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2021-09-05

anond:20210903225254

アマプラ中華ドラマ見終わった〜。

三国志司馬懿の話。全86話。

今まで見た話数の中でダントツ長かったけど、面白かった。

司馬懿曹操仕官して、曹丕に仕えて軍師まで上り詰めて五丈原諸葛亮と戦う所までは吉川三国志でもお馴染みの話だけど、このドラマ司馬懿視点なので、司馬家の話から司馬懿の細かい話まで鮮やかにキャラクターを描き出してくれる。

ドラマのメインとなる五丈原の戦いが終わった後も、曹真の息子、曹爽が魏を乗っ取り始めてから、司馬家がそれをクーデターでひっくり返す話を、その後の史実で八王として混乱に加わる司馬昭と司馬倫が悪役の片鱗を見せながら話を引っ張っていく。

中々面白かった。NHK大河に勝るとも劣らない。

2021-09-03

アマプラ三国志司馬懿が主役のドラマを見てる

今、諸葛亮との戦いで五丈原の辺りの話に来てるんだけど、蜀の劉禅バカ息子過ぎて、孔明不憫でたまらない。。

他方、司馬懿の方も、上司曹叡サイコパスで、こっちも不憫司馬懿のその後は孔明とは違って、優秀な家族とともに曹一族を退けて天下統一まで行くので良いんだけど。孔明が不遇すぎて不遇すぎて。。

トップが腐ってると国も腐るね。

ドラマ面白いんだけど、だめ皇帝を見せつけられるとストレスが溜まる 。

2021-06-08

anond:20210607234817

満寵

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志魏志「満田牽郭伝」に伝がある。

目次

1 生涯

1.1 酷吏として出世

1.2 軍人として活躍

1.3 呉との攻防

2 三国志演義

3 脚注

生涯

酷吏として出世

身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。

その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為曹操に大いに賞賛された。

楊彪逮捕された際、荀彧孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操楊彪赦免した。

これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人からまれることはなかった。

軍人として活躍

官渡の戦いの時期には、袁紹郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。

曹操荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍兼務し当陽県に駐屯した。

孫権国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。

後に、曹仁参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。

呉との攻防

曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年曹真・夏侯尚・徐晃張郃・文聘らとともに朱然交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。

曹叡(明帝)が即位すると昌邑侯に進封された。

228年、曹休司馬懿・賈逵が揚州荊州豫州雍州涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関三方から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。

同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。

曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史兼任し、曹休の死後に都督揚州軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。

230年には征東将軍となった。冬に再び孫権合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権撤退偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。

231年、呉の孫布という武将投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。

満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言たからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。

232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。

233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法道理を引きながら築城長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。

同年、孫権合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。

234年、孫権は十万の軍勢である呼称合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢である呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さら曹操孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。

235年春、孫権江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵恩賞とされた。

曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。

242年3月[5]死去した。景侯の諡号を贈られた。

子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれ殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋時代尚書司隷校尉となった。

また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。

三国志演義

小説三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。

2020-08-18

三国志数え歌

一身是胆

二宮事件

三姓家奴

五丈原

七星宝刀

八卦

九品官人

十常侍

四と六が思い浮かばなかった

別の時代なら四面楚歌六韜があるのだが

諸葛亮六韜を読んでいたとかあれば数に入れてもいいかもしれない

2015-04-24

中国十大忠臣

諸葛亮

言わずと知れた宰相諸葛孔明

劉備亡き後の蜀漢をよく支えたが、志半ばにして五丈原に死した。

その判断公明正大で、諸葛亮によって流罪とされた者ですら、彼を恨まずその死を嘆いたという。

彼の手になる「出師表」は古今の名文とされ、「読みて涙を堕さざればその人必ず不忠」と言われるほどである

魏徴

唐の凌煙閣二十四功臣の第四位

もとは太宗の政敵である李建成の部下であったが、その剛直さを買った太宗が自身の側近として登用した。

皇帝となった太宗に対しても容赦なく諫言し、亡くなったときには「朕を写す鏡を失った」と太宗を嘆かせた。

そのやりとりが多く記録された「貞観政要」は帝王学の名著とされている。

寇準

北宋の名宰相

魏徴と同じく、性剛直にして諫言を多くすることで知られ、寇準がやってくれば百官が震え上がると言われた。

その性格のため周囲の恨みを買い、讒言により宰相を追われるが、死後に名誉回復がなされた。

小説「楊家将演義」にも登場して活躍する。

包拯

北宋政治家で、清廉潔白代名詞として知られる。

賄賂を厳しく取り締まったことで、貴族からは恐れられ、民からは慕われた。

その峻烈な性格は「包拯が笑う時は黄河が澄む時だ」と言われるほどだった。

死後、人気はさらに高まり、「包公故事」として劇や小説、あるいはテレビドラマの題材となった。

文天祥

南宋の三忠臣、亡宋の三傑と呼ばれたうちの一人。

弱冠にして科挙首席合格した傑物であり、「正気の歌」などの優れた詩を残す。

南宋首都が陥落したあとも抗戦したがモンゴル軍に捕らえられた。

彼の才を惜しんだクビライから、帰順すれば宰相にするとまで言われたが、「宋の宰相がどうして二姓に仕えようか」とただ死を望んだ。

やむなく文天祥処刑したクビライは、彼を評して「真の男子なり」と讃えた。

于謙

エセン率いるモンゴル軍に明軍が大敗し正統帝が囚われたとき、于謙はすぐさま正統帝の弟を皇帝に立て、徹底抗戦の構えを見せた。

首都である北京にまで迫ったエセンを撃退し、正統帝を取り返したが、のちに反逆者の汚名を着せられ処刑された。

地方官吏であった頃に、賄賂を受け取らずに都に戻る清々しさを詩に詠んだという故事は、「清風両袖」の語源となっている。

海瑞

道教に傾倒し政治を顧みない明の嘉靖帝を諌めたことで投獄された。

海瑞は、棺桶を買い、妻子に別れを告げ、死ぬ覚悟を持って直諫に臨んだという。

嘉靖帝の死後、釈放されてから要職に就けないまま役職転々としたが、その謹厳な性格は変わらなかった。

この海瑞のことを描いた戯曲が、文化大革命の発端となった「海瑞罷官」である

史可法

明末、抗清の武将

李自成の乱によって明の首都である北京が陥落すると、江南へ退避して亡命政権を打ち立てた。

揚州にて清の大軍と戦っていたがついに包囲され、熾烈な抵抗を行った末、落城時に自刎した。

それによって莫大な損害を被った清軍は、報復として揚州の八十万人を虐殺したと言われる。

鄭成功

同じく明末に活躍した抗清の武将

日本で生まれて七歳で明へ渡り北京陥落後は亡命政権の一つに拠った。

そこで隆武帝に気に入られ、国姓の「朱」を与えられたので、以降「国姓爺」と呼ばれるようになった。

父親が清に降ったのちも、鄭成功奮戦を続けたが、抗しきれず台湾へと渡った。

その地を支配していたオランダ人追放して独自政権を打ちたて、翌年に死去した。

林則徐

清の官僚として、地方農村の再建と腐敗した官吏処分を行い、名声を高めた。

道光帝によって欽差大臣に抜擢され、阿片禁輸の大任を託された。

その期待に応え、1425tもの阿片を没収して焼却したが、それをきっかけとしてアヘン戦争が勃発する。

持久戦に持ち込めばイギリスに勝てることを林則徐は見通していたが、親イギリス派の讒言によりあえなく失脚した。

2013-05-15

現代日本競馬三国志

時は2013年

長きに渡り競馬界を支配したサンデーサイレンスは既に倒れた。

後継たらんとしたアグネスタキオンも亡く、次いで頂点に立ったマンハッタンカフェ栄光も続かない。

そしていま、三頭の種牡馬が鼎立し、混迷極める競馬界の統一を目指して相争っている。

今回はその三頭の種牡馬三国志の各国になぞらえて紹介してみたい。

魏:ディープインパクト

現役時:

言わずと知れた無敗の三冠馬

最高の血統。圧倒的な実力。完璧な戦績。

しか赤壁ならぬ凱旋門賞で完敗してしまう。

まさしく曹操である

種牡馬入り後

2012年種牡馬リーディング第一位。

初年度から名将を輩出、二年目から三冠牝馬ジェンティルドンナが登場、数々の決戦を制した。

質・量ともに他国を圧倒し、サンデーサイレンス王朝後継者としての地位を確固たるものとしつつある。

呉:キングカメハメハ

現役時

南の島の大王さま、もとい江東小覇王

つの大きな戦いを圧勝するも病が判明し、若くして引退する。

まさしく孫策である

種牡馬入り後

2012年種牡馬リーディング第二位。

サンデーサイレンス王朝とは無関係出自を持ち、中央から地方にかけて独自の勢力を築き上げている。

近年サンデーサイレンス系の馬ばかりで近親交配がやばすぎるので非サンデーサイレンスのキンカメは貴重なのである

芝コースでもダートコースでも有力馬を輩出するオールマイティさは、まさに水陸で活躍した呉軍のごとくである

蜀:ステイゴールド

現役時

サンデーサイレンス王朝の血を引く良血。

舞台での惜敗を繰り返すも、引退戦で劇的な勝利。

から愛された晩成の名君。

まさしく劉備である

種牡馬入り後

2012年種牡馬リーディング第三位。

国力ではディープ・キンカメに大きく劣るものの、数少ない配下の中には大物が並ぶ。

三冠馬オルフェーヴル・二冠馬ゴールドシップは、さながら張飛関羽と言ったところ。




さて、若手の同世代最強決定戦、日本競馬最大のレースである「第80回日本ダービー」が、5/26(日)に開催される。

ディープインパクト産駒の「キズナ」とキングカメハメハ産駒の「コディーノ」の対決は、あてはめるなら魏の羊コ(祜)と呉の陸抗あたりか。

そして現役三強であるオルフェーヴル」「ジェンティルドンナ」「ゴールドシップ」が揃って出走する(予定の)「第54回宝塚記念」は6/23(日)。

ステイゴールド産駒の暴君か、ディープインパクト産駒の女傑か、赤壁か、定軍山か、はたまた五丈原の戦いか

近年稀に見る一大決戦となるだろう。

どうぞ御覧ください。

2012-09-02

諸葛亮は稀代の詐欺師

孔明は嘘を吐かせると右に出る者はいない。

かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。

実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備孔明両名のお墨付きであるしかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである

孔明は人を見る目が皆無。

嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。

後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである名前李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しか性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である孟達面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しか曹丕死ぬ冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか

結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである

孔明は内政は超一流だが外交軍事も他国どころか身内にも劣る

漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才普通な孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタク陸遜孫武に勝るとも劣らないと称された天才孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州益州では無双だった孔明長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐であるしか孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだからしかも北伐にかまけて劉禅教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官劉備提案かもしれないが)。

結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷ちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう政党も流石だとは思いますけどね。

以上、孔明歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。

 
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