「発言や差別意識は現実に人を傷つけ殺すことだってある」という観点がすっぽり抜け落ちてる。反社会的な行為がフィクションにとどまって他へ害を吐き散らさない段階なら目こぼしもされているだろうが、現実へ影響を及ぼし始めたらそんな猶予は一発で吹っ飛ぶ。ヤク決めて飛ぼうぜって歌うロッカーは顰蹙を買う程度で済んだとしても、彼が実際に麻薬をファンに売りさばいたら当然逮捕されるし、なんなら界隈のアーティスト全員に疑いの目が向けられる。快楽殺人者を描いた映画がもてはやされても見ない人は見ないで終わりかもしれないが、模倣犯が一人出ればそのジャンルの映画見に行く人はみんなそういう目線で見られるのを覚悟することになるしだいいちスポンサーがもう金を出さなくなる。別にそれらは「社会的に許容されてる」ってわけじゃない。実害がないならほっとく、実害があるなら取り締まる。そんな程度のさじ加減で、単にスルーされてるってことだよ。そして、「誰もが見られる動画サイトで、他者を傷つけるのでよくないとされる言動を広めてる」のは、すでに社会における明白な加害行為であり、ストップがかかるのは当たり前のことだ。
つまりこれは、”自分らが社会的弱者であることに安住して一般社会ではとうてい許容されない行為を面白がっていたら、その結果コミュニティ全体が危機に晒され、本来無害であったものまで延焼する”…という、例のあのよくある歴史が、いまゲームコミュニティに訪れてるってことなんだよ。そういう状況で「あれぐらい許せ」なんて発言が界隈から出たら、それがどういう結果をもたらすか想像できないか? 「なるほど、あれぐらい許さなくちゃな」ってなると思う? 反対だよ。ホント馬鹿だな。
この論争は治部氏から出発しているんだから、彼女の言っていることをベースにしなければいけないのは当たり前。「たわわオタクキモい」という人(それ言っている人の多くも明らかにフェミニストではない)が一部いるからと言って、それをフェミニストの中心的な主張とか言うのはおかしいでしょ。
昨日アマプラ会員向けに配信レンタルが安くなるセールがやっていてその中に『花束みたいな恋をした』が入っていた。
普段ならこの映画の宣伝の仕方とか、ぱっと見の内容を想像するに見ないようなジャンルの映画だなと思っていたんだけど、
以前この映画の感想がはてぶでもホッテントリしてたりして、みたいなと思っていたのでこれ幸いと思い視聴した。
で、まあ、すごく面白かった。終始どこか痛々しさを感じっぱなしで、共感性羞恥?というやつをくすぐられ続けた。
ああ、自分もこうだったなと。主人公の二人の麦くんと絹ちゃんが、所在のなさを、自己の存在の価値をなんとか感じるために、
サブカルチャー(この表現が正しいのかはわからないけれど)で壁を築き、自分を感受性の高い特別な人間でありたいとするが、
同しようもない薄っぺらさが漂う。それは例えば、天竺鼠のライブを好きなはずなのに当日に放り出したり、二人とも作家の固有名詞を羅列する
だけで、内容に関する話がなく、そうではなくてまるでその作家や作品の固有名詞をいかに多く知っているかの知識に価値があるかのような二人の
やり取りの悲しさ。そうすることでなんとか自分たちを特別な人間であろうとし、周囲の人間をある種見下す特権意識の現れ。
じゃんけんに関するエピソードで、グーよりパーのほうが強いのは納得いかないと言った一度は誰でも思うような事をなにか特別なことのようにことさら感じたり、
「電車に揺られる」といったありふれた陳腐な表現なのに、そうした表現を使用することで自分たちは違うんだ、特別なんだと思いたい若さゆえの痛々しさ。
また、終電を逃し居酒屋で二人でいるとき、途中から入ってきた麦くんの同級生に対する絹ちゃんのと拍子のない態度や、麦くんのなんとなくのいけてなさ、
そこはかとなく、周囲から浮いている、居場所のなさを暗示しているように感じる。
麦くんが就職し、働き始め、忙しさから次第に、かつて好きだったものへの興味を失い、頭に入ってこなくなる。パズドラしかできなくなる。
ああ、そうだよなっとついつい共感してしまう。生きていくことだけに目を奪われ、自分の現状への焦りや、未来への焦燥感や不安が募り、かつて大好きだった作品が頭に入ってこなくなる。
いやそもそもそこまで好きではなかったのかもしれない。麦くんの書いていたイラストは所詮イラスト屋で代替可能なレベルのものなのだ。
一方で昔のまま変わらないであろうとする絹ちゃんに麦くんは苛立ちをつのらせすれ違っていく。
麦くんが麦くんなりに「大人」になったように、絹ちゃんは絹ちゃんなりに「大人」になって行くのであって、これはどちらが現実的だとかそういう話ではない。
そうして二人はすれ違っていくわけだが、最後に二人でカフェで別れ話をするシーンには、かつての自分たちを彷彿とさせる若いカップルを見て
涙を流す。ああ、自分たちは特別ではなくどこにでもいる代替可能なbotでしかないんだなと二人はそこでひしひしと感じる。
麦くんの言うように、彼らにも子供を作ってワンボックスカー乗って、ディズニーランドへ行くそういったよくある様な家庭を築けたかも知れない。
しかし絹ちゃんは言う、いや、そうじゃないんだと。そういうのじゃないでしょと。
全編を通して自分自身の若い頃の痛々しさ、未熟さ、滑稽さ、いやらしさを感じさせられ、本当にグサグサきた。
でも、麦くんは絹ちゃんがいただけ良かったなと。自分には何にもなくって、自我を必死に保つための選民意識で壁を作り、
もうどうしようもないぐらい取り返しのつかないとこまで来てしまい、本当に薄っぺらい代替可能なbotでしかないんだなと。
https://anond.hatelabo.jp/20220505163243
確かに、自分ももうどうしたらいいんだろう。仕事に興味もないし、パートナーも家族もいない。
好きだった、小説、映画、マンガも頭になかなか入ってくなくなって、スマホゲームすらすぐに飽きて、twitterやはてぶの記事を眺めるくらい。
本当になんにもないんだよ。
そりゃTwitterを検索すればいないわけでもないけど、それはアンチフェミ勢に過剰に取り上げられて炎上してるから目立っているだけで、明らかに中心ではないでしょ。例えば発端となった治部れんげ氏は、どこでそんなこと言っているの?
「フェミニズムが女性の権利を拡大させたとしてそれが直接的には恩恵となったとしても、その権利の拡大のさせ方やその範囲によっては社会全体にとって良いものとならず、それが間接的なデメリットとなって女性にも降りかかってくる」
のように考えている女性も多いのであればあり得ること、というか、そもそもフェミニズムやフェミニストに対する女性の支持がそれほど高いわけではないでしょう?
オマエ、カシコイ、ナ