2023-06-02

渡辺明という時代

 死んだように寝た。

 渡辺明が敗れて、私は死んだように寝た。

 第81期名人戦番勝負第5局。18時53分藤井聡太竜王が決め手となる一手を放つと、名人渡辺明はすぐさま頭を下げ、駒を投じた。この瞬間、名人戦番勝負が決着。藤井名人位を奪取し、史上最年少名人、そして七冠を達成した。一方の渡辺は、唯一のタイトルだった名人を失冠。2004年以来、約18年半ぶりに無冠へと転落した。

 重苦しい沈黙が対局室を支配した後、対局者へのインタビューが行われた。まずは勝者の藤井。いつもどおり、慎重に、丁寧に言葉が紡がれていく。一方、座して待つの渡辺藤井へのインタビューがひとしきり終わった後、ようやくマイクは向けられた。この将棋のこと、名人失冠のこと、そして無冠のこと。待ち続けた後に投げかけられる問いは、どこまでも厳しく、容赦がない。それでも渡辺は、こちらもいつもどおり、きっぱりと、はっきりと言葉を発していた。

 対局後の儀式を、半ば虚空を見つめるように眺めていた私だが、しばらくしてニュースに現れた「渡辺九段」の文字に心は決壊した。体と心の全部がそれを拒絶した。到底受け入れられないと思った。あらゆる思考強制的に断ち切りたいと思った。布団をかぶって、枕に顔をうずめた。そのまま、死んだように寝た。渡辺明が敗れて、私は死んだように寝た。

 翌朝になって、渡辺ツイッターを見た。なんと渡辺は、終局直後にツイートをしていた。しかもそれは、私を含む将棋ファンへの言葉だった。「長い間、タイトル保持者として充実した時間を過ごすことができたのは、将棋ファンのみなさまのおかげです。ありがとうございました」。

 どうして、終局直後に当人がこれだけの発信をできるのだろうか。無冠になった夜に。ただの一ファンがショックで不貞寝していた夜に。その胆力に打ち震え、「あなたファンでよかった」と思うとともに、無冠への転落もまた現実であることを同時に突き付けられるのだった。

 2004年に、弱冠20歳で初タイトルとなる竜王を獲得した渡辺。以降現在まで、一度も無冠となることなタイトルを守り続けてきた。渡辺の同世代に、渡辺ほど突出した棋士はいない。若き頃は、最強と呼ばれる羽生世代相手にまさしく孤軍奮闘、その剣を振るった。2015年になって、ようやく年下の棋士タイトル戦を戦うようになるが、ここも譲らない。奪取や防衛を重ね、後輩の棋士を寄せ付けなかった。渡辺は、「たった一人」を除いて、年下の棋士タイトル戦で敗れたことがない。竜王9連覇、棋王10連覇。圧倒的な戦績で、2つの永世称号資格を獲得。通算タイトル獲得数は31で、歴代4位を誇る。

 これだけの戦績を残す渡辺だが、早い段階から、自らの立ち位置を冷静に見つめていた。「羽生藤井の間」。つまり時代を築く絶対王者系譜に自らはいないということを公言して憚らなかった。時代のいわば谷間で、孤独に闘い続けた。残酷な言い方をすれば、「次の時代の到来を待っていた」そういうことになるのかもしれない。

 渡辺言葉裏付けるように、その「たった一人」がタイトル戦の舞台に現れたのは2020年の夏だった。それから今日まで、思い返せば一瞬のように過ぎた。「すごい人が出てきた」の棋聖戦自身初のストレート負けで散った翌年のリターンマッチ。2日制七番勝負王将戦で並んだ4つの黒星。「冬将軍」と呼ばれ、10連覇の強さを誇った棋王の失冠。そして名人戦。この間、ただ座して死を待っていた渡辺ではない。研究を深め、自らの将棋アップデートさせてきた。悲願の名人位を獲得し、3連覇を達成。「第二の全盛期」とも呼べるような充実ぶりだったが、たった一人、藤井がそれをあっという間に塗り替えていった。

 藤井20勝、渡辺4勝。気付けば、圧倒的な星の差が付いていた。藤井渡辺の対戦には、星の差が信じられないような名局が多い。中盤から終盤にかけての、白熱の競り合いと斬り合い。しかしそれらは、渡辺の敗局となっていった。星の差は、勝負の運で生まれものでないこと。紙一重の差は、とてつもなく大きなものであること。不思議の勝ちはあっても、不思議の負けはないこと。そのことは、渡辺自身が一番よく分かっているはずで、だから渡辺言い訳をしなかった。「実力不足」そうきっぱりと言い残して、名人戦舞台を去った。

 今回の名人戦渡辺が唯一勝利した第3局が忘れられない。終盤、渡辺が勝ちの局面になり、決め手となる一手が生まれた。その手自体は一瞬で見えていた渡辺だが、なかなか盤上に手が伸びない。勝利の一手を決断するまで、実に93分を要した。これは渡辺の勝局だが、ファンにとってはまるで負けを味わわされているような、非常に重たく、苦しい時間だった。藤井という圧倒的な存在。目の前にいる「時代」。そこに一矢でも報いるのはこれ程までに過酷ことなのかと、勝利したことで逆に思い知らされる一局となった。

 壮絶な戦いを終え、無冠となってしまった渡辺に、今どんな言葉がかけられるというのだろう。自分では、なかなか言葉を見つけることができなかった。しかし、しっくりくる言葉があった。今回、藤井に最年少名人の記録を破られた谷川浩司十七世名人言葉だ。

 「藤井さんを盤上で孤独にさせてはいけない」。

 将棋とは、対局者二人で創り上げるものである。そして、藤井に真の力を引き出させることができるのは、渡辺を含むほんの一部のトップ棋士しかいない。トップ棋士が諦めたとき藤井は盤上で孤独になる。七冠達成とは、類まれなる偉業であり、それと同時に、プロ将棋にとって存亡の機でもあるのではないだろうか。

 しっくりくる言葉とは言ったが、よく考えてみれば、こんなに残酷言葉はなかったかもしれない。なぜなら、これまで孤独に闘い続けてきた渡辺に、これからは「藤井さんを孤独にさせてはいけない」と言っているのだから。どれだけ過酷ものを背負わせようとしているのだろうか。残酷な響きに後ろめたさを覚えつつ、それでもなお、私はこの言葉を選ぶ。「無冠になったことで将棋への向き合い方が変わるわけではない」。失冠の日、こう言い残した渡辺にすがる。

 何が好きかと問われれば、その将棋の質、それに人柄と振る舞いだ。理路整然とした勝ちへの道筋。細い攻めをつなげ、厚い攻めをさらに分厚くしていく技術。「将棋仕事」とドライに割り切りながらも、その仕事できっちりと結果を出す仕事人ぶり。本質を包み隠すことのないきっぱりとした物言い。画面の向こうにいる将棋ファンのために行われる明朗快活な感想戦ツイート。そこにある第一人者としての責任感。弱さも含めて自分さらけ出す強さ。それらの全てだ。

 将来、将棋歴史がどう定義付けられようと構わない。渡辺明は、私にとっての「時代」だ。過去形にはしない。今はただ、渡辺次の一手が見たい。

 

  • 三浦九段への仕打ちは一生忘れないよ

    • 証拠不十分でクロにならなかっただけの人に疑いの目を向けた事は罪でも何でもない。トップ選手の場だからこそわかるものがあり、不審な打ち手に対して疑念を示すのは何一つ間違っ...

      • 謝罪しましたしね。終わったことをいつまで言ってるのやら

  • 相変わらず君は渡辺明をひいきしてるね。 そんなことより、君自身のことを教えてよ。 求職活動はどうなったの?

  • 将棋ファンって存在してるの初めて知った

  • 三浦の件で嫌いになったヤツは多いだろう もともと羽生とか藤井と違って愛嬌がないと言うか、好かれないタイプというか

    • いけすかない三浦のくせに強すぎて怖いから権力使って挑戦者チェンジ!は人間臭すぎて逆に好きになったファンもいるよ。 中原も米長も羽生世代も人間性はでこぼこで、それだからこ...

    • 盤外工作の激しさは勝負師の勝利への執念だったとも思う。 あそこまで激しく冤罪を言い募ったのは異常。 全てのタイトルが剥がれた今、渡辺を支えるのはなんなんだろうな。 VS藤井に...

      • 妻に漫画を描かせて野球ファンアピールも盤外工作のための発言力ポイント稼ぎなんだろうな。 まあ棋士って1000人いたら999人は「チンコを出して勝てるなら俺はチンコを出す...

  • 顔は完全に中〇人だよね(個人の感想です)

  • コメントやブクマの特定の人たちの「正しくない事をした人を応援するのは、不正に加担する事だ」的な揶揄がウザ過ぎて。あんたは一生、ウーマンラッシュアワー応援してればいいか...

    • 悪を批判されると都合が悪いのかな?

    • 醜いのは冤罪ふっかけマンだろ

    • もしかしてナベが批判されてると思った? 違うよ! 将棋ファンはみんなナベのことが最低限好きだよ! だって強いんだもん! 実績すごいし。 悪どいことをするトップ棋士なんて珍しく...

      • いうほど曖昧か?→「ナベみうみう間の和解は曖昧だけど」 ナベは、みうみうの会見で和解したと宣言されてるわけだし、ナベ本人もニコニコでちゃんとファンに謝罪してるのがとて...

        • ガチコンの犯人は被害者のみうみうが言及してる小暮だろうな。 主犯としての小暮、というか主催新聞のやりたい放題感が、新聞以外のスポンサー探しが加速したきっかけなのかなって...

    • トラバもブコメも熱を感じる文章に対してどうやって冷水ぶっかけようか、に執心したものばかりでこんなサービス潰れるべきな気がしてきた

    • 三浦だけじゃなく、棋界や対局ソフト関係者含めて私欲のために陥れたワケやからな 恨まれて当然

    • ブクマ叩きをやっている卑怯者なんてその典型例でしょ

  • 将棋プログラムのBonanzaのウィキペディア見てたら2005年からソフトとやりあってたらしいな 第一人者だな

  • 素晴らしい文です。渡辺前名人に対する筆者の敬愛が痛いほど伝わって来ます。多く人に愛されている前名人。まだこれからです。

  • 三浦と渡辺くんはずっ友だよ♡ 悪いのは将棋連盟😠 とか言われてもさ―納得できねーよなー アレのせいでAI関連も一時期下火になっちゃったしさ なにより「AIにカンニングさせてもら...

    • でもなんか明らかに「ソフトずるい!ソフト怖い!将棋ソフト滅びろ!」みたいな個人的なノリが入り込んでたわけじゃん。 入り込んでなかったが。お前の妄想だが。 妄想で有名人に...

      • 「事実と憶測、感想は分けて書こう!」 ホント重要だよね

  • ALSOK杯王将戦中継ブログ : 終局直後 久保利明が「説明します」と言ってから今日で・・・・・・ 2,271日 早く説明してください久保九段!

  • 正直米長、中原、芹沢とかに比べると全然。 米長なんかキチガイやで。(まあ桐谷、林葉、先崎、武者野など相手もどうか?という相手だが) 大山もやばいぜ。名人戦のとき新聞記者脅...

  • 与沢翼という時代

  • とはいえぶっちゃけ渡辺さんが勝てると思ってた人は1人もいなかったよね…。藤井さんが挑戦者になった時点でゲームセット感があった。残る王座戦もそうなるでしょう。

  • この人すごい嫌い なんの証拠も無く他人をカンニング扱いして大騒ぎしてた人でしょ 藤井くんもこいつに勝ちすぎたら何されるかわかったもんじゃないからずっと心配だったわ

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    • お疲れ様です!

    • 俺の書いたの、一つも入ってなくて草 俺の人生は文学じゃないんだなぁ ちょっとは気の利いたこと書くか

      • 投稿時間帯とか2-3ブクマがつくのを18時頃の人が集まってくる時間帯にするとか工夫してみたら? 曜日は金曜土曜のスマホ触ってそうな人が多そうな曜日にして あとよかったらリンク貼...

        • ブクマは数100とかは付くけど、ネタ増田とかが多いからかな 自分のネタはもう尽きた 書いた増田↓ おパンツとは言うのにおブラジャーとは言わないのは国難 https://anond.hatelabo.jp/2023112...

          • ブクマ700の経験あるけど、過去の知見を使ったお役立ち情報増田だったので、 こういうサラッとした短文ネタ増田で支持を得られるのは尊敬するわ おパンツはわざとらしすぎてゴミカス...

          • 売れない芸人の大喜利レベルだよな。もっと役に立つ記事とか勉強になる記事とか書けよ。低学歴か。

    • 増田文学まとめって2022年だけ抜けてるんだよな 誰かまとめてくれないかな、俺は技術力も読解力も不足してるのでパス

      • 簡単にパスしないでくれ 文句だけ言ってフリーライドするのは今日でやめにするのだ ①スクレイピングツールoctpusで「https://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F2022&sort=coun...

    • 4本入ってた。去年は低調だったかな。 今年はもっと頑張ろう。

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