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はてなキーワード: 打擲とは

2024-04-22

anond:20240422002105

一般性というのが結局欧米宗教文化を元に法学として成立した一般性じゃん

それは局地的な西欧での一般性に過ぎないでしょ

イスラム法学でそれがどのように解釈されるかもまだ割れてる状況でさも物理と同等レベルフェミニズムに関する法学が全人類一般適用できるかのように言うのがおかし

アッラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべもの。だから貞淑な女は(男にたいして)ひたすら従順に、またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘めごとを他人に知られぬようそっと守ることが肝要。反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ、それも効がない場合は)打擲を加えるもよい。だが、それで言うことを聞くようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。アッラーはいと高く、いとも偉大におわします。

・男たちは妻たちの支援者である。神が一方に他方よりも有利な点を与えたからであり、彼らが財産を費やすからである。よって道徳的に正しい女とは、課せられたことに従う者たちであり、神が大切にしてきたものを守る者たちであるあなた方が抵抗をおそれる女に対しては、諭し、寝床放置し、そのもとを立ち去りなさい。もし彼女たちがあなた方に従えば、それ以上のことをしないように。本当に、神は高く、偉大であられた。

かに井筒俊彦は古い法学者の研究者だったか現代ではフェミニズム適用した後ろに変化しつつはある

でも変化してる最中、受け入れるかどうか実験中ってのは事実としてそうなわけで。

1860年から1900年代にかけて証明された事実なんてのは西欧可能だっただけで別に西欧以外の社会が受け入れたわけでもなんでもない

ウラマーの人たちも今必死こいてどうフェミニズム適用するか社会を見ながら考察解釈してる最中でしょ欧米論理に不信感だってあるのに

軽々しく物理学ほどの一般性を持つと主張するべきではないよ

2023-10-08

チンチンを使って物理的に対決したい

チンチン自体の大きさや形や美しさを競うのでない競技性のあるスポーツ

イメージとしては腕相撲的な。

チンチンを使った肉体的な勝負

でも考えると意外と難しいんだよな。

腕とか足と比べて圧倒的に短いか相手との距離が近すぎるしノーマル状態だと柔らかくて打撃に向かない。

よってチャンバラ的な戦いをしようとしてもすぐに体を使った押し相撲になってしまいそうだ。

ではチンチン同士を紐でしばっての綱引き勝負はどうか。

これはいちおう形にはなりそうだが勝負後のチンチンが深刻な損傷を受けてしまうだろう。

いけそうな案としてはチンチンを使ったボール投げ(テニスボールなど)だろうか。

古代打擲器みたいなのをうまく竿に結んで体の動きを利用して遠くに飛ばす。

砲丸投げハンマー投げとは違った体の動きになりそうで面白そうだ。

レギュレーション次第だが勃起状態でのプレイが認められれば固さに定評のある日本勢は強豪国となるポテンシャルがあるだろう。

AV先進国としての勃起技術にも期待したいところだ。

日本ペニスアスリートたちよ、世界へはばたけ。

2023-05-19

子ども嫌いは「子ども嫌い」と言わず「クソガキ嫌い」と言うべし

子ども嫌いと言うと、聞き手は、たいていの人は身近な子どもを想定する。その身近な子どもが嫌いなのだ連想してしまうのだ。身近な子どもというのは、自分の子ものナツくん・親戚の子ものリオくん・幼稚園の子ものフウカちゃん小学校の子ものヒロトくん・中学生工藤や、高校生大学生など、具体的だ。

しかしながら言った側は、具体的にその「身近な子」を指したわけではない。要は言った側の「子ども」という概念範囲が狭いのである

ここでの子どもというのは「騒いだり道を防ぎ迷惑を振りまく邪魔なクソガキども」ぐらいの意味だろう。

自分は、小学5年生から大学2年生ぐらいまでをとくにクソガキが生まれやすい年齢だと考えている(大学3年生は就活が始まるから)。また、集団になると性質が変わり一気にクソガキ化しやすい。周りが自分たちの仲間ばかりになるので、人間ひとりひとりが集まっているとみなすよりかは、一個の群体とみなしている。自分はその群体を指して「嫌い」と考えている。この群体は、周りの我慢により現在環境が成立していることを認識していない。群衆とは、傍若無人で、愚かで無知で騒がしく姦しく暴力的で、利他行動を一切しない。しかし忘れてはならないのは、そこにいるひとりひとりの誰もを「嫌い」の対象としているわけではないということだ。つまり統率が取れていない・統率を取ろうとしていないと考えている。ほとんど災害のようなものだ。自分はこういうとき、その子どもらが来れるような場所自分が来てしまっている、いわばペイウォール内に行かなかった自分が悪いと考えている。

子どもの中には、大人しくて思いやりがあり静かで学習熱心で挨拶もハキハキとしていて、大人顔負けの立派な人もいる。こうした子どもも嫌いであると考えるのであればちょっとお手上げなのだが、たいていはそういう子どもなら嫌いにはなりにくいはずだろう。だから、そういう人たちを十把一絡げにして「子どもが嫌い」と言うから敵を作りやすい。子持ちに対して言うと「お前の子どもが嫌いだ」と言う意味になる。たとえその子と会ったことがなくても。

いちいち迷惑をかけてこない子どもというのは、全然気にならないので存在認識しない。トテトテと歩いているだけの子どもや、大人しく博物館見学しているような子どもだ。そういう子はあまり目に入らないだろう。

子ども嫌い」の人は、「こういう属性の子どもなら好きである。または嫌いではない」というように、嫌いではない子どもカテゴリ自分の中で意識的に作った方がよい。そして分断する。A分類(好き側)の子どもとB分類(嫌い側)の子どもに分ける。下手に全体を言うからうまく伝わらなくなる。「子ども嫌い」とだけ言ってしま場合、「任意23歳未満の人間を選んだとき、私は絶対にその人間が嫌いである」という意味として受け取られる可能性がある。それはおそらく本意ではないはずだ。

たとえ子育て中の親だって、ありとあらゆるこの世すべての子どもが好きであるわけではない。たいていは自分の子どもだけが好きであり、その自分の子どもに似た性質を持つ子どもをA分類に入れているのだ。もちろんA分類とB分類の範囲はそれぞれ違うので、意見が一致しないこともあると思う。それは仕方のないことだ。そして、A分類の人数がB分類の人数を上回った場合に「子どもが好きだ」という感情が生まれるはずだ。

クソガキは世代わず子持ちだろうがなんだろうがみんな嫌いである。クソガキのような大人もいるがこれもみんな嫌いである。どこに行ってもわーわー騒いでいるし、他人がいることを一切考えない。親の躾もなっていない。親も「◯◯く〜ん」などと言って全くたしなめようともしない。こういう奴らのみを嫌いであると打擲すればよい。こういう奴らは割合としては少ないが、やかましいので目につくノイジーマイノリティなのであるコロナでいうスーパースプレッダーである。「子どもを嫌いになってくれよ」という概念拡散する、いわば子育ての親の最大の敵でありスパイである。最大の敵なのだが、「私は仲間ですよ」というフリをしているのだ。その割を食っているのは別の親だ。

一方で、「子ども嫌い」と言う側にもクレイジーなやつはいる。ただ子どもというだけで撲滅しようとする存在で、悪意の塊のような存在だとされている。「子ども嫌いだ」と言うとき、そうした悪意の塊だとみなされる。

悪意の塊だとみなされたくないのなら、「子ども嫌いだ」とは言わず「人前で他人のことも考えずめちゃくちゃに騒ぐ子って苦手なんだよね〜。子ども自体は好きなんだけど……」「子どもは好きだけど、クソガキは嫌いだ」と言った方がいい。その方が真意が伝わりやすい。

ただし伝わらないこともある。

2020-02-21

anond:20200220210924

朝顔打擲する勢い

ってのはどこから出てきたんだw

どこかに元ネタがあるのか、或いは腐女子文としては定番表現なのか

と思ってうっかりぐぐったけど特にそれっぽいの引っ掛からないし、元増田オリジナル

2020-02-20

普通の文と腐女子

普通の文

トイレで放尿した。

腐女子

 ……ジィイイ……。

 線ファスナーを引き下ろす無機質な音が、仄暗い便所に虚しく響き渡る。

 男の股ぐらに女陰の如く縦に裂けた穴が生じた皮肉に苦笑しつつ、愛馬を門の外へと速歩トロット)で進めた。

 ――参る。

 下腹に軽く力を込めてやるだけで、満水のダム簡単決壊する。

 肉槍の先端に細く開いたおちょぼ口。いじらしいほどの小孔から朝顔打擲する勢いで迸り出る、薄黄色の聖水を中途で止める術は、最早ない。

 ――嗚呼

 刹那とも永劫ともつかぬ動物的本性の解放嘆息し、涙が一筋こぼれた。

増田

こないだ、5歳年下のかわいい女の子と二人で飲みに行く機会があって、はしゃいで飲みまくってたら

ちょうどいい雰囲気になったあたりでとんでもない吐き気に襲われて何回も吐いてしまった。

おまけに、何回目かに吐いてたときに力んだらオシッコもらしてしまった。最悪だああああああああああああああああああ。

元ネタ

https://anond.hatelabo.jp/20070527195844

2020-01-10

東京から来らした」

『なつなぐ!』で、主人公が「東京から来らしたとだろ」と話しかけられてた。

話してる相手に「来らした」って言うかな? 言えるとしてもかなり失礼なんじゃないか

小学生のころ、「先生の来らした」はダメで「先生の来なはった」と言うように言われてた。

そう思って調べてみたら、県内でも「来らした」の敬意にはかなり差があるらしい。

ウィキペディアには天草地方少年達が熊本市教師から叱責打擲を受けた例が紹介されてた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%BC%81

2017-04-13

道化本領

かつて王宮には道化が飼われていたと云う。道化役割増長した王に、お前はそれほどの者ではないのだ、お前に従うものはすべて阿諛追従の輩だ、民はお前を嫌っておる、と常に吹き込むことである。それにより王は精神の平衡を保つか、或いは道化打擲して慰められたものである

翻って今や万民は自らを所有し、寒暖を自在にし飽食の限りを尽くす往時の最上暮らしを貪り、全世界に己の妄想を垂れ流すことができる。その六畳一間の宮殿に只独り寝起きしていてもたれ一人付き従う事がなくとも、もはやそれは王侯暮らしである

であるからして、道化承認欲求をはち切れんばかりに膨らませ増長しきったお前らに言ってやる必要があるのだ。

ヤフー知恵遅れでやれクソ雑魚ナメクジ

2016-06-04

シロクマ先生の変節

シロクマ先生デビューした頃は「他人適応に興味があります」とか何とか言って

社会適応できてないヲタクm9(^Д^)プギャーする炎上芸で人気を博した人なのに

今は「あと5年は遊びたい!」という時代の空気にちゃんと「適応」した人たちを

やおら叩き始めて、どうしたどうした、シロクマ先生

ある時代に良く適応した人たちが、時代の移り変わりと共にかえって不適応になってしまうのは、

別に今の時代に始まったことじゃないでしょう。

高度成長期青春を生きた高齢者たちが、今の価値観からすれば、ややもすると滑稽に映るように。

いつでも後出しジャンケンで、「そんなこと言われても今さら遅いよ!」

という集団ばかりを狙い撃ちに超絶なる上から目線打擲していった結果、

つの間にやら先生の関心が社会適応よりも、超然的な価値へのコミットに変わったんでしょうか。

それとも、ほとんどすべての人間がそうであるように、歳を重ねた結果、保守化しただけでしょうか。

2015-10-22

シロクマが復活する前に言っとくが最近青二才まあまあ良い感じじゃね?

シロクマ明日青二才について何か書くらしい。俺は人の意見に影響されやすから先に書いとく。青二才だが以前は何にでも薄っぺらい知識で下から噛み付いては間違い指摘されたらアーアーキコエナーイのあと逆ギレして他人ブロックしてその後エアリプ粘着質に罵倒し続けたりどうせおれは底辺人間なんだからだのどうせ発達障害のおれは人生詰んでるからみたいなしょうもない開き直りしてるクズしか思わんかったけど最近は未熟な自分みたいなのを受け止め始めたうえで積極的に人と接していこうとしたり自分なりに他人に何か伝えられることを積極的にやるようになってていい感じじゃね?以前のどうしようもない人間のクズっっぷりはは自分と向き合うのを拒否したり虚勢で誤魔化してたからなのかね。最近ブログクズみたいな発言をすることは殆どなくなったように見えるtwitterでは変わってないかもしれんが。明日シロクマがどのように青二才の3年をぶった斬るのか楽しみだが俺としては2年前ならともかく今の青二才はそんなに悪く無いと見てる。やはり人間3年も続けてたらそれなりに膿は出しきれるってことなのだとしたら青二才現実絶望してどうしようもなクズだった僕がネットのおかげで今では普通に良く生きることを目指すまでになったという過程電子書籍で綴れば以前の青二才のようにどうせ俺は屑なんだって諦めてる奴に勇気を与えられそうだからひとつそっち方向でよろ。

nagatafe 変わってねーよ何見てんだバカ

そう言われてもなあ。ブログみてる限りでは今までよりはアホな発言は減ってるし少しはマシになってると思うんだが変か?変わってねーってのは何を根拠に言ってるの?

キエエエエエエエエエシャベッタアアアアアア今日からもう解禁なん?てっきり明日からかとそれにしてもいきなり打擲必要ですよって血に飢えすぎではないですか誰が打擲するのですがご自身でやられるんですか同人誌みたいに同人誌みたいにこのケダモノ!Mukkeがスターだけでコメントしてくれない。絶望した!

2015-09-18

頼朝に終われ安宅の関を通過する義経一行。だが、それは富樫の巧妙な罠だった。

義経様の変装は 私に看破される為に築いてきたんですものね」

「いつもの力が出せれば…こんな関守なんかに…!」

「よかったじゃないですか 頼朝のせいにできて」

「んんんんんんんっ!(山伏問答)」

「へへへ おい、巻物を用意しろ。みんなで勧進帳読上げをさせてやる」

(読まなきゃ…!!今は読むしかない…!!)

「番卒様の生義経ゲ~ット」

(いけない…!剛力義経なのを悟られたら…!)

「生弁慶様の生打擲を拝見してもよろしいでしょうか?」

「こんな奴らに…くやしい…! でも…勧進帳!」(ビクッビクッ

「おっと、心を打たれてしまたか。甘い通行許可いつまでもとれないだろう?」

それから弁慶はは後から侵入してきた富樫に延年の舞して飛び六方した

2015-08-01

師につかなくとも独学で一角の人物になることができるということ

仏教では、悟るためには正しい師について学ぶことが必要だと考えられている。

師資相承」や「法脈」という言葉を聞いたことがある人もいるだろう。


仏教に限らず、芸能芸術工芸俳句のような趣味嗜好の分野でも、同じ。

そこでは師匠絶対存在だ。


「すべて師匠の言うことに従わねばならない」

「師の言うことには絶対に逆らってはならない」


師匠弟子を激しく打擲し、足蹴にし、怒鳴りつけ、人間扱いしないことすらある。

どのような理不尽要求でも弟子は師に従わねばならない。

なぜならそれは、道を弟子に悟らせるために師匠が心を鬼にして行った意味のあることだから


それは時にカルト化することがある。

正しくない師(グル)を、それと知らずに選んでしまい、性的サービス違法行為要求される。

(これも道を極めるためには大切なことだ)

と信じてグルの言うことに従い、大きな社会問題となることもある。

知られていない事件は、その数十倍あるだろう。


いくら危険性があろうとも、一流の「達人」と呼ばれる存在になるためには、

師を選び、理不尽要求に耐えるのも仕方のない事なのだろうと思っていた私の蒙を啓いたのは、

いっこく堂存在だった。


腹話術も、相当の技術必要芸能であり、昔は一流と言われている腹話術師の元に弟子入りして、

技術を修得するのが当たり前だった。

ところが、いっこく堂はその常識を覆した。

彼は「だれでもできる腹話術」というHow to 本だけで腹話術を学び取った。

それまで誰も成し得なかった技すら開発した。

彼は一流の芸事すら、独学で極められることを同自体の私達に証明した人物である


東洋文化は、型を徹底的に学ぶことで芸事を身につけることを重んじるあまり

絶対的上下関係を許容する側面がある。

自分の頭で考える」

ことは「序・破・急」で言えば「破」、師匠から学び終えた後に行なうべきことだ。

最初師匠や先達の言う通りに従うべきだ、という考え方は日本文化に通底し、

それが体育会系跋扈中小企業ブラック体質を生み出す元凶となっている。


もう東洋流の考え方は捨て去るべきなのだろう。

質のいい情報が、師匠に就かずとも手に入れられる今の時代

質の悪い詐欺師跋扈して手ぐすね引いて待っている今の時代


一流と誰もが認める人の考え方の片鱗を紹介する本や情報を手に入れ、

後は自分の頭で徹底的に考えぬいて努力精進を続けるべきだ。

今はそういう時代なのだという事実を、いっこく堂が私達に突きつけている。

 
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