を落としたとは知らない)そしたら、直ぐに謝った事にはすごく感動していた。
しれで15分ほどのお説教?始まったのだ。最初3^4分は聞けてたし、自分のためだと思って聞いていた。それまでは良かった。
最初の方で気がつかなかったのは幸いかもしれない。
先に書いた通り、私はお金をあまり持っていない。持っていたとしても数千円だろう。
私も悪かった。自転車なので、車道で回り道をしたなら当たらなかっただろうし、事故にもならなかっただろう。
ただ、あのお兄さん。途中から「自転車の私」が「悪い」と行ってくる。はっきりとは言ってなかったですけど、はっきり分かる。
私はお金を出せないし、出すなら親に一度話してからと言ったのだ。
そしたら「親に世話になるのは悪いだろ」と言って、私個人で解決させようとした。その時は思わなかったが、後々考えるとそれもおかしい。
私はまだ成人になっていない。まだ子供で、なにもかもまだ親の許可などが居る。
もちろんそのお兄さんに、私の年(17歳)を伝えていた。
ほんとごめんなさい
何が言いたいのか言わせてもらうと、今の法律だとお兄さんも悪い。もちろんその事が予想出来なかった私も悪い。
だからと言って、私1人で解決させようとするのも悪い。
あんちゃん舐めてんのか?こちらもちゃんと法律分かってるつもりやで
でもねぇ 歩道を塞ぎながら歩くんはもっとアカンやろ ちゃんと距離あけて見てたんやで そらチャリで走てったやからって全部が全部こっちが悪い分けちゃうし、どもそも未成年に全部一人で解決させようとするんもアカンやろ
あんちゃんが悪いとは言わんと今言うておくけど、あんちゃんにも非があるんやで
チャリが全部悪いって今は昔やで。
ほんとごめんなさい
20台前半まではなるべく人に迷惑かけないでひっそりと人生を終わりたいし、子供もいらなかった。
生涯を通して自分がやれそうな仕事を考えたり、本格的に親元と地元を離れようと思った時からいろんな認識がかわったと思う。
その後、30台目前に、結婚してもいいなと思う人と結婚して、子供がほしいから計画的に子供を作った。
・自分の子供時代〜現在は親から見た自分は、話きかない・要領悪い・意志の弱いクソガキだったと思う
我が子も同じようになるかもしれないし、自分も嫌いだった父親のように子供に接するかもしれないが、
いろんなことがある度に父親と違う対応を試したり、こういう気持ちになるんだなと理解したりしている。
今日、部署の一部の人たちの飲み会があるそうなんだけど、誘われてない。
職場でぼっちなのは自覚してるから誘われてないのは全然気にしてないんだけど、
「今日、場所どこでしたっけ?」みたいなことをひそひそ言われるのが本当につらい。
気を使ってるつもりなんだろうけど、とてもみじめな気持ちになるんだよ、それ。
好きでぼっちになったわけじゃないのに、変なところで気を使われても悲しくなるだけなんだよ。
分かる
けれど1,2ヶ月ほど前からredditにも2ちゃんねるからガラの悪い嫌儲連中が来てしまったので、日本語があれば見ないようにしている
よく出来てると思うけど、薦めた人に聞いてもネットで検索とかしてもわからない点がひとつ。
あの無表情な事務所の男の人って、なんで「プロデューサーさん」って呼ばれてるの?
彼、マネージャーだよね?
いや、プロデューサーなんだよ、としたらマネージャーが他にいなけりゃおかしいし、マネージャーなんだとしたらあの人一人であの規模の事務所のあの人数担当してるの?
骨折でもしたらいいんですよあんなやつは
http://anond.hatelabo.jp/20150424192805
T時じゃなくてワイヤーで守られてるまっすぐなタイプね
それで剃るのです。
ひげなどと一緒に。
方法としては
鼻にクリームをぬり、剃刀を突っ込み、ゆっくりと肌に沿わせて剃る。
細かいところはかがみをみながら剃る。
これで万事解決です。
姫姉様は「はてなで嫌われる」素養をこれでもかというくらいお持ちの、尊い姫君であらせられまする
ブログにコメントを寄せる臣民の気持ち悪さ、いえ従順さは元増田様のおっしゃる通りでごじゃりまする
生きていくのがつらいといったからです。
みなさん!どんなに最初甘い言葉で俺に甘えていいよとにささやかれたか!
そしてこれは当然なのです。人間だれしも寄りかかられてはしんどいのです。
甘えるな!愚痴も言わず俺と対等に戦え!と言われればそれはそれで厳しいものがあります。
私は支えてあげたいし支えられたいです。
でも男性って女性に弱み見せて女性がよしよししてもノーカウントとしてみちゃうんですよね。
「いきるのしんどい」ってお前いったよなふふふふふふおっと失礼
さて・・・世の中の幸せなご夫婦はどのように支えあっているのでしょうか。
(追記)
こんなに反応がくるとは思わずおどろきました。
結果として彼氏が主張を一転したためこれからも尻にしっかり敷いて降ってわいたりしないようにいたします。
QLifeとかね。
別業種の中の人をやってたことがあるんだけど、掲載基準が全然違う。
自分のとこはNGワードは削除して載せるのが多かったけど、QLifeをはじめとした医者の口コミサイトは、ネガティブなこと書いてあったら全部NGっぽい気がする。
悪いこと全然書けないでなんの口コミサイトかよーっていうねーーー
あ、ちなみに某西東京市の駅の、某北口から某南口へ移転した某病院の話です。
異常を訴えた箇所と全然違うところ診て「何もありませんね」って言われたの。それが過去2回。もうほんとなんなの。
何もなくないから来たんだっつーの。いいかげんにして。
穴のきわからでてくる数ミリのはみ出しさえ気になるので抜くんだ。
痛くて、つらい。
でも抜けた短い毛数本が指にあるのを見るとほっとする
痛くてつらい思いまでして抜く理由はなんだろう?
これは不浄の汚れなんだろうか
それとも抜いた時の刺激で涙がでる体を楽しんでいるということなのか?
もうわからなくて困っているだれかおしえて
ある主張の証拠として何が正当だとされるかは、時間や場所によって変化する。このエッセイは、カテゴリー分類とその証拠にかんする正当化の空間の、時間的な変化を問題にしている。その意味でこれは客観性の歴史にたいする寄与として理解することもできる。
第1節におけるエビデンシャリズムの(1)の用法は、次のような知的態度のことを指すと思われる((2)については扱わない)。
重要なのは、(ii) 証拠の「決定性」と (i)(iii) による一方のカテゴリーへの強制的包摂である。後者はここでは明示的に書かれていないが、このように補えば2節以下は知解可能になる。
この用語は、エビデンスが健全な議論には必要だという「実証主義」とは区別されるべき、たんに手続きにこだわる強迫神経症的な態度であり、トリビアル(些末に自明)と思われる事柄についても、データや文書といった原則として有形なエビデンスを要求する、という過剰さを意味するものと理解されたい。多くの場合、エビデンスは、文字通りに反復、移転可能なものであることが求められるのであり、「差異を含んで反復可能」では不十分である。つまり、揺れのある証言や解釈など、想像の可塑性に依拠せざるをえないものは、棄却されがちである。エビデンシャリズムには、互いの想像を信じ合う者としての、あるいは裏切り合うかもしれない人間を不在にしたい、という欲望すら含まれているように思われる。
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この用語は、健全な議論には証拠が必要だと言う「実証主義」とは区別されるべきである。エビデンシャリズムとは、証拠を求めることを自己目的化し(「その証拠が信頼できるという証拠を示せ!」)、結局「決定的な」証拠しか問題にしないような知的態度のことを指す。日常的にはトリビアル(些末に自明)と思われる事柄も、それがいくつかの暫定的証拠によって支えられているだけでは不十分とみなされ、多くはデータや文書といったかたちでのさらに決定的な証拠が要求される。人間の記憶などは曖昧あるいは嘘の可能性があるので証拠としては却下されがちである。この点でエビデンシャリズムは人間不信の一形態なのかもしれない。
ここでは、90年代の文化について全く異なる2つのことが主張されている。
(※(A)はサブカルチャー一般に関する問題であり、90年代に特異的なことではない。)
従って、このエッセイにおいて問題とされるべきなのは、(1)・(B)・(A)の間にどのような論理的なつながりがあるのか、ということだ。これらは以下のようにつながっている。
(B)90年代当時、たとえばギャル男は「男でも女でもない」(あるいは男性でも女性でもある)という曖昧なカテゴリーのなかに位置づけられることが可能であった。この位置づけの正当性は、たとえば、「ジェンダーとしては男性である」という「男である」ということへの暫定的証拠と、「服装やメイクが女性的である」という「女である」ことへの暫定的証拠との、組み合わせによって示すことが出来た。当時の正当化の空間の中では、暫定的証拠が主張のための証拠として通用したし、そして対立する暫定的証拠の組み合わせが混交的カテゴリーを生むとことが許容されていた。そしてこのような、「ある面ではX、別の面ではY」という曖昧な存在について、90年代の人文学は好んで語ってきた。
(1)今日のエビデンシャリズムの勃興は、そうした正当化の空間の変質を意味している。例えば、「ギャル男は男でも女でもない」という主張に対しては、「ギャル男が女ではない決定的証拠」が求められる。そしてそのような証拠は存在しないので、「ギャル男は男なのだ」ということになる(実際にこのような窮屈さ(「ギャル男とか言っても結局男じゃん」)を感じた人がいたのではないか)。このような正当化空間の中では、もはや暫定的証拠の組み合わせによって曖昧なカテゴリーを正当化する事は出来ない。曖昧な存在について語ることは難しくなる。
(A)それでもなお曖昧な存在について語るための一つの方法は、過去には実際に曖昧なカテゴリーを許すような正当化空間が存在したと示すことだろう。ただしその作業をこの現在において行うためには、もちろんその過去の存在は決定的な証拠によって示されなければならない。ところが、90年代における曖昧なものの多くはサブカルチャーのなかにあった。そしてサブカルチャーの常として、その文化の細部にかんする決定的な証拠はほとんど残っていない。従って、この曖昧なものを語るためには、現在では通用しないとわかっていながらも当時の正当化の空間に身を置くしか無い。
今、90年代的ストリートの形象を思い出すこと、それは、激烈なグローバル化に合わせエビデントに身を固める手前で揺らいでいた身体・資料体(コルプス)の、不安のマゾヒズムを喚起することにほかならない。そしてそのことは、一時代の確認というよりも、不安のマゾヒズムの再起動でなければならず、ゆえに、落ち着き払ってエビデントになされるのであれば本質を毀損されるタスクなのであり、気配として匂いとして、霧散の途上にあるものを記述するという無理に苦しむレトリックによって語るしかないのだ。分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。
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今、90年代のストリートにあった曖昧なものたちについて語るには、暫定的な証拠が通用しまた曖昧なカテゴリー分けが許された当時の正当化の空間のなかに再び身を置かなくてはならない。なぜなら、かつてその曖昧なものたちが存在したという決定的な証拠は、もはや入手できないからだ。90年代の曖昧なものたちは、90年代の「匂い」のなかでしか語れない。