「藤井二冠にしか興味がない報道」という批判だが、そもそも、「藤井二冠の連勝記録が話題になる前の将棋界」ってどんなもんだったかを思い出すと責める気にはなれない。
正直な話つらい話題だった。
アレのせいで、メンタルをやられた棋士もいた。将棋界の話題は、その当時本当にろくな話題がなかった。
正直、藤井聡太連勝記録フィーバーがなければ、どうなっていたかと思う。本当にろくな話題がなかったのだ。
冤罪を起こしたことに対する釈然としない説明。処罰されるべき処分されるべき人が誰なのかよくわからない。
もう、アレで一体どれだけ報道で将棋に対してがっかりしたファンがいたかって話で。
それを、いまさら、「藤井聡太ばっかり」といわれても。うーん。むしろ藤井聡太フィーバーに将棋界そのものが助けられたのはでかいんだよな。
だから、「藤井聡太にフューチャーしすぎ」といわれても、将棋に対する報道やらなにやらが一色に染まるのは仕方ないことだと思う。
本当にそこは仕方がないんじゃないかと思う。
ねこ🐈またにゃん!
もう楠栞桜が復活する道はないでしょ。
ここまで来たら騒動の切欠となったNote社に損害賠償請求する裁判を起こしたり、名誉棄損罪はその事実の有無にかかわらないんだから誹謗中傷してた奴かたっぱしから訴えたりして大暴れして欲しい。
あと、仲良くしてたのに騒動が起こったら最初から存在しなかったみたいにスルーしている麻雀プロとかVtuberとかの暴露本とかで荒稼ぎしたりしてみても面白い。
元増田が言うようにもし本当に個人個人が男への個人的な復讐心で動いているだけなら
フェミニズムがあれほど多くの女性を支持を受けている事はどういう事なんでしょうね?不思議だなー…
そもそも「フェミニズム」とは19世紀末から100年以上続く由緒正しい社会運動なのだけれど
それとこの増田の問題点に「女性が復讐心からフェミニズムという言葉を使う事」を非難しても
「女性に対して危害を加え嫌悪感を植え付けた男性」に対する批難は皆無なのが何かなあって感じ
宇崎ちゃんのポスターやジャンプ漫画で女性が性的客体化されている事に対して女性からの批判が集中しているのも
「女性が不愉快だから」では無くて「影響を受けた男性が女性に危害を加える事を危惧して」だからね?
どうもそこら辺を勘違いしているというか、まあ恐らく分かってて意図的にやっているんだろうけど
女性向け作品に影響を受けた女性が男性に対して性的暴行を加えた事例がこれまで幾つありました?
男性から女性への性的暴行と比べれば無きに等しいですよね?世に居る犯罪者の大半は男性だけど
この人は「女性という主語が大きい、それは貴方個人だけの感想だ」って決め付けているけど
その個人が集まって集団の思想になり、その集団が力を合わせる事で女性の権利を勝ち取ってきたというのにね
この「自称」腐女子さんが本当に女性なのだとしたら、こういう人の事を指して名誉男性って言うんだろうなあ
自分は女性というだけで先人達が戦って獲得した既得権益の上に自身は一滴の血も流さず胡坐をかいて「男性に理解のある私」面が出来るんだから
フェミニストが自分や周囲の人間が、男性からトラウマになるほどの性被害を受けて、もう被害者を増やしたくないと頑張ってるんだろうという想像は出来ないみたいだけど
【追記】
改めて自分の文章を読み直すと、元増田に対してあまりに攻撃的すぎると感じた
今からでは遅いと思うけれどその事に関しては謝らせてもらいたい
家で飼っていた室内犬が死んだ。母親が散歩させている途中、他の人が連れている犬に噛まれて死んだらしい。外出先から帰ってきた途端、父親の口からそのことを聞かされた私はしかし、何も感じることができなかった。
私はその犬をわりあい可愛がっていたと思う。週に一度は母に代わって私が散歩に連れて行ったし、夕食後にテレビを見ている時はいつも膝の上でじゃれさせていた。今でもそのふわふわとした心地よい体毛の手触りを、懐かしさと共に思い出すことすらある。私はその犬に対し、単なるペットではなく家族の一員としての愛情を本当に持っていたのだ。
にも拘わらず、私は犬が死んだことに対して、やはり何も感じることができなかった。私の後に帰宅した姉は部屋に籠って泣き続けていたし、父は事件の細部を知るにつれ相手の飼い主への怒りを煮えたぎらせていった。家族の中には犬の死に際しての、ある種の感情的連帯が出来上がっていたが、私だけがそこから疎外され、居心地の悪い思いをしていた。
思えば私は昔から感情表現が苦手な子供だった。自分の中に確かに感情はあるのだが、それをどういう言葉で表せばいいのか迷っているうちに言いそびれてしまう。私の中での感情とは何かよくわからないもやもやしたレトルト状の実体であり、喜怒哀楽のような確固たる形をとることがないのだ。
そんな人間だから読書感想文も苦手だった。本を読んで何かを感じることはできるが、それを既成の概念で説明することにはどうしても抵抗を感じてしまう。かといって自分独自の表現を編み出せる訳でもないから、陳腐な教訓をむりやり本から引き出すことで体裁を整えていた。
思うに、程度の差こそあれ、誰でも私のような部分を持っているのではないだろうか。人間の感情とは元々、確固たる形を持たない不分明なものであり、それを無理やり怒りだの悲しみだのと呼んでみることでわれわれは他人に自分の気持ちを伝えられている(と錯覚している)だけなのではないか。われわれは単に怒るから怒るのであり、悲しむから悲しいだけなのではないだろうか。
犬が死んだ後の父はまさに怒るために怒っているように見えた。犬に愛着を持っていなかった(どころか、犬の頭をペットボトルで殴りつけたことさえある)父は相手の飼い主に賠償させることに拘り、ただ悲しみに沈むだけの姉や母を「泣き寝入り」だと言って激しく非難した。その姿は単に「家族を守る強い父親」という自己像に執着しているようで、痛々しいほど滑稽に見える。
私は依然、家族の誰にも同調することが出来ず、ただぼんやりと犬の死が家族の記憶から薄れていくのを待っている。そしてこの先も、感情を表に出さない、歳の割には幼く見える人間として生きていくしかないのだろう。