はてなキーワード: 吉野家コピペとは
https://anond.hatelabo.jp/20130722013200
ここで言う吉野家コピペとはTwitterで吉野家コピペ貼ったらマジレス飛んできたと言う話題に対してである。
https://togetter.com/li/1195871
これって別に今の若者は吉野家コピペ知らない、といった局所的な現象として捉えられるのではなくて、抽象化して捉えると要は言語ゲームだよね、と。
そこら辺にサッカーボールが転がっていれば足で蹴る、手は使わない「サッカー」をやるように。
で、一人だけサッカーのルールの運用方法がわからず、手で持って投げたら当然イエローカードなわけですよ。
つまり、「昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家〜」から始まる言葉を見た時に、吉野家コピペという対象に対し、過去に運用されてきた言葉の交わし方のルールに対する共通認識を持った人間がゲームをしてるわけで、そのゲームのルールと違ったことをしたら叩かれるわけですよね。
何が言いたいかって言うと、吉野家コピペというルールが形成されている以上、一連の現象の中で言われている「インターネット老人」という主体が「知ってるのが当たり前」と思ってるのは当然なんだよね。ルールだから。
これってどうなんでしょうね?
最近、と書き出しては見たが、多分これはもうずっとずっと昔から続いていることなのだろう。
俺は当時2chに入り浸っていたわけではないが、その頃からインターネットに触れてはいたので、なんとなく懐かしい気持ちになった。どこかの記事では初出から17年もの月日が立っているとのことだった。ああ、俺はその間何をやっていたというのか。そんなことを思いながら、そりゃ、もう存在そのものを知らない人間がいるのも当たり前だよな、と思いながら、同時に一抹の寂しさをも胸に抱いた。
結局のところ、当時のインターネットは趣味として成り立つものだった。物好きたちが喜々としてBBSに、個人ホームページに、チャットに、夜な夜な集まったりしてはくだらない話題で盛り上がり、かたやおもしろフラッシュを見ては息ができないほど笑い転げていた。
老若男女、インターネットに全く触れていない人間のほうが珍しいほど普及し、我々が言うところの一般人が日々SNSで猫の写真を共有している。
インターネットは趣味からインフラとなり、趣味としてのインターネットは消失した。そんな中、過去の遺物である吉野家コピペ、ひいてはコピペという概念を知らない人間がいるのは当たり前なのだ。
叩くも叩かれるもない。無知は罪ではなく、また誇るものでもない。
テレビを見ていない、SNSを、LINEをやっていないことは偉いことではない。
ツイッターやインスタグラムで多くのいいねを得ても、それは偉いことではない。
ソーシャルゲームに人生の大部分のリソースをつぎ込んでも、ソーシャルゲームを全くやらなくても、偉くもなんともない。
なんとなく、「寝てない自慢」のより質の悪いものに自分が罹っているような気がした。
SNSに触れているうちに、流行に乗っていること・乗っていないことが徐々に誇らしく感じるようになっていった。
流行とは一口で言い表せるものではない。今はやっているものの中には自分の琴線に触れるものも、そうでないものもたくさんあるだろう。それが当たり前だ。当たり前のはずだ。
自分の本当に大切な趣味くらいは、人の意見に流されずありたいものだ。
そう思いながらも、ソーシャルゲームをやらない自分が、なんとなく誇らしく感じてしまうあたり、治療には時間がかかりそうだという自覚があった。