はてなキーワード: 二重思考とは
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
学生が「中国の問題にしか結びつけない」かどうかは、学生とやり取りした北村紗衣先生本人しかわかんないことじゃない?いや本人にすらわかんないよね。元増田が書いているように、日本にも関連はあるけど、中国のほうが関連が強いという理由で、(日本については言及せずに)「ディストピア作品って中国みたい」って発言した学生がいる可能性が十分ある。なのに、学生が日本に結び付けなくて問題だって、北村紗衣先生が勝手に誤解してる可能性もありますよ。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
そういう関係ないと決めつけて多様性を許さないのがディストピア。作品の内容との類似性より、自国である(他国でない)ことを絶対視しなければならないなんて、そんな決めつけが当然なの?読書は自分なりにできる自由なものだって、早稲田大学や高橋源一郎先生は言ってますよ(後述)。
ディストピア作品の内容が、日本より中国にあてはまってると考えた学生が日本と関連づけないのが問題になるのが、武蔵大学ってことなのかな。
(北村紗衣先生を「saebou氏」って書くの、すごいっすね。)
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。
教えてくれてありがとう。ニュースピークによる語彙の制限は金盾、二重思考は社会主義市場経済とすれば、中国に当てはまるディストピア作品だから、学生が中国を挙げることは自然だね。もちろん、日本にも当てはまる事柄がないという意味ではなく、中国の方がわかりやすいという意味で自然だね。具体例があると、学生の考えに一理あることがわかりやすくなるね。
最近出版された「まんがでわかる 1984年」の宣伝では、中国にあてはめたり(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた小説『1984年』。コロナ禍を経て、今一度、権力と個人のあり方について考える状況にあるといえます。今回のコロナの感染源・中国のITによる超監視社会は、『1984年』の世界を彷彿とさせます。)、日本のようだ(自粛・正義・幸福追求・相互監視の暴走!世界文学の名作を新解釈!まるで今の日本のようだ!)となってる。「ディストピア文学の読み方が分かってないですね。ディストピア文学は読み手がどこに住んでいようと、「今、我々が住んでいる場所」を描いたものとして読むんですよ。」という北村紗衣先生からすれば、宝島社は文学の読み方がわかってない(中国を思い浮かべた)担当者が宣伝してると断言していますね。
実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
そんな読み方を誰がしてるの?元増田は日本にもディストピア作品に関連する要素はあると書いてるし、学生は「中国みたい」と言っていても、「西側諸国は関係ない」なんて言ったとはどこにも書いてない。もし言っていたとしたら、それがわかるのは、北村紗衣先生本人だけだよね?
それに、作品を理路整然と解釈した結果、作者の意図と異なることだってあり得るのに、作者が困るから作者の意図通りに読まなければならない、って、武蔵大学はそんな権威主義の学問しか学べないんですか?
早稲田大学だと、「自分だけの読み方を見つけ、人を納得させる。「自由に読むことの楽しさと厳しさ」を学べる」のに。高橋源一郎先生は「個人が読むということは、僕は書くよりもクリエイティブなことだと思っています。そこには「社会」の「声」といったものがまったくない。「こう解釈されているけど、僕は違う」と読むようになることが「何かを読む」ことじゃないかと思うんです。」と話しているのに。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
二重思考ができてるね。(支配層が都合のよい形で人々に「何が当たり前か」を刷り込み、疑問に感じる力を奪いながら、感情を「型にはめていく」様を描いた)小説『1984年』を教材にする北村紗衣先生(支配層)が、ディストピア作品は日本に関連付けるのが当たり前だということを刷り込み、中国みたいと思う学生の感じる力を奪うんだから、リアルディストピア。これがノンフィクションってやばみしかない。これが学生の不利益ではないって、二重思考すげえ。
あ、学生が日本と関連付け(られ)なかった理由がわかった。「1984年って、武蔵大学を描いてて、北村紗衣先生がビッグブラザーですね」って、もっとも身近な事柄に関連付けたら、単位もらえないもん。学生さんも二重思考を身につけなきゃですね。
北村紗衣先生のやりたいディストピア発見実習って、松任谷由実さんでおなじみ京都精華大学白井聡先生の単位のために学生に忖度させるパワハラみたいに先生のご機嫌取りになるだけでは。学生さんかわいそう。
「内容が中国より日本に合致するディストピア小説」の話だ、というのは増田が言い出したことで、saebou氏がいっていることとは関係ない。というか、とんちんかん。
自国である日本の問題に結びつけずに、他国である中国の問題にしか結びつけないことが問題だね、という話をしている。だから、ディストピアを自分の社会と連続性のある概念と捉えるためのディストピア発見実習をしようか、という話をしている訳だ。
具体的な作品名も挙げず、理由を説明せず、でも学生の考えを間違いだと世界に公表する先生のいる大学って、学生には結構ディストピア。
まず、ニュースピークや二重思考の話をしているから、具体的な例としてオーウェルの『1984年』が想定されているよ。具体的な例を挙げていないという批判は的外れ。実際、1984年が共産主義国における全体主義の批判であるのは間違いないとしても、1984年がソ連とかの社会主義国とかだけの話で、西側諸国は関係ない、みたいな読み方されても、オーウェルも困ると思うよ。
で、誰とも知らない学生がディストピアを日本にあてはめないと先生が愚痴っていても、どの学生にも不利益ないよね。どこがディストピアなんだろ。言葉尻をとられて混ぜっ返しても意味ないよ。
狂気に憧れる凡人の話
それはほかでもないぼくのことであるのだが。何よりもまずこのもったいぶっていかにも尊大そうな文章にケチをつけなければならないが、どうしてもこの文章じゃないと書けないのは、普段の自分の頭の中をかけめぐる独白の数々がもう常にこの状態で、いくらケチをつかえようにも治らないのである。そしてその結果所々に綻びが生じる。そしてそれを許容するにはあと何十年も人生が必要になるだろう。
明け方。明け方といっても現在午前19時である。日当たりのいる部屋に住むせいかカーテンを未だ閉めているせいか太陽を拝むことはないのだが、とにかくこの時間までぼくは寝れずにいた。寝れないときに頭を駆け巡るのはたいてい直近の過去の反省か僕が主役の何かしらの劇的な映画である。ある時は正統を追い求めた結果化け物となる主人公を演じ、ある時は自分の人当りを恥じたり、ある時は海外旅行先で危うく性欲に負けそうなった事実を思い出す。現在や過去からの逃避のためにぼくは狂気の自分を追い求める。その狂気というのは目的達成のために没頭することができて周りを省みずそして周りもまた本人を認めている状態を指す。つまり自己実現と自己顕示が両立した理想的状態に憧れる。そしてその状態は過去のいかなる自分を構成している伏線を全て回収し、何等かの今現在の結果にすべて一本の柱で繋がることを求めている。求めているのである。現実はそうはいかない。そのような狂気の自分が自分に舞い降りたことはなく、狂気の結果になったこともない。狂気を演じてみたこともあったがそこに生じたほころびはむしろ自分を苦しめることになった。つまりは結果が伴わなかったのだが、それはそうとしよう。なにより自分自身はどこまでも凡人で、その凡人さと、そして誠実さを追い求めていたという現実に直面したのである。狂気は理想、凡人も理想。でも現実は凡人。では理想は叶ったと思うが、これもまた難しい。この構造がよくわからない。凡人という層の上に狂人という層が乗っかっていて、その両方を求める自分がいるのであろうか。
これはぼくの物語の妄想に関連してくるのだと考える。ぼくの頭の中の物語、しばしばそれは12歳の頃から文章となって表現され印刷され、多くの人に読ませたりはたまた読まれたりしたわけだが、その妄想こそが平凡の上に狂気がコーティングされている。つまり、世のなかに多く知れ渡るフィクションと全く同じ構造を取っている。具体的に言えばスターウォーズ。
例えば運命の申し子になりたがったり、運命に反逆し新しい法則を作り出す存在になりたがる。誰しも考える物語もそうかもしれない。だからこの文章もありがちなものになり得る。それはしかし考え始めるとまた大変なので置いておく。
まず、基本となる法則を追い求める。例えばスターウォーズでいう「フォース」であったり、よくある「運命」だったりする。「強大な支配者」だったりもする。そしてその基本となるものに、自分は「狂人」となり法則に準じて動いていく。妄想の世界でこの法則は絶対で揺らぐものではない。妄想の世界ではぼくは絶対に間違えない。法則を間違えない。
これこそがぼくの今の状態を作り出すのである。平凡の狂気の同居を求めるということ。つまりそれは究極的には平凡を求めているのかもしれない。絶対正しいとされることを妄信的に突き進めばぼくは幸せになれる、自己実現ができるという、ある意味思考停止を求めた状態なのかもしれない。価値観の氾濫するこの時代である。よく大昔の評論でいう「大きな物語」の終わった時代。それが昔。らしい。ぼくの生まれる五年ほど前にそれは終わり、今は価値観の氾濫する時代になっている。だからこそ強い価値観が生まれてカウンタ―も強い。2011以後、それを強く感じている。もはや学べば学ぶほど何が正しいかわからなくなり、そして終着点が分からなくなる。よくフィクションで言われる「それは己が決める」そうしたい。そうしたいし、それが正解だと思う。しかし自分が間違える存在で、正しいところに合わせなければならず、もし自分がそれを踏み外せばそれすらしばしぼくの責任ではなく(大きく元を辿れば自分の責任なのだが)、自捨を求められる「大きな物語」の中にいたぼくが、この物語の氾濫するなかでそれを選択し生きていけるのだろうか。しばしぼくらは尊重される。マイノリティだとしても悪いことだとしても、その個人は尊重される。されるべきである。一方でぼくを取り巻く規範がぼくにどう作用するのか。二つの全く異なるコミュニティを行き来してきた僕に何がどう作用するのか。1984よろしく二重思考である「わかっちゃいるけどやめられない」「間違っちゃいるけど間違っていない」恐らくこの二重思考も誤りであるが。そしてぼくはどちらかを選択し逃避する。どちらも正しいと思うのに。どちらも正しいと思うから。これがまたややこしい問題を引き起こす。
本当のぼくはとても乱暴な狂信者である。属する二つのコミュニティの規範に対して。とても乱暴で妄信的な狂信者である。その折り合いは結局、この22年間でつけることは出来なかった。そしてもう23年目を迎える。自己実現や自己顕示などもう参照ファイルの一個としてもったいぶって時折閲覧する程度でいい時期である。それすらも間違っているのかもしれないが。ぼくのただの達観という自己満足と自己実現の1つの妄想の中の確信の1つなのかもしれないが。だがどうしようもない。この疑い逃れに堕ちぬよう絶対を見つけるまで日向ぼっこしかないんだ。何日も何十年も雲のように漂って。とっつきやすい欲望を転々として理由を探していたけど。ある日ある事あって。また嫌になったんだ。これまでの世界にもこの文章にすらシラケてしまった。ぼくは戻っていった。あきらめと忘却と千羽鶴のように歩む生活の往来に。さながら長澤知之である。回想を繰り替えし思考列車は回送を繰り返しながらぼくは今日もぐるぐると回り先人を参照して一時満足しまた離陸して宙に浮いて厨二に入ろうする。三十分が経った。整理できただろうか。ぼくはこうして前に進めない。前に進み規範に折り合いをつける技量もない。面白いことに一年前のぼくの就職診断で出た答えは「開祖」であった。宗教をひらけというのだ。つまりはもうぼくはそのようにして列車を止めることは出来ないから、早く駅を作りその駅に留まりまた路線を作り走り出せというのだ。それしかぼくのような人間は生きることが出来ない。社会でやっていくこともできない。
そしてぼくのようなものは、地球上にゴマンといる。恥ずかしいことにマジョリティなのである。なんとも哀れ。恥ずべきこと。マイノリティを求めること時代がマジョリティの発想なのである。この世に溢れるマジョリティを求めるマイノリティの物語などすべてその逆でしかない。この文章も自己陶酔の一役目しか果たしていない。道具に頼らないだけマシであるが。
夜が明けた。今日が始まる。あまり酔った文章を書きたくないのでどう締めたらよかろうか。この自分の状態も、外の状態も、宵が明ける。上手い。よしこれで終わりにしよう。