はてなキーワード: 輪廻転生とは
僕の知っている人で死を体験した人がいない。
どんなことだって、あらかじめ先人の知恵を調べて準備をするが、この世のすべてのアドバイスは死の際までしか教えてくれない。
宗教は教えてくれるが、あれは願望だ。当てにはならない。
だから、なるべく死を後回しにして、おそらく辛いと予想される死に方を回避するしかない。
でも、死後何がおきるかはわからない。もしかしたら死後の世界があったらどうしよう。その死後の世界は今よりも楽とは限らない。
生前の行いに関係なく地獄と呼ばれるようなところに行くかもしれない。
もしかしたら輪廻転生するかもしれない。記憶がなくなるなら別の人になることだからそれはそれで怖くないかもしれない。
人間は単なる生物で、僕の自意識は僕の体、脳に依存しているからだ。
停止するだけならばいいが、もしかしたら死の間際に主観時間は引き延ばされるのではないかという懸念がある。
それと同じように極限状態で脳の主観時間が引き延ばされて、極限まで引き延ばされて死の際を無限の時間に感じていつまでも死なないということもあり得る。
第三者から見れば、僕は死んでいるが、僕は死んでいる時間まで到達することができずずっとそこにとどまってしまうこともあるかもしれない。
死んだ昨日の僕は、無限に死なない時空で閉じ込められたり、地獄のような場所に転送されたりするかもしれない。
寝た後、知らない場所に行き苦行を強いられるかもしれない。
そして僕は「なんでこんなところに来たんだ?死んでしまったのか?家族にお別れを言いたかった」と思うが、別の僕はまた生まれて家族には無事な顔をみせていることをしらない。
それは同意。話を分かりやすくするためにそこは簡略化してしまった。
言いたかったのは、輪廻転生という科学的検証には存在が説明されていないものを信じるのはどうなの?かって話。
この前ライブ配信で飛び降りした少女が「来世は幸せになろう」みたいに言ってたみたいで、こういうの危ういって思ったんだよな。
「死んでも来世があることは、現代科学では示されていない。それは来世があるかもしれないということではなく、『来世がないという説明ができないだけ』ということ。そんなあるかも分からない来世を信じるのではなく、現世でできることを探すほうがいいのでは?」・・・こんな思考ができていれば、飛び降りなんてしなかったんじゃなかったのかって思う。
来世ってあるんじゃないか、なら今世はどうでもいいとか考えた時期があって、そのせいで投げやりな気分になってたから。
でも今は来世は現代科学では存在を示せないくらい朧げな概念だから、そんなものに身を委ねるのはリスクがある。だから今生きている世界で頑張ろうって思えたんだ。
「誰がやっても同じ結果になる」ってこと
主張じゃなくて、実際に起こることだから、世界のどこで誰がやっても同じ結果が出る
でないと電気を作り出したり家を建てたりできない
でも宗教は再現性がなく、これをやれば同じ結果が出るって訳じゃない
客観性というのは、過程や結果が誰にでも客観的に観察ができるということ
「死んだら輪廻転生する」ということを、誰もその過程や結果を観察できない
その点科学はちゃんと誰が見ても過程や結果が分かるようなものが学説となる
そりゃ後から覆えされるのもあるけど、それはその過程や結果の観察が足らなかったとか、学説の立て方に穴があったとか、そういう場合
でも科学の世界は厳しいから、論文の査読はもちろん、実験で客観的に観察できるか、再現性があるか厳しくチェックされる
でも宗教はそんなことしないんだよ。
だから、輪廻転生があると言ってる人間は現代科学を否定してることになる
宗教なんかがそれ
別人は別人だ。輪廻転生があったとして。
首題のとおり。
知人になんて話せない悩み、葛藤、苦しみをこの場を借りて吐露させていただきたく。
皆さんご存知大規模新興宗教の創◯じゃない方(統一うんたらでもないしオウム関連でもない)の信者家庭の二世として生まれた。
外見はごくごく普通の家庭。
都市部に30年ローンで戸建てを購入し、両親共働き二人兄弟の、なんともありがちな家族像という感じ。
物心付いた頃から頻繁に“支部”に連れて行かれ、同年代の子どもたちと一緒に、時には“御法話”を聞いたり、時には遊んだりしていた。
(もちろんそれ以外にも、一般的な習い事をしたりという、一般的な社会的生活も送っている。)
教団では常日頃から人に優しく、人と仲良く、的なことを教わっていたので、子どもながらに離婚することって信者としてどうなのと思った記憶がある。(ちなみにその後しばらくして教祖も離婚した。わけが分からん。)
無論子どもの意思など関係なく両親は離れ離れになり、今でこそもう何とも思わないけれども、当時とても悲しかったことは覚えている。
ただ、幸い何不自由なく有名私大に奨学金無しで通わせてもらい、誰もが知っている大企業に就職することもできた。
両親の離婚はつらかったけど、何不自由ない、寧ろ人並み以上の生活をさせてもらったことにはとても感謝している。
信者、それもいわゆる宗教二世は恐らく特に、世間が思ってる以上に、新興宗教というものが世間から受け入れられないものであるということをよく理解しているし、世間からの差別にも近い視線に恐怖し、あるいは肩身の狭い思いをしている。(と、思う。稀に堂々と周囲に信仰告白をする人もいるけれども、それはかなり信仰度合の高い一部の人だけだと思っている。)
自分は、自分がこの宗教の信者であるということを死ぬまで他の人には話せないし、話すつもりも全くない。
墓場まで持っていく、とはまさにこのことだと思う。
しかし一方で、この宗教の“教え”については、そんなに間違っていないと思うし、自分の価値観のオリジンとなっていることは認めざるを得ない。
教義としては「愛・知・反省・発展」という4つの要素を常に実践せよということを教え込まれたが、それ自体はまったくもって正しいことだと思うし、そのためか、教団の信者さんたちは皆、優しく、誠実で正直な人ばかりだった。
世間一般的な水準に照らし合わせると、皆がいわゆるいい人だった。
手前味噌ではあるが、自分自身もその要素をある程度は持ち合わせた人間に育ったと思っている。
つまり何が言いたいかというと、信仰のことは一生教団以外の人にカミングアウトすることはできないが、一方で教団を悪く思っているかというと、必ずしもそうではない、ということ。
神の存在(それが教祖かどうかはさておき)や輪廻転生は信じているし、誰も見ていなくとも善い行いを重ねることで死後天国に戻れる、ということも信じている。
かといって教団に積極的にコミットしたいわけでもないので、社会人になってからは教団とはだいぶ疎遠になっているし、いわゆるお布施も直近数年は全くしていない。
でもこんなだから、信者以外の人とは結婚は難しいし(相手方に迷惑をかけるのではないかと思ってしまう)、かといって信者とは結婚したくない。
この先もできる見込みなどない。
自己責任論を突き詰めた結果、自己肯定感が皆無(寧ろマイナス)で奥手な人間が出来上がってしまった。
人生詰んでいる。
いい大学出ていい企業に勤めても、宗教二世という事実が全てを差し引く。
この先何を糧に生きていけばいいのだろうか。
先行きが見えない。
最近教祖様の実子が次々と破門され、しかも教祖様は二回り以上も年下の女性と再婚してたし、教団も組織としてはきな臭くなってきてしまったので、ここいらが潮時なのだろうか。
(ちなみにYouTuberをやっている長男も、破門前はノリノリで教団の映画とか音楽とかやっていたので、破門後の諸言動もあまり信用していない。)
この先どのように自分の人生を全うしていくのか、真剣に再考しなければいけない。
仏教関連の話が上がってたので便乗。
仏教と一口に言っても地域や宗派でぜんっぜん違うというのは最近の増田でも書かれてたかと思う。
全ては柔軟性というか仏陀本人が口伝でしか残さなかったこと、弟子が集まって何度も会議しても分裂してしまったことが現在の形に繋がっている。
そのせいで仏典がありすぎてキリスト教やイスラム教みたいに聖書たるものが確立していない。宗派による。
その中で日本人がぼんやり宗教に抱く胡散臭さみたいな、ファンタジー要素は原始仏教には極力存在しない。
よくある輪廻転生や天国や地獄は元々はバラモン教の考えで仏陀はバラモン教から抜け出すために仏教を作っているので採用していなかったが、後に合流してしまった。
さらに偶像崇拝的に神様を崇めるなと教えてた。そんな仏陀が後に仏像を作られ他の神と変わらない崇拝を受けるのだから皮肉な話だ。
バラモン教が幅を利かせていた時代、仙人になるための宗教なども他に勃興する中でよりよく生きようと考え広めたのが仏陀にすぎない。
どちらが良いかみたいな話ではないけれど、各地に広まり日本でも多数の宗派のある現代の仏教は大海に流れ海の水となった川の水のようなもので、原始仏教は山の中の湧き水のようなものだと思ってほしい。
膨大な歴史の中で多種多様な宗派や考えが形成された仏教だからこそ、その源流(とされる)原始仏教を、仏教の歴史という視点でもって勉強しようぜ。
死への恐れは誰でも本能的に持っているので輪廻転生がある「ことにする」という説明で回避しようとする。
信仰で病気が治ったりはしないが治らない病気をどういう気持ちで受け入れればいいのかの指針にはなる。
宗教はどうしようもないものについて (現実にはどうにもならないが気持ちの上では) 救いを与えるものなんだよ。
いうなれば手品に似ている。 タネも仕掛けもあるのは知ってるけど楽しむために騙される。
宗教的概念は証明なんて出来ないしデタラメなのは知ってても救われたいんだ。
証明できる現実でなければ正しくないなんていったらフィクションを楽しんではいけないのかい?
漫画に対して「そんなことは起こっていない」「そんな人物は存在しない」って言ったってしょうがないだろう。
そんなことは承知の上で楽しんでるんだ。
宗教的概念が非現実的でもその考え方をとることで救われることもある。
仏教が他の宗教と違うところは神がいないことだ。他の宗教には神がいてそいつが偉そうにああしろこうしろというものである。ルールを人格化しているともいえる。一方の仏教ではルールはただルールとして存在し人格化はされていない。
仏教はただ世界観を与えるものである。まず生きることは辛く苦しいものであるとされる。その上であなたは死んだあとにまた別の存在として生き返りますと言われる。これが輪廻転生。辛くて苦しい生の呪縛から抜け出すことが仏教の目的。
善い行いをしてカルマを貯め煩悩を廃した状態になればあなたは輪廻転生から解放されますよとそういうやり口である。初期仏教ではこの修行は個人的なものであったが日中韓で流行った大乗仏教では皆でこの状態にならないと意味ないよねということから始まった。菩薩という皆の先生になりたいという煩悩のみが残った生体の概念を作り出した。
あの透けている「宝石感」と硬質な感じとCGが完全にマッチしていて最高のCGアニメーションだったよね!!
原作が白黒だと見た目似てるから混乱しやすいところを、アニメだと色と声がついて見やすくなってるのもいいなー!
さらに曲も最高なんだよ…サントラよく聞いてる。世界観がそこらへんにあるものではなく、東洋の文化を感じるところもいいよね!
面白いところで終わるから是非アニメの続きも原作で見てほしいな。
あのときアニメを見たあと原作を読んだんだよねぇ…懐かしいな!
石には血も涙もないけれど、心はあるんだ。
何度世界が滅びようとも宝石は美しくあり続け祈りは世界を照らすだろう。そう願ってならないのである。世界は残酷で心も残酷だ。人はいつだって何者かになれると信じている。もがき、あがき続けた結果でるのは成果ではなく間違いかしれない。誰かのためを思ってやったことは全て間違いだったのかもしれない。しかし止まることはできないのだ。人間とは愚かでおぞましく、だからこそ美しい生き物だから。でも石は救われない。輪廻転生には含まれない。石はただそこにあるだけ。どうにもならないのだ。そこに魅力を感じたり感じなかったりする。シンシャかわいい。