はてなキーワード: 紙一重とは
そこまで言ってないって分かってるんだったら、紙一重という都合のいい言葉でまったく別のこと一緒にするのやめてもらっていいですか?
深夜の翳りに身を晒し、今やっと眼を覚ました。これは魂の夜ふかし、そう呼ぶべきでしょう。
さて、私は時折、American Mathematical Society(以下、AMS)の書籍を求める運命にある。特にStudent Mathematical Libraryというシリーズは、その薄っぺらい体裁ながら、研究の奥深さを体感できるとても理想的なものであり、よく手に取ることとなる。しかし、その紙一重の薄さの背後に隠された内容は、従って、大学院の学生にのみ耐えうるものとなっている。昔、あまりの熱意から何冊か買い求め、積読の山を築いたこともあるが。
その山に埋もれる中、一つの書を読み尽くしたことがある。それは、数理モデリングの書であった。数理モデリング、これは往々にして、ラグランジュの未定乗数法などのよく知られた方法論に頼る傾向がある。しかしながら、AMSの書籍はそのくだらない枠組みにとらわれず、多彩な事例を探求していた。とはいえ、フレンケル教授が言うように、数理モデリングと言っても、ついには「ペンキ塗りの数学」である。
私は数学の最前線を垣間見るようになり、調和解析と数論の奇跡的な交差、フェルマーの最終定理、ガロア群、保型関数など、その深遠さに驚嘆する日々である。最近は、経済学に数学を結びつけることに強い興味を抱いており、mean fieldのような奥深い謎が私を惹きつける。
学びたいことが山ほどあり、私の能力と時間には限りがある。何を学ぶべきか、と悩むのはやむを得ない。しかし、コスパを重視し過ぎると、ついにはペンキ塗りの典型に陥ってしまうだろう。複数の数学の領域を結びつけることは、即座に実用性が見えるものと、その応用が果たしてどこに行くのか見当もつかないものがある。伊藤清が指摘するように、「実用を考慮しなければ、数学で遊ぶことは限りない」。この観点から見れば、私が探求すべき分野は、確率論の領域にあるのは明らかだろう。確率微分方程式とゲーム理論の交わる地点は、実用性との調和によって成り立つ、その方向へと進む決意を固める。
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ジャニーズのタレントを元通りに応援出来るようになる日なんてもう来ないのに、静観してるつもりの一部のファンが言っちゃなんだがなんだか哀れに思える。そうやってレッテルの貼るのよくないのもよくはない、というか別に意味はないけど。
愛着を感じはしてもしょせん(ヤラカシとかじゃない限り)コミュニケーションもとれない他人でしかない存在に、なんの根拠もなく全幅の信頼をおけるのもよくわからない。理解したくても途中でつまづいてしまう。
タレントを盲信すること自体、タレントを人として尊重しているのとは違う態度だと思うけど、その態度を取る多くの人は、それが「アイドルを選んだ彼らを尊重する態度」であると思っていそう。信じることは脅すことと紙一重なのに。
TBSの報道番組で、プーチン影武者説を検証していて番組内では影武者を使ってるだろうって雰囲気。
AIを使って顔認証やら耳の形を比較したり、声紋鑑定したりしてる。
鑑定方法によって、影武者説が肯定されたり否定されたりまちまち。
専門家が肯定してるのに素人が「ねえよ」って否定するのもなんだが、人間がパッと見た目で判断できないくらい高技術の整形とかあるのかね。
喋り方にしても、声紋鑑定にかけないと違いがわからないまで似せるとか。
プーチンさんにしても金正恩にしても「健康不安説→実は相当やばいらしい→いまメディアに出てるのは影武者だ」っていうのを以前から繰り返してただの願望なんじゃねーかって気がしてならない。
いつお亡くなりになるんだよって感じだわ。
思春期の時、学校生活に生きづらさを感じてインターネットに逃げる訳じゃないですか。そしたら、社会人として社会で生きづらさを感じている人たちが口々に様々を言っているんですよ。やれ「定時で帰る」だの「プライベート優先」「飲みニケーション反対」と。それを読んだ自分は自分の生きづらさとそれをイコールで結び付けちゃって、自分も働いたらそうなると思ってたんですよね。そういう人ってたいがい趣味を持っていて、そちらを優先みたいな大義名分があるけど、自分も趣味とかはきちんとあったし。同じようになるんだと。全然違ったね。
何なら、飲みニケーションは実際にやってみたら得意大好きだったんですよ。素面のコミュニケーションが苦手な自分にとって全員が酔ってくれる状況ありがたすぎる。多少会話ミスってもオッケー。酔ってるから。基本全員に好意的な感情を抱くタイプ(故に、教室の徒党を組んでナンボな環境だと詰む)は酒と相性がいい。
あと、学校と違って同世代、同じ立ち位置の人間ばかりじゃないの、ありがたすぎ。初手のデフォがタメ口の環境が最悪レベルに苦手だっただけだった。職場は、さん付け、敬語が初期装備で本当に気が楽。年が上下離れているって本当に楽。自然と一定の距離ができるから。ありがたい。
不安定な自我を支えてくれる基盤として、職場のなれ合いは本当にありがたかった。
オタクで、陰だから今更気づいたけど、こう、非行に走ってヤンキー路線、ガテン系の環境とかも割と向いてたんじゃないかと思える。大前提として性格に欠陥があるから、そこを許容されなかったらおしまいだけど。。。紙一重でかわいがられる要素になれば。。いや、でもたらればすぎるな。きっと縦社会じゃやっていけない。
でも、世界が陰にやさしくなりすぎてしまって、(助かっている人も多いからこのままでいいんだけど、)非行に走らせて発散させればいい感じに社会復帰できたやつらが、子供部屋で鬱屈した感情を蓄えるだけになっているケースもあるんじゃないか。うーん。考えたって仕方ない。
https://note.com/h_ototake/n/n01dadb8bae68
でも、ホームから線路までの高低差を見たことない人はいないと思う。
数年前パスケースを落として確認のために見下ろして足がすくんだ高所恐怖症には見下ろすことさえやりたくない、普通の人でも躊躇すると思う。
そこを躊躇なしに駆け寄りたお母さん。今まで何度そんなことがあったことか。
そこを叩かれる世の中。
同じ母親という属性として、このお母さんに感情移入してしまい泣けてしまう。
お母さんがいなくなった時についてのブコメがあったけど、そんなこと山ほど考えてでも出来ることやってきた、今なのだと思う。逆に何かもっとできること、できたことがあれば聞きたいんじゃないのかと。
私個人は何もできないが(できたとしても自分の暮らしに支障なく数万程度を今から振り込むくらいしかできないけど) 、あのお母さん(かも不明だけど) の迷いもなく飛び降りたかっこよさと、息子を抱きしめする力は後から映像なしで思い返してもやるせなくて泣けてしまう。いつかあのお母さんが、あんな日もあったわーマジやばかったとわたある日が来てほしい。
ここで、自分の子供もこうなった可能性がある、紙一重で違うだけだ、自分は幸せ者だと思うとき、そこには差別心があるんだろうとも思う。
全ての人が快適な解決策と、その時の無関係な(直接的な人間関係ない) 人や、通りすがりの人が持つべき感想を教えてほしい気がする。
死んだように寝た。
渡辺明が敗れて、私は死んだように寝た。
第81期名人戦七番勝負第5局。18時53分、藤井聡太竜王が決め手となる一手を放つと、名人・渡辺明はすぐさま頭を下げ、駒を投じた。この瞬間、名人戦七番勝負が決着。藤井は名人位を奪取し、史上最年少名人、そして七冠を達成した。一方の渡辺は、唯一のタイトルだった名人を失冠。2004年以来、約18年半ぶりに無冠へと転落した。
重苦しい沈黙が対局室を支配した後、対局者へのインタビューが行われた。まずは勝者の藤井。いつもどおり、慎重に、丁寧に言葉が紡がれていく。一方、座して待つのは渡辺。藤井へのインタビューがひとしきり終わった後、ようやくマイクは向けられた。この将棋のこと、名人失冠のこと、そして無冠のこと。待ち続けた後に投げかけられる問いは、どこまでも厳しく、容赦がない。それでも渡辺は、こちらもいつもどおり、きっぱりと、はっきりと言葉を発していた。
対局後の儀式を、半ば虚空を見つめるように眺めていた私だが、しばらくしてニュースに現れた「渡辺九段」の文字に心は決壊した。体と心の全部がそれを拒絶した。到底受け入れられないと思った。あらゆる思考を強制的に断ち切りたいと思った。布団をかぶって、枕に顔をうずめた。そのまま、死んだように寝た。渡辺明が敗れて、私は死んだように寝た。
翌朝になって、渡辺のツイッターを見た。なんと渡辺は、終局直後にツイートをしていた。しかもそれは、私を含む将棋ファンへの言葉だった。「長い間、タイトル保持者として充実した時間を過ごすことができたのは、将棋ファンのみなさまのおかげです。ありがとうございました」。
どうして、終局直後に当人がこれだけの発信をできるのだろうか。無冠になった夜に。ただの一ファンがショックで不貞寝していた夜に。その胆力に打ち震え、「あなたのファンでよかった」と思うとともに、無冠への転落もまた現実であることを同時に突き付けられるのだった。
2004年に、弱冠20歳で初タイトルとなる竜王を獲得した渡辺。以降現在まで、一度も無冠となることなくタイトルを守り続けてきた。渡辺の同世代に、渡辺ほど突出した棋士はいない。若き頃は、最強と呼ばれる羽生世代相手にまさしく孤軍奮闘、その剣を振るった。2015年になって、ようやく年下の棋士とタイトル戦を戦うようになるが、ここも譲らない。奪取や防衛を重ね、後輩の棋士を寄せ付けなかった。渡辺は、「たった一人」を除いて、年下の棋士にタイトル戦で敗れたことがない。竜王9連覇、棋王10連覇。圧倒的な戦績で、2つの永世称号資格を獲得。通算タイトル獲得数は31で、歴代4位を誇る。
これだけの戦績を残す渡辺だが、早い段階から、自らの立ち位置を冷静に見つめていた。「羽生と藤井の間」。つまり、時代を築く絶対王者の系譜に自らはいないということを公言して憚らなかった。時代のいわば谷間で、孤独に闘い続けた。残酷な言い方をすれば、「次の時代の到来を待っていた」そういうことになるのかもしれない。
渡辺の言葉を裏付けるように、その「たった一人」がタイトル戦の舞台に現れたのは2020年の夏だった。それから今日まで、思い返せば一瞬のように過ぎた。「すごい人が出てきた」の棋聖戦。自身初のストレート負けで散った翌年のリターンマッチ。2日制七番勝負、王将戦で並んだ4つの黒星。「冬将軍」と呼ばれ、10連覇の強さを誇った棋王の失冠。そして名人戦。この間、ただ座して死を待っていた渡辺ではない。研究を深め、自らの将棋をアップデートさせてきた。悲願の名人位を獲得し、3連覇を達成。「第二の全盛期」とも呼べるような充実ぶりだったが、たった一人、藤井がそれをあっという間に塗り替えていった。
藤井20勝、渡辺4勝。気付けば、圧倒的な星の差が付いていた。藤井と渡辺の対戦には、星の差が信じられないような名局が多い。中盤から終盤にかけての、白熱の競り合いと斬り合い。しかしそれらは、渡辺の敗局となっていった。星の差は、勝負の運で生まれたものでないこと。紙一重の差は、とてつもなく大きなものであること。不思議の勝ちはあっても、不思議の負けはないこと。そのことは、渡辺自身が一番よく分かっているはずで、だから渡辺は言い訳をしなかった。「実力不足」そうきっぱりと言い残して、名人戦の舞台を去った。
今回の名人戦、渡辺が唯一勝利した第3局が忘れられない。終盤、渡辺が勝ちの局面になり、決め手となる一手が生まれた。その手自体は一瞬で見えていた渡辺だが、なかなか盤上に手が伸びない。勝利の一手を決断するまで、実に93分を要した。これは渡辺の勝局だが、ファンにとってはまるで負けを味わわされているような、非常に重たく、苦しい時間だった。藤井という圧倒的な存在。目の前にいる「時代」。そこに一矢でも報いるのはこれ程までに過酷なことなのかと、勝利したことで逆に思い知らされる一局となった。
壮絶な戦いを終え、無冠となってしまった渡辺に、今どんな言葉がかけられるというのだろう。自分では、なかなか言葉を見つけることができなかった。しかし、しっくりくる言葉があった。今回、藤井に最年少名人の記録を破られた谷川浩司十七世名人の言葉だ。
将棋とは、対局者二人で創り上げるものである。そして、藤井に真の力を引き出させることができるのは、渡辺を含むほんの一部のトップ棋士しかいない。トップ棋士が諦めたとき、藤井は盤上で孤独になる。七冠達成とは、類まれなる偉業であり、それと同時に、プロの将棋にとって存亡の機でもあるのではないだろうか。
しっくりくる言葉とは言ったが、よく考えてみれば、こんなに残酷な言葉はなかったかもしれない。なぜなら、これまで孤独に闘い続けてきた渡辺に、これからは「藤井さんを孤独にさせてはいけない」と言っているのだから。どれだけ過酷なものを背負わせようとしているのだろうか。残酷な響きに後ろめたさを覚えつつ、それでもなお、私はこの言葉を選ぶ。「無冠になったことで将棋への向き合い方が変わるわけではない」。失冠の日、こう言い残した渡辺にすがる。
何が好きかと問われれば、その将棋の質、それに人柄と振る舞いだ。理路整然とした勝ちへの道筋。細い攻めをつなげ、厚い攻めをさらに分厚くしていく技術。「将棋は仕事」とドライに割り切りながらも、その仕事できっちりと結果を出す仕事人ぶり。本質を包み隠すことのないきっぱりとした物言い。画面の向こうにいる将棋ファンのために行われる明朗快活な感想戦やツイート。そこにある第一人者としての責任感。弱さも含めて自分をさらけ出す強さ。それらの全てだ。
将来、将棋の歴史がどう定義付けられようと構わない。渡辺明は、私にとっての「時代」だ。過去形にはしない。今はただ、渡辺の次の一手が見たい。