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2015-12-23

平野敬子ドンキホーテ

http://hiranokeiko.tokyo/

ブログ読んだ感想として、詳細な記録を残していることから平野敬子がかなり強硬佐野修正案に抵抗している様子が分った

日本グラフィックデザイナー協会JAGDA)、東京アートディレクターズクラブADC)、日本デザインコミッティー、AGIなどの団体所属しているらしいが、腐敗に嫌気がさしているようだ

ここで不思議なことがある

平野敬子が、そういう人物だと言うことは、業界人なら分ってそうなものなのに、高崎卓馬と槙英俊は、なぜ審査委員に選んだのだろう?

審査公平性アピールたかったのかもしれないが、何となく疑問に思ってしま

佐野がここまでアホだとは当事者含めて誰も思っていなかったと思うが、業界腐敗に嫌悪感を持つ良識派のようなもの存在して、五輪ロゴ監視役として、無理やりねじ込んだりしたのだろうかと勝手想像してしま

この想像が正しいと、この後の展開として、業界内で権力闘争が生まれて、団体分裂などのようなものが発生すると思うのだが、果たしてどうなるか。

前言翻すようだが、平野敬子背後関係のないスタンドアローンのような気もする。

しがらみがないから強気にもなれるのだろうと思うからだ。

だとすると、デザイン業界は、平野敬子をただの雑音として、何も変わらないだろう。

そして、同じことがまた繰り返されて、またドンキホーテ私たちの前に現れるかもしれない。

2015-09-02

2020東京五輪クリエイティブに思う事

まもなく四十路を迎えるWebクリエイティブ関連の仕事をしております。昨今、五輪関連でクリエイティブ問題が多々取りざたされているので、思うところをつらつらと書きます

エンブレム盗作疑惑

この問題については、盗作疑惑が持ち上がる以前から有識者から一般人まで、好きだの嫌いだの、良い悪いと倒錯(盗作ではなく)した意見文句罵詈雑言が飛び交っておりましたが、まず問題の整理として、いわゆる「有識者視点からお話しておかなければいけないと感じた事を簡単にまとめます

デザインダメだったのか?

まず、デザインの質はどうだったかについてですが、結論から言うと一定程度のクオリティは持っていると言えます

JOC組織委員会要求がどのようなものであったかについては文献が見当たりませんが、件の作品が発表された際の「パラリンピックとの並立」や「様々なメディアへの展開性」という選考基準に着目すれば、十分にそれを満たしていると言えます。また、図版的な面で言えば、黒・赤という色は白地を背景として視認性が非常に高く、かつシンプルな形状であるから人間認知作用的に受け入れやすい要素を持っていますキャンペーンロゴとして捉えるならば、第一の視認性・認識度は優れた機能性があると言えます。以上がクオリティにおけるプラス評価の点です。

次にマイナス評価として上げられるのが、過去文脈からの逸脱です。詳しくはNaverまとめあたりに歴代ロゴがまとまってるのでご覧いただきながら読んでいただきたいのですが、バルセロナ長野シドニー北京バンクーバー・リオ・平昌に共通しているのは、「人間」がモチーフになっているということです。途中で切れているだろと突っ込まれると思いますが、この文脈オリンピックの歴代ロゴの中で「スポーツイベントである」というアイデンティティ担保する大きなイニシアチブを持っています。これを逸脱するからには、それを代替するだけの文脈必要になりますが、件の作品にある「亀倉雄策」と「鼓動(日の丸)」というモチーフではそれだけの強い文脈を感じられません。

上記の総合評価としては、「アリっちゃアリだね」という評価です。悪いとは決して言いません。

パクリなのか?

正直、分かりません。情報錯綜し過ぎていて、どれが本当の情報判断が付けられないので、パクリであるという明確な断言はできません。それに、展開例として上げられた書体動画で展開していたテクスチャとしての分解要素などは「オリジナリティ」と呼べるものですし、それが仮にパクリ作品に擦り合わせられたものだとしても、その判別は難しいです。デザイナーは後から派生した要件デザインの中にマージしていく事も仕事のうちですから

何が問題なのか?

これはもうリエージュ劇場ロゴとの「類似性」に尽きます。まず法的な論拠についてですが、先発作品商標登録をされていなかったので、商標侵害という係争にはなりません。実際、訴訟となっているのは「著作権」の侵害についてです。「著作権」というのは、商標登録云々というのは一切関係がなく発生し、作られた作品過去作品に類似していた場合過去作品にその作家性等の支配権を有するというものです。具体的には「ベルヌ条約」という国際規程があり、条項ごとに各国が批准する形で国内法に継承されています日本批准しています

次に、デザイン機能としての瑕疵が、過去作品に類似作品があるという時点で発生しているという点です。例えば、コーポレートロゴ等を制作する際に、ロゴにまつわる使用規定や細かなパラメータ(配色の具体的な数値等)、ステーショナリー類などの派生製品制作指針をまとめますが、これを「ビジュアルアイデンティティ」と言います。その名の通り「アイデンティティ」というくらいですから、そのデザインについては「自己同一性」が求められるわけです。簡単に言うと他のロゴマークなんかと誤認されないような工夫が必要ということです。

件の作品は、その色にもアイデンティティが込められていると思いますが、実際は白黒メディアで伝えられる場面もあり得ます言いがかりっぽいかもしれませんが、仮にあの図式がモノクロ写真撮影され、かつ「鼓動」の部分が何か遮蔽物で隠れてしまったとします。すると、リエージュ劇場ロゴとの判別は非常に難しくなります。つまり場合によってはその写真印刷された情報が、リエージュ劇場情報と誤認される可能性を否定できないわけです。この点について、このデザインには明確な瑕疵があります

実は妥当デザインだったのではないか

まり一般には知られていないと思いますが、デザイン価格には業界団体がかなり具体的に指針を出しています

内容としては、デザインの料金は「作業料」と「質」「経費」「量的指標」によって決める事が妥当ですというものです。

「量的指標」というのは曖昧ですが、デザインが利用される事業規模と捉えてもらえば大体合ってると思います。これは事業規模が大きなものはそのデザインに求められる様々な機能性や今回のような「展開性」などがより複雑になります。これについて担保するものと考えてください。その上で、以下の内容、特に事業規模の数字についてご覧下さい。

東京オリンピック 2020 計画書(150ページ)を熟読してみました。 | コラム | Web制作 株式会社ワンゴジュウゴ WAN55 (東京千代田区http://www.wan55.co.jp/column/detail/id=124

これらの全てを、このデザインが網羅するとは言いませんが、「東京オリンピック2020の収入計画」という項目、オリンピックというイベントに直接関わる事業チケット売上とライセンシング(グッズ販売)に限って考えてもなんと911億円もあります。これを元に先のJAGDA早見表ではもう200億円以上ということで量的指数が上限いっぱいです。この表の上限でも1,200万以上と算出できます

この金額が妥当かどうかというと、私はこのレベルデザイン制作したことが無いので何とも言えませんが、しかし、オリンピック組織委員会提示したデザイン費は、たったの100万円です。特別招待席のチケット(笑)も付いてますが。

オリンピックという世界規模のイベントロゴですから世界最高級のクオリティが求められるのですが、与えられた予算はたったの100万円です。それなりに自分作品に対して責任を持つデザイナーであれば、この予算では受けられないと思います。ましてや、世界でも参加できる人間が300人くらいといわれているレギュレーションにあつまるデザイナーが、時間単価をどれくらいで換算すると思いますか。

以上の点から僕個人としてこのデザインは、予算と質が見事にマッチした、実に妥当デザインだったのではないかと結論付けるに至ったわけです。

2015-08-15

グラフィックデザイン業界の所感

グラフィックデザイン文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルク活版印刷雑誌時代エディトリアルデザイン広告コミュニケーションテクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナー職能として、工業化社会における機械製品美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである生活を便利にする機械製品電話洗濯機など)は生まれパーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツール思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザイン勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。

いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度ごますりが必要コミュニティ入会の現状。

デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考しかデザイン評価できない。つまり、受賞した人間はいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネス社会ライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。

本来的にビジネス協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザイン機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。

また別の観点では、現在多くの美術教育現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザイン文脈で育っているので、そのような視点しかデザインを捉えておらず、結果的美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法社会コミュニケーション活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能グラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。

ここ数年、自分生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティ思考高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティ未来はないとだけは言っておきたい。

美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。

2015-07-31

オリンピックロゴに見る、いいデザインとは??

まずは一言ツイッターでつぶやいてるそこのお前だよ。

オリンピックロゴ騒動は素人がやじを飛ばしすぎ。

佐野氏やコンペ参加者デザイナー1964年亀倉雄策氏のデザイン未来へ引き継ぐために

幾何学モチーフシンプルデザイン意識していたのは間違いないのだし、

構成なんて日本の伝統色の赤や金を摘出してるんだからパクリくそもないし、

第一こんな国の命運がかかった大舞台で堂々とどこぞの国のロゴの「パクリ」を発表できるほど、

図太い神経の持ち主は存在しないだろ!すっげープレッシャーで血便出る勢いだとおもうよ!!?

ちっとは考えろよ!コンセプト動画をしっかり見てロゴ意味を知ったやつだけ批判しろ

シンプルデザインは似てくるのは当たり前なの!国旗とかどこも似てるでしょ!

なんなのよもう!素人が口出ししすぎなのよ!ドームの件や衣装の件でごたごたしたからって

なんでもケチつけんじゃないわよ!あ~あこれだからデザインのデの字も知らない素人はいやなのよ!!

斬新だと「きもい」って言うし普遍的だと「パクリ」って言われるしたまったもんじゃないわよ!!!

ツイッターで呟くのは自作ポエムと飼い犬の情報だけにしろつの!ったく!

話は変わるけど、デザイン業界で働いていると、

ADCJAGDA海外のコンペの常連デザイナーや著名なアートディレクターネームバリューがあるからこそ

許されるデザイン(かっこいいと認識されるデザイン)も存在するんじゃないかって思う時が、時々ある。

手書き適当に書いたような文字と写真コラージュされたような構成が印象的なマヨネーズポスターとかさ、

常識の文字組みをとっぱらった、文字組みが超アバンギャルドデザイン雑誌の表紙とかさ、

印象的だけどなんか似たようなやつ見たことあるなと思わせるようなシンプルな色面構成で作られた広告とかさ、

「綿密にバランスとかが計算された斬新さ」だということ前提で、

デザインを知っている人間にとっちゃ「ここまでくると逆に斬新だ。なんかきれいだなかっこいいな」って思ったりするんだけど、

デザインのデの字も知らない、うちのオカンにとっては「へんなの」で切り捨てられちゃうわけよ

きっと、同じものデザイン学校学生が作ろうもんなら、

「これさぁ…デザインというよりはアートに近くね?クライアントが求めてることを

吟味して咀嚼して解決案として図に落とし込むのがデザイナーであって、自己表現したいならアーティストになれよ」って

講師に言われるようなそんなデザインが、大御所がやると許されるわけよ。「逆に斬新」「シンプルインパクトがある」ってね。

何を言いたいのかって言うと、素人にも伝わるデザイン普遍的になりがちだからデザイナーとしては

「斬新さ」「みんなに伝わる普遍的な美しさ」のさじ加減がすっげーー難しいの。

そのさじ加減ができるのがプロ。のはずなんだけど。

今回のような騒動になるってことは、実家オカンにも「へえ、きれいやん」って言われるデザインが、

佐藤卓とかが言う、デザインだと気づかれないデザインが、一番みんなが幸せになるデザインなのかもしれないわね。

無難で、シンプルで、普遍的な美しさを持つロゴ。うん、伝統を重んじる日本ならこういうんがいいのかもね。

で、もう国民投票とかで決めたほうがいいのかしら。

勿論、超ダサいロゴに決まりそうになったら、大御所の方たちが多数決で決めるっていう奥の手を使いつつね。

2015-07-26

東京オリンピック

東京オリンピックエンブレム

この類いのものは何がなんでも批評まとわりつく。ダサイ、これじゃない、

私はそういう事はあまり気にしていない、一流のデザイナーが死にものぐるいで作っているのだから、目には段々なじんでくるだろうし、

ダサイとかそういう批評はおきなくなるだろう。しかし、私は他のところで疑問が浮き上がっている。

今回のエンブレム募集の条件は以下だ。

東京ADC賞」、「TDC賞」、「JAGDA新人賞」、「亀倉雄策賞」、「ニューヨークADC賞」、「D&AD賞」、「ONE SHOW DESIGN」

のふたつ以上を受賞している事というとてもハードルが高いことになっている、この条件を満たす人たちは100人しかいない。

そして今回の、佐野研二郎

この方は博報堂出身で、今現在MRDESIGNという個人事務所を抱えている。超売れっ子広告デザイナー

業界では知らない人がいない。この人の作る物は明快で、気持ちがよくて、かわいい。親しみ易いものを作るデザイナーだ。

そして彼はものすごい量を作る、多分エンブレムが2つ採用されていたが、その裏で何千種類も検証していることは容易に想像できる。

そして、広告出身者だけあって、プレゼンも上手い。

エンブレムプレゼンムービーを拝見したが、写真幾何学をあわせて展開させましょうということが見て取れる。

しかし、その手法はとても流行手法次世代に語り継がれるオリンピックデザインにはそぐわない手法であると私は考えるのだ、

彼は前回、1964年東京オリンピックポスターデザインにとても感銘を受けている、尊敬しすぎているのだ、

シンプルにしようとしすぎると、前回のデザインと同じになってしまう(前回のオリンピックエンブレムテクスチャのついた日の丸)

前回に敬意を抱きつつ、新しいものを作ることを考えすぎていたと思う。

今回のこのエンブレムは一番売れているデザイナーが作っただけにすぎない。

過去仕事評価されてこの人ならいいかという思いで審査員の方も選んだに違いない。

確かに彼はすごい、尊敬できる部分が多いにある、売れているには理由がある。

著名な方々がこぞって集まって審査員をして、一番売れているデザイナーデザインしたエンブレムを選ぶ。

そんな事で良いのだろうか、冒頭でデザインについては心配しないと書いたが、確かにこのエンブレムは目になじんでくるだろう。

しかし、世に残るデザインとしてはつまらなすぎる。もっと良いものが、目に耐えない斬新なものがあったのではないか、

流行手法でないデザインがあったのではないかと思うのだ、

クリエイティブクリエイティブ言われている頭の柔そうなふりした集団でさえ、このような決定しか出来ないのだ。

私は不安になる、オリンピックがただの金儲けの道具になることが。

 
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