都合のいい女になってしまった とか、
昔の彼氏を忘れられない とか、
好きになった人に振り向いてもらえない とか。
そうした不毛な恋愛経験をしたことがある人はどのくらいいるのだろう。
少なくとも私はある。
一年前、好きな人がいた。一度振られたけどなんだかんだ夜中に会って何度も関係を持っていた。なかなか来ないLINEをずっと待ち、痺れを切らして「今日会える?」と送って返事をじっと待つ。返事がこなかったら、送るべきじゃなかったと後悔する。返事が来たら舞い上がるけれど、結局「ああ、また都合のいい女になってしまった」と時間を置いて後悔するだけだった。どっちにしろ後悔する。でも、やめられない。一瞬の高揚がクセになっていた。違法薬物をやめられない人ってこんな気持ちなのかな、と思った。
そう思ってもなかなかやめられなかった。
そんな私だったが、今では不毛な恋愛とすっぱり手を切っている。
かつての好きな人への未練は断ち切ったし、新しく好きな人が出来ても、ちょっと雲行きが怪しくなったら自分を律せるようになった。相手の表情を伺って自分を押し殺すような真似はやめた。
人の不幸を利用してるのか、と思う人もいるかもしれない。
でも、決してそんなつもりはない。
人の辛い恋愛の話を聞くのは心理的にかなり参ってしまう。仲のいい友人の話であれば尚更だ。自分の大切な友達に何してくれてるんだ、と相手のことを本気で憎くらしく思った。友達につられて泣いてしまうこともあった。
でも、そうして話を聞くうちに、私は不毛な恋愛の第三者として不毛な恋愛を眺められるようになった。
少しでも打ち明けてくれた人が前向きになれるように、と言葉を絞り出す内に非常に冷静になれたのだ。
仕事中かもしれないし、仕事が終わってても疲れて返す余力がないだけかもしれない。
多分今までがよそ行きのテンションだったんだよ。あなたに慣れて、素を見せるようになったんだよ。今のテンションが通常運転なんじゃないかな。
こんなに好きなのに相手が振り向いてくれない?
逆の立場だったらどう?仕事もままならなくて、ご飯も食べられないくらい好きって、嬉しいけど怖くない?異性以外に夢中になれるものが無い人って面白くないと思わない?なんか趣味持とうよ!ボルダリングやろー!
昔の恋人が忘れられない?
それ、相手のことを美化してない?
割り切ってるならいいんじゃない?でも、割り切れないんだったらリスクの方が大きい気がする。妊娠とか性病とか、そういう状態になったとき相手はあなたのこと守ってくれる?
もちろん、打ち明けてくれた相手への思いやりは忘れずに。
LGBTとLGBT以外だったらPZNにも理解ある人の割合って(少なくとも後者に比べたら)前者の方が明らかに多いと思うけど。
LGBTXとかLGBTQって言葉もあるし、あらゆるマイノリティを統一的に語ろうって空気はとっくの昔からあるんだからいつまで不貞腐れてるつもりなんだろう。
ついでに、ペドフィリアもズーフィリアもネクロフィリアももちろん(他人の権利を侵害しない範囲で)認められるべきだけど、PZNという無理な括りには彼ら自身に対する侮辱すら感じる。
無限にあるセクシャリティの中からこの3つを選んだ理由なんて明らかで、「世間で最も吐き気を催す邪悪」として扱われているからでしょ?ただそれを追認しているだけ。
いい加減自分自身がPZN差別の片棒を担いでいることに気付いたら?
たしかにクィアや変態という言葉のように、侮辱の意味を持つ言葉が当事者たちから肯定的に語られるようになった言葉も沢山あるけど。
大多数の健常者?バカじゃないの。
結局おまえは自分を「健常者」だと自認していて、PでもZでもNでもないわけだ。
LGBTを侮辱するための都合のいい棍棒としてPZNを利用しているわけだ。
まあインターネットを見回ってるとそういうの多いよね。
たしかにセクシャリティに境界はないし、「真のペドフィリア」とか、「真のズーフィリア」とか、そういう下らないトカゲの尻尾切りをするべきではないとは思うけど。
それ以上に目について不快なのは、「初潮過ぎた女子に興奮するのは正常だろ!」がどうやらインターネッツ自称ロリコンマンの常套句らしいということ。
いや言うだけ自由だけどね?表現の自由は人権だからね。ヤクザでも犯罪者でも表現の自由はあるからね。
まあLGBTもね。自称バイとか自称トランスとかも割と怪しい人もいるけど、そういう「にわか」を受け入れることこそ重要だっていうのもわかるけど。
まじで?もしそうなら恥の厚塗り半端ないな!
すごい詩的な増田が書けそうなのだが、実際はテクテクテクテクというスマホ地図ゲーの地図塗り領域稼ぎである
毎日少しずつもらえるポイントで塗ることもできるんだけどそんなことしても遅々として進まないし速攻で使い切る
おしごとの行き帰りに寄り道してでも現地に行って無償で塗りまくるのがやはり精神衛生上よろしい(ただし寒い)
フレ機能とかソーシャル機能とかがなくていくら塗っても自己満足というソロ修行ゲームなので、少しでも自分を慰めるために初めて行った大きなイオンの専門店で半額穴子バッテラを買った
半額だけど400円もしたのでちょっとはおいしいのだろうと思う
おうちに帰ったら熱いお茶と一緒に食べよう
「半分近くが恐ろしい人たちなら、半分が優しい人たちでも、その恐ろしさや悲しさの大きさは帳消しにはならない」
真に恐ろしいのは、ある事案では半分の優しい人達だった人達が、別な事案では半分の恐ろしい人達になってしまうことがあるという事。
彼らは、才能なんかじゃないと言うけれど、才能というのは存在する。努力すれば上達すると言うけれど、上達しない人は存在する。
たとえば知的障害者の方でマトモに喋れず、あうあーって言ってるようなのは、彼らの努力が足りないわけではない。
彼らは生まれ持った知性の障害のために、多くの人が持って生まれる知的活動の才能を持っていないのです。
知性においてこれを認めるならば、どうして絵は違うのだと言うことができるのか。
実際に自分は、人生の1/3に相当する期間を、義務教育よりも長い時間を、絵の練習に費やしたけれど、ほとんど誰にも見てすらもらえない程度の能力に甘んじている。
某イラストSNSにおいて誰にも見てもらえずに流れるという経験も、一度や二度ではない。
今ではただ惰性と、無駄なことに時間を費やしてしまったという後悔から逃げたくて描いているようなものだけれども。
それでも続けている、そして流れ去った昨日の絵を見て、また悲しみに暮れるのだ。
こういう人間もいるのだ、それでも才能じゃないと、誰でもと、言えるのか。