当時はSEOが幅を利かせていてまだ固定ページが情報発信の何たるかを示していましたがSNSをはじめとする「ネット上にデータを散らかしておけばどこかにバズる」というプラットホームの拡大に移行したのでしょう。
個人がアカウント以外に拠点を築かなくなって実質個人のプラットホームがアカウントという鍵にまで縮小というか消滅することによって境界が同時に消滅し情報の発信が情報の力量でのみ測られるようになったように見受けられます。
できるだけ強いことを大きいことを騒がれる事を発信したものが情報単体として力量を認められるようになってきました。
「情報そのもの」の質量で情報の価値を決められるようなそれまでのネット利用者にとって望ましい時節が来たように見えました。
SEOでいかに品質が良くてもくだらないLPを張りまくったほうが上位になっていたことに不満のあった人にとっては望みの形になったのかもしれません。
しかし炎上ねらいといったアプローチや小学生に受けるというだけのほうが視聴数が稼げるというビジネスでその好機を探っていた人にはまったく必要のない方向へ流れたように思えます。
つい最近の潮流として旧ネットユーザーがネットとはなんたるかをそのSEO時代に撒き戻すべくとするような意志を感じさせる「コンテクスト」の連呼がありました。
プラットホームとなる情報基盤を以てしてネットという単発でも手軽にも情報を接種できるメディアをつかって、自己のプラットホームに落とし込むべきだというような流れでした。
ツイッターが議論に向かないとよく言及される「局面で表示された文字に対してのみ意見する」というものがあります。
コンテクストの連呼は結果としてクソリプだとかを発露することになる短プラットホーム情報体へ移行を決意するための最後のあがきだったのかもしれません。
現在はパソコンという手続きの多い機械などを介さなくてもアイコンをクリックで大量の情報をアップロードできます。
有象無象のユーザーがタピオカだのと情報を積層して自己を反映させなくても参加することに満足するという構造に至っている姿はコンテキストを省くと過去「将来やってくる無機質な機械人間の世界」に似ているかもしれません。
当時の作品は未来人の描画がはっきりしていないためコナン君の黒い人のような「状況をつくりあげるその他の人たち」を描いた結果構成部品としての描写だったのかもしれませんが、結果として情報の強度で強さがはかれるようになるとよく似た光景にみえます。
親や出生や地の利やタイミング、運でコンテクストを築き上げてその高みから無駄な情報でもありがたいとされていた過去から、単発的に効果や影響がでる価値に移行するのは情報化社会としては望ましいのかもしれません。
しかし現実的な投資や予算、予定や計画、評価や価値づけについて、過去のものはすでに価値はなく次に取り組む行動に効果がまったく予測できないとなると資本主義的な構造の多くがほころぶかもしれません。
無知で元気のいい若者は単発的で過激な情報の発信で成功していくでしょうし、それを支える社会構造の労働者はひどくみじめな環境から脱することが困難になるかもしれません。
実際の問題として産業や経済の基礎的な構造がなければ継続的な社会は望めないわけですが、若者がみんなキリギリスになり老人が生きているかぎり蟻として支えることになりそうに思えます。
どうでもいいことなんですが、ものごとはなんでも変化していくものなので、おじさんたちも変化していっていいと思います。
未来を語るのにいくらでも言葉だけで、いまの若者が奔放にそうしているようにすればいいと思いますが、おじさんはおじさんなりに累積した過去をかたるのであれば若者の夢をかたるそれと同じではなくしっかりした物理的に根拠なしたものやコンテキストをもってしてするのがよいのではないかとおもいます。
ヘンタイの猫ですニャ。🐈
会社の電話機は登録してある番号だと読み上げてくれる設定になっていて、
登録名に敬称も含めて入ってたりすると「増田さんさん」と機械が呼んでくれます。
それを分かっていて掛かってくるたびに「増田さんさん」から電話だよーってワザとまた人間が、ほれ担当早う出なはれって感じで呼んでくれます。
幸い担当じゃなくて良かったなーと思いました。
ネコ🐈ならばどれほど よかったでしょうニャ
よう、お仲間さん!
スーパーで買う500gぐらいのさ、カップのようなパッケージの味噌なんだけどさ。これ開けたらその後どうすんのが正解なの?
外フタ:パカッと開ける→また閉める→わかる
内フタ:インスタントコーヒーのフタのようにはがしきるのが正解?
上面の紙:捨てる?捨てない? 捨てると不安だが捨てないと次回以降邪魔
エージレス:捨てる?捨てない? 紙に同じ
みんな古代のソクラテスみたいに日常の疑問についてもっと青臭くなろうぜ!オッサンだって中二病患って、哲学したほうがいいじゃないの?
彼はやるべき事をやり、汚れ仕事を引き受けた。彼は効率的に社会にとって良いことを行った!喝采!
とはならないな。良い事と悪い面の両方があり、残忍さが上回るわ。
心の中で彼を拍手喝采する気になれないな。
合理的な功利的な思考をしていくと、植松聖のようなことを行う人間が出てくる。だから功利主義は恐れられ嫌われる。
本質的に功利主義の恐ろしさは、間違えることにあるのだと思う。人間は合理性が限定的だからこそ、よく間違ってしまう。
完全無欠な功利主義者ならすべての人を合理的に救うことが出来るだろう。理想たる功利主義者は間違えない。彼は常に正しいから、すべての人を豊かにする。
だけど、規範主義や人権思想に関しても恐ろしい間違いは存在する。人権思想を重視しすぎると社会の効率、経済効率が落ちるんですわ。
経済効率が落ちると何が起きるか?貧乏人が困窮して未来を奪われるんだわ。理想を追求しすぎて社会がコストを負担しきれなくなると
その社会の外側にいる弱いもの(システムが組み上げられない弱者)から飢えていく。人生を破壊されていく。
まあだから、功利主義も人権思想も両方が手を携えて両輪が必要な風に思うわけだよ。どっちも片方だけが大事と思ってるやつはやべえよ、やべえよ。
ググろう。見つかるまで
出てねーだろ。嘘つくな
かなり序盤に出てるよ