ろんのもちでお仕事なんだけど、
うっかりしてたわ、
事前に書いておいておくの忘れてたわ。
ここまでかもしれないわね。
マッシュアップって自分で言っておいてよく意味が分からないわ。
今日はこれだけにしておくわ。
これだけは欠かさない!
家の出る前のホッツウォーラー!
梅ホッツよ!
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
これは出版業に隣接する場所で働く人間にはこう見ているという話だ。出版業は苦境に立たされている、新しい売り方を模索せねば、という声が聞こえてくるが、いや、苦境どころじゃなくてもう終わっているよなーと素直に思う。
編集者はいつ会っても疲弊している。ノルマに追われ、考える時間がない。著者を見つけ、本を作っても、宣伝費がないので売る方法がない。ノルマがあるので完成したらすぐ次の本に取り掛からなきゃいけない。同時並行でやっているので、一冊に力をかけることもできないし、完成したら販売に力を入れることもできない。結果、作ったらあとは放置。売れてくれたらラッキー。そのぐらいの気持ちでやっている。
宣伝費がかけられないので、少しでも売れる確率をあげたければ、すでにファンがいる人間にあたらなきゃいけなくなる。なので、ツイッターでフォロワーが多い人間、ブログが少しでもバズった人間に声をかける。だから、今はネットでちょっとでもバズると、すぐに出版の声がかかる。今やネットで人気のある人が毎月のように本を出す。フォロワーに対して「なんと本を書きました!」と報告する。初版は6000部。編集者からは「普通はもっと少ないんですけど、フォロワーが多いので増やしました」と言われている。「うちは新人の印税は7%なんですよ……」と申し訳なさそうに言う。ツイッタラーは一生で初めての出版なので、舞い上がり、少ない報酬でも睡眠時間を削って書く。だから、出版を報告するのは一世一代のことだし、売れてくれと願っている。だけど、出版社はそうじゃない。出版社は現実を知っていて、売れないことを見込んでいる。フォロワーたちが買って、万が一にもヒットしたらいいと考えている。
売れないことがもはや当たり前なので、本を出してそれが売れなくても、気にしない。というか、気にする余裕がない。次の本を完成させなきゃいけないのだ。売れないことで凹んだりはしない。だけど、著者は違う。報告ツイートは「いいね!」されたけど、レビューもそんなにつかず、ツイッターで感想もあまりつぶやかれず、「これでほかの出版社からも依頼があるかも」と期待していたけど何もなく、「あれ?」と思っているあいだに、ビックリするほど静かに時間が過ぎていく。そして、また別のツイッタラーが「本を出しました!」と報告する。
そこで出るツイッタラーの本も通り一遍なものだ。生い立ちを語り、私はこうやって成功しました、と成功談をつづる。ちょっとツイッターでバズったぐらいの人間が、ものすごい人生を送っているわけでもない。文章がすごいわけでもない。だから、どこかで見たありがちな内容になって、売れない。
本はビックリするほどたくさん出ていて、そしてビックリするほど売れない。
本屋に行けば、いつも同じ本が並んでいる。「自由に生きよう」「夢を諦めるな」「こうすれば上手くいく」同じような内容を著者を変え、毎日出している。どれかが万が一にもヒットしてくれたらいいと思いながら。
小説はどれも内容違うじゃないか、と言われるかもしれない。だけど、小説はもう本当に売れない。書くのに2年かかって部数は4000部。特に宣伝もされずに一部の書店に一週間ほど置かれてなくなっていく。そして、売れなかったことを理由に次回作は出ない。
じゃあ、売れる本は何なのか、というと、偶然としか言えない。たまたまタイトルが時流に合っていた、たまたま表紙がキャッチーだった、たまたま部数が多く出て書店での露出が多かった──これらの偶然が重なって発売数日、書店での売れ行きがいい。すると、出版社は「おっ」と思い、「じゃあ新聞広告出すか」とここでやっと宣伝することを考え始める。宣伝するとそれなりに売れる。だから、増刷をする。すると、書店で目につきやすくなるので、また売れる。その売上を見て、また広告を入れる。すると、また売れる。一度売れだすとこういう循環が回り出す。
じゃあ、最初から部数を多くして、宣伝をしていけばいいじゃないか、と思うかもしれない。だけど、そんなことは怖くてできない。すでに数字がないと営業や宣伝を説得できない。
こんな構造ができあがっているので、いい本はできないし、著者の期待は裏切っていく。似たような本しかないので読者も離れていく。これはもう「構造改革」でなんとかなる話ではなく、すでに業界が瓦解していると思う。
これはわかる
もっと簡単に親権を親から奪えるようにすると、増田の言う理想の世界に近づくかもね。
今は実の親の親権が強すぎて、保護した児童を養子縁組して別の親から育ててもらえるようにするというのはかなり難しいらしい。
だから、落ち着いていて経済的な余裕のある不妊様ではなく、未熟で経済的に不安定な少女が子供を育てている。
社会資本が多い大人なら、困った時に誰かに頼るという道を知っているし、養子縁組したならまず福祉に相談すると思う。
でも、社会資本の少ない少女は困った時に子供に鬱憤をぶつけるか、子供から逃げるか、思考停止してネグレクトするかじゃないか?
紙パックの牛乳あんだろ、あのそそぎ口を閉じたままにして牛乳をそそごうとするとさ、閉じたとこの隙間から牛乳がチョロチョロと出てくるんだけどさ、
いろいろ否定もされたりはするんだけど
33くらいからかな、なんていうか、ぬるーいお湯のなかに脳みそが浮いてる感じする
神経と神経がうまいことパシパシつながらない
これが35歳定年説の正体なのかなって思ってるし、老化ってこういうことかって思った
父親の単身赴任で母子家庭状態の共働き家庭で育ったので、専業主婦がいる家の余裕を結婚してから知った。
子供の頃、いろんな事で困って母に相談すると、やっかいごとを持ち込むなと露骨に嫌がられた。
相談をしても文句を言われたり、怒られたりとやっかいごとを持ち込んだことへの怒りをぶつけられるだけで解決はしなかったので、「この人に聞くだけ時間の無駄」と思うようになった。「何でも自分でやる手間がかからないいい子」なのではなく、人間不審なだけだった。
ちょっと気に入らないことをすると、それだけで手が飛んできた。子供心にも感情で殴ってるというのがわかっていた。
学生時代に帰省して家でゴロゴロしていたら、家事をするように怒られた。「こんなだから恋人の一人もできないんだ」となじられた。
いとこが先に結婚した時は「いとこは大人だ。自動車ローンだって組めるし。それに比べておまえはなんて子供なんだ」となじられた。
子供ができた時、名付けを親にさせなかったことで、「子供が子供を育てている」となじられた。
大人になってから、「うちの子には反抗期がなかった」などと外でうそぶいているらしいが、反抗期がなかったのではなく、信頼関係が無かったのだと思う。
結婚して、相手の家にしばらく逗留した時、圧倒的な余裕のようなものを感じた。
せかされるようなギスギスした感じはなく、全般的にゆったりした時間が流れていると感じた。
全般的に何もしないで自分のことをしている時間があるという印象で、時間に追われるように生活していた自分とは大違いだと思った。
ヨーロッパの人は長期休暇で避暑地に行って、朝から晩まで何もしないで椅子に座って寝ているらしいけれど、まさにそれを見ている感覚。
相手からは昔おねしょをした時に親に「大丈夫だよー」と慰められて落ち着いたという話を聞いたけれど、うちだったら「この眠い時に何してくれとるんじゃ」という顔で事務的に粗相を処理されたのだろうなと思った。いや、自分はその方法しか知らないので、自分もそうしてしまう気がする。
今の日本は相手の家のような家を無くして、うちの実家のような家を増やそうとしているように思う。
保育園の時間があるからと嫌がるなか無理矢理乗り物に押し込められる子供を見ると、デジャビュを感じてしまう。