「ベット」を含む日記 RSS

はてなキーワード: ベットとは

2011-10-29

私のふくらはぎは細く引き締まっていてキレイだ。

特にスタイルが良い訳ではないが、私のふくらはぎは細く引き締まっていてキレイだ。

いわゆるキュッと引き締まっている。

自画自賛だが、何度も褒められた事がある。

運動している訳ではないが、ずっとキレイふくらはぎを維持できている。

もちろん褒められれば嬉しいが、秘訣を聞かれても困る。

思いつく理由は1つしかないが、答えられない。


私の部屋は汚部屋だ。キレイに片付い状態は何年も見ていない。と言うか、引っ越し以来ない。

その部屋の中で、数カ所だけある5㎠程度の床だけ狙ってつま先で歩き続け、立ち続ける。

部屋は汚部屋なのに、ベットだけはキレイにしておきたいのでそこでご飯を食べたり着替えたりできない。

帰宅中に買ったヨーグルトを食べる時も

服を着替える時も。

ドラマを観る時も。

ざっくり計算したら、平日でも1日で1時間以上はつま先立ちで過ごしていた。



ふくらはぎとか、どうでも良いからもう部屋を片付けようと思う。

2011-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20110902013127

オレの彼女がそう。

特にHの後で裸でいるときとか、ベットから出て10~15秒ぐらいで戻ってくる。

こっちはキレが悪いから、下手をすると5分ぐらいかかるのに・・・

2011-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20110723001000

返信ありがとう

今のメインだってJKとかJDなんだけど。

40なんていったら月に何人もただで素人女とか抱けない。。

その年になったら相手が見てるのは結局金。。それは凄い虚しい。。

ほんとやったキャバ嬢ベットの上で貢いでるオヤジの悪口言ってるの見ると凄い歳取るの嫌になる。

2011-07-02

松本男性雑誌に埋もれ死亡…地震で下敷きか

長野県中部を震源とする先月30日の地震震度5強を観測した同県松本市で1日、高さ約70~80センチに重なった雑誌に埋もれた状態で死亡しているのが見つかった。

って雑誌じゃないが、うちも70cmはある。だけど、ベットの周りにおいてないかダイジョブだ。

2011-05-22

異様な気配を察して目が覚めた

微妙にグロいかもしれん

こないだ、明け方に異様な気配を察して目が覚めた

足元の方を見ると薄汚れた感じのオッサンの姿が。

お約束のように金縛りにあっていて、首が少し動かせるくらいだった

にたあっと嫌な笑みを浮かべて、前に付き出だして、

ゆっくりとこっちに近寄ろうとしてきた

が、私はオッサンとは別の気配を本能的に察知していた。

起きた原因はこのオッサンじゃない

オッサンを警戒しつつ目だけで横をうかがうと、

なんと、枕元に20センチはあろうかというほどのムカデがいた

しかもすでに咬まれたらしく、おデコに痛みがある

私は反射的に跳ね起きた

無言のまま枕を床に投げ付けて、手近にあった雑誌をひっつかむと、

逃げるムカデを追いかけて雑誌で強打

雑誌では打撃力不足だとわかると、雑誌を上にかぶせて上に物を置き、

一時的に逃げられないようにしてから、オッサンの向こうにある工具箱へ。

オッサンがどいてくれたような気がしたが、そんなのは些細なことだ

から金槌をひっつかむと、すぐさまムカデのところに戻って、

雑誌をどけて、再びムカデに攻撃開始

動かなくなったムカデを捨ててからクローゼットからナフタリン(ムカデ除け)を取り出して、

ベッドの近くや窓際に置き始めた。その間、すべて無言。

ふと顔をあげたら、ベット脇につっ立ったままのオッサンがいた

目が合ったので、何となくオッサンの足のあたりにナフタリンを投げてやると、

オッサンはカタカタと小刻みに首を振りながら後ずさりをし始めた

そうだ金槌を片づけなくちゃと思って、オッサンの向こうの工具箱のところに行こうとした

オッサンはしりもちをついて、消えた

そういえばまだ手に金槌持ったまんまだったな、と後で気づいた

刺されたおデコにはキンカン塗っといた

2011-03-29

日常という日常を生きる

(格納容器ではなく)圧力容器の破損は確定したということだろうか。東電原子力安全委員会もそのことに触れたようだ。

asahi.com朝日新聞社):2号機建屋の外から1千ミリシーベルト 圧力容器損傷か - 社会http://www.asahi.com/national/update/0328/TKY201103280198.html

原子炉圧力容器、破損の可能性 「大変憂慮」原子力安全委 - 47NEWS(よんななニュースhttp://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032801001009.html

これまでの状況から十分疑われることだったが、いざこうやって突き付けられると、想像以上に動揺している自分がいる。圧力容器に

何を期待していたのだろうか。

http://togetter.com/li/116057 で言及された、今後数ヶ月以上に渡りダラダラと放射性物質を垂れ流していくシナリオはまます現実味を帯びてきたように思う。昨日の段階でも既にIAEAが数ヶ月かかる可能性について言及している。

IAEA事務局長福島原発危機、「終結には程遠い状況」-NYT紙 - Bloomberg.co.jp

http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aSnKV7wxDcwg

今後も降雨や風向きにより放射線値が上がったり下がったりを繰り返し、不安に駆られた人々の起こす小パニックとそれを取り巻く人々の(やっかいな)善意が繰り返されていくのだろう。自身はこうした状況から距離をおいたつもりでも、長く続く非日常はすべての人を蝕んでいくに違いない。こんな文章を書いている時点で、どうやら私も蝕まれつつあるようだ。

先の大戦戦時下の人々もこうした不安と戦いながら生活を送っていたのだろうか。この震災で我々も非日常日常とし生きていくことを余儀なくされるだろう。

しか東京および周辺ベットタウンにさし迫った命の危険はないし、実態のある生活の危機もない。

直接に地震やそれに続く津波の被害を受けた地域では、瓦礫を除ければ遺体が現れ、消えた肉親、娘や息子や父や母や妻や夫の居場所もわからいまま、住処を追われ、東京とは比べものにならない非日常を送らねばならない人たちがたくさんいる。

はなした肉親を求めさまよう他人より、少しだったとしても健康被害を受けるかもしれない我が身、我が子が大事になってしまう生き物である。それが生存本能に根ざしたものか何かわからないが、逆らえぬ性なのだろう。

それでもなお、この危機を糧に利己を越えた何かを生み出せるかに、私は希望見出したい

2011-02-13

ネット依存症・・・ネット辞めたい

今回の三連休も家でずっとネットしてた。一日平均10時間以上。睡眠風呂時間以外は全部ネット

トイレ中はアイフォンネット。飯はネット見ながら食う。寝る直前までベットの中にパソコン持ち込んでネットして、電源付けたまま眠りに落ちる。

翌朝、スリープモードから起動して、ネット。この三日間、俺一体何してたんだろう。

これって、明らかにネット依存症。もう、この状態から抜け出したい。

今までも何回もこの試みを試した見たが、最大続いて3日間。4日目には挫折。

イライラ不安感が高まってきて我慢することができない。ネット以外にすることもないしネットしてないと毎日が退屈でつまらなすぎる。

情報を猛烈に知りたいし、知らないといけない強迫神経症状態にもなる。

 何か、精神的にヤバい状態になってる感じがする。ネット依存症うつ状態にもなるって聞いたことがあるし。すでにそうなってるかもしれない。

俺の年齢的にも将来を真剣に考えないといけない。30代まであと数年。

 だからネット依存症を克服しなければならない。幸せ未来の為に。

 

2011-01-29

http://anond.hatelabo.jp/20110129081500

だけど早ければ今年、おそくとも来年あたりには「児童ポルノ『超』大国」として国際世論から名指しで批判されると思う。

多分そうはならないと思う。

最大の理由として、日本を含むいわゆる「人権派」と呼ばれる勢力に親中国な連中が相当入り込んでる点があげられる。また中国自体、自身に批判的な人間への圧力が半端無い。建国以来数十年にわたって自国内外少数民族を苛烈に弾圧してきたあの国が、今まで国際世論の批判をまともに浴びたことがない事がそれを証明している。

最近の例では、「HOMEFRONT」というアメリカFPSゲームがあげられる。

参考:http://www.spike.co.jp/homefront/

公式サイト動画を見て分かる通り、朝鮮半島を武力で統一した北朝鮮韓国日本列島を蹂躙し、太平洋を越えてアメリカへ攻め込むというぶっ飛んだ内容。数分もの内容に「中国」は一言も出てこない。当初は米中戦争が主題だったそうだがスタッフ中国に一生入国できなくなるかも」という理由で北朝鮮に変更されたというアメリカ人特有の腰抜けっぷりを発揮する有様。

参考:http://www.kotaku.jp/2011/01/homefront_not_china.html

ビルソン氏は、実際にこんな忠告を受けたと語っています。

私たちの中国オフィススタッフがこう言いました。「重役スタッフの全員が、一生中国に入国できなくなるかもしれないってこと分かってます?」

彼らは中国文化部が我々を消し去ることを恐れていたんです

過去にも、中国共産党によるチベット弾圧を描いた映画セブンイヤーズインチベット」の監督と主演のブラッドピットが無期限の入国禁止措置を執られるという事もあった。

要するに、この10年ほどで「中国を批判すると損をする人間」があちこちに増えすぎて、それが当たり前になってしまった。この状況は当分の間続くだろう。ガキの裸なんかでいちいちあの国を批判するような酔狂な人間は、当分現れない。そして中国の「代用品」として日本が叩かれ続ける事になる。

2011-01-14

エミール・ゾラごった煮

 昼間は体調が悪くて内職もできなかったのでベットに臥せながらエミール・ゾラごった煮』を読んだ。

あまりの面白さに体の具合の悪さも忘れて読み耽る。4時間ほどで読み終わったときは体の不調も大分良くなった。

『ボヌール・デ・ダム百貨店』を飛ばし読みしたときムーレの人物像がいまいち掴めなかったか

読み始めたのだけれども。

エミール・ゾラに嵌った順番

居酒屋』→『ナナ』→『ジェルミナール』→『ボヌール・デ・ダム百貨店(飛ばし読み)』→『ごった煮

2月は『ボヌール・デ・ダム百貨店』をもう一度じっくり読み直したい。

2010-11-12

夏休みともなると子供は毎日の昼下がりに昼寝をする。

普通その時間には母親が家にいるもんだが、最近不景気で働きに出ていることが多い。

そんな時私のような悪魔が何も知らない少年のからだに牙をむくことになる・・・。

今日のかわいそうな獲物は、郊外にある一戸建て住宅に住むA君、小学校4年生。

身長141センチ体重39キロ

この時間はちょうどプールから帰ってきて熟睡しているころであろう。

母親はここから車で10分ほどのスーパーお仕事。 5時ごろまで帰ってこない。

今からだと3時間は楽しめるぞ・・・。

昼下がりの住宅街は行き交う車も人もない。

かげろうがゆらゆらと揺らめき、あぶらぜみの声だけが暑苦しく響いている。

私は回りに人の目がないのを確認して私はすーっと家の敷地に滑り込んだ。

少年の部屋は玄関から裏に回ったところに有り、表通りから見られることはない。

私は彼の部屋の窓にはりつきなかを確認した。 レースのカーテン越しに彼がベットの上に

寝転んでいるのが見える。 寝入っているようだ。

私は窓に手をかけた。 動く。やはり鍵をかけていないようだ。

おもわずにやり、と笑みが浮かぶ。

開けた窓からクーラーの良く冷えた空気が流れ出てくる。 汗ばんだからだに心地よい。

わたしは音もなく少年の聖域に忍び込んだ。 後ろ手に窓を閉める。

少年かわいい唇を半開きにして熟睡している。

さらさらしたねこっけは眉にかかり、ランニングシャツから伸びた細いうでは夏蒲団を抱いている。

はだけたシャツからかわいいおへそがのぞきしどけなく開いた足は誘っているかのようだ。

さて、じっくり楽しむためにはまずおとなしくしてもらわなければならない。

わたしは持ってきたボストンバッグの中からガムテープとおおきめのいちじく浣腸アナル

を取り出した。

そこからはこれまでの静けさを突き破るように手際よくわたしの体は動いた。

まず少年の口をふさぐ。 抵抗される前に両腕を後ろで縛る。

うつ伏せにさせてひざ立ちにする。こうすると下半身を自由にいじれるからだ。

ゴムひもの半ズボンをするりとひざまでおろす。

少年うめくがかまわず浣腸アナルに突き刺す。 びくんと少年のからだがけいれんする。

三回に分けて浣腸液を残らず少年の汚れの知らない菊門に注ぎ込む。 間髪入れずにアナル栓をつめる。

必死に逃れようとするが両腕を縛られ首根っこを大人のひざで押え込まれては動くことができない。

3分経った。 便意が起こってくるころだ。抵抗が激しくなる。

「おとなしくしないとうんこさせてあげないよ。」

耳元でささやく。 信じられない物を見るような目でわたしを見るA君。いい表情だ。

5分経った。 少年の顔にあぶらあせが浮かび始める。身悶えしている様子を見ているだけで興奮する。

7分経った。 もう限界かな?

うんこしたい?」

激しくうなずくA君。

「じゃあお兄さんの言うことなんでもきくかい?」

質問の意味が分からないといった顔をする。 わからなくてもいいさ。

わかるまでそのままでいてもらうだけだからね。

10分経った。 同じ質問をもう一度する。

「なんでも言うことをききますといってごらん」

そっか、テープをはがしてやらなきゃね。

「おねがい・・・ト・・イレに・・・」

かわいそうに本当に苦しそうだ。 でも言うべき事はちゃんといわなきゃ。

「何・・・でも・・言う・こと・きくか・・・ら」

いい子だ。 わたしはボストンバッグから鎖つきの首輪を出して少年の首につけた。

「じゃ トイレにいこうか。」

わたしは首輪を引っ張って彼を立たせた。 足がぶるぶる震えている。

立たせてみるとますますきれいなからだをしている。 全身小麦色に日焼けしているが

海パンのところだけきれいに焼け残っている。 股間の物は当然皮をかぶってちじんでいる。

鑑賞している間に本当に限界が近づいてしまったようだ。 へたり込んでしまう。

とりあえずトイレに連れて行き便座に座らせる。「うんこしたい?」

「う・・・ん」

「うんだぁ?」

「はいっ・・」

わたしは自分ペニスを引っ張り出してくわえるように命令した。 困っていたが、「くわえないとずっとこのままだよ。」

少年観念したようにわたしのいきりたったものをくわえた。 頭をもって前後に動かす。

最高だ。 涙目で上目遣いにわたしを見る表情がますますわたしを興奮させる。

アナル栓で少年アナルをこねってから一気に引きぬく。

しばらくして一気に彼の腸内にあったものが噴出する。

わたしも可憐な口の中に一気に放出した。 逃れようにも排泄の最中なので逃げられない。

少年の鼻をつまんで無理矢理飲み込ませた。

彼はぐったりしている。 わたしがアナルをふいてもされるがままだ。

さて第二ラウンドといきますか・・・。

シャワー室で彼の体を清めふたたび寝室に連れて行く。

ベッドに仰向けに寝かせ首輪の鎖をベッドの柱に括りつける。

両足もベッドの足に固定し動かないようにした。

そして彼に見えるようにバッグからポリタンクとポンプのついたゴムチューブを取り出す。

さっきたっぷり出しばっかりのアナルにローションをぬっているとき何をされるか

想像がついたようだ。 顔が恐怖でこわばる。

「お利口だね、A君。 あっと大声だすと命もないよ。」

こんなかわいい子を殺すなんて絶対やだが一応いっておかないとね。

排泄行為を見られてしまうとおさない少年本能的に従順に従ってしまうことは経験的に知っているので

これ以上抵抗するとは思わなかったが、はたして泣きべそがおで黙り込んだ。

わたしはうきうきとチューブの一方をポリタンク突っ込み挿入口のついたほうを彼のアナルにあてがった。

敏感になったアナルはすこしの刺激で反応するようになっているようだ。

わたしは少し出し入れをして楽しんだ後挿入口をすこしづつアナルの中に埋め込んでいった。

彼は歯を食いしばって耐えている。

「Aくん、ちから入れない方がいいよ。」

というとすこし肩の力を抜いたようだ。 チューブがするすると彼の腸内に吸い込まれていく。

彼の体がびくんびくんとふるえる。 30センチほど入れたところでチューブの真ん中についた

ゴムのポンプを押す。 ポリタンクの中の薬液があがってくる。このなかには飛び切り上等な日本酒と催淫効果

のある麻薬フランス産のミネラル水で割人肌に暖めた物が入ってある。

大腸というのは液体をよく吸収するので効果は即効性だ。 ちょうど夏だし一度暖めると中々さめなくて

体への負担も少ない。

ゆっくりゆっくり入れていく。 体の奥に液体を注ぎこまれる異様な感覚に身悶えするA君。

わたしはゆっくりと液体を注ぎ込みつつ彼の小さな陽物を口に含んだ。

「あ・・・」

やがてそこが反応し始めた。 400mlほど入れたところでやめる。最初だからね。 無理しない無理しない。

チューブゆっくり引き出す。 口でのリズムに合わせるようにチューブを引っ張る。

肛門の粘膜とゴムがこすれる感覚、生暖かい口にあそこを包まれる感覚があわさって

彼の性感は徐々に開かれてきたようだ。

息が荒くなってくる。 口での愛撫を少し激しくする。

押さえていた快感が彼をあえがせる。

チュ-ブの挿入口をアナルに出し入れする。出し入れするたびに透明な薬液が少しずつ漏れ出してきた。

アルコールのせいで少年の頬はあかくそまり快感の嵐によってウットリとした表情になってきている。

ぼちぼちいいかな、と思い、チューブを引き抜く。

先ほどとはうってかわってきれいな液体がきれいな菊門から流れ出る。

わたしはもう我慢できなくなっていた。 足を縛ったロープを解き、アナルにローションをたっぷり塗り込む。

もう彼は抵抗しなかった。 正常位のような体勢で両足を上げローションでぬらぬら光るアナル

わたしの先端をあてがう。

ぐっと押し込むと吸い込まれるように根元まで入り込んだ。

アルコールのせいで痛みが軽減されているせいか痛がらない。 ゆっくりと楽しむようにピストン運動を始める。

わたしが動くたびに少年はか細い声を上げる。 小学校四年生少年の菊門はあまりにもきつくあまりにも熱かった。

媚薬のせいもあるのだろうが彼のペニスは小さいなりに天をさしてそそり立ったままであった。

わたしはローションの残った手で彼のあそこを責めつつピストン運動を続けた。

「あ・・・あんっ・・はあん・・ぁあっ。」

あえぎごえが艶っぽくなってきた。 わたしは挿入したまま彼におおいかぶさりつつ言った。

「ぎゅって抱いて・・・。」

少年本能的にわたしの首に手を回した。 わたしも彼の体を抱きしめながら体を起こした。

ちょうど座位のような格好になった。 ペニスがいよいよ深く少年の体を貫き

A君はわたしに強くしがみついた。 少年の肉体は天使のようにわたしの上で舞った。

わたしの肉棒を深くくわえ込んだまま。 わたしは片手で彼のペニスをやさしく責めつつ激しく出し入れを繰り返した。

彼がひときわ高い声を上げたその時わたしも我慢できずかれのなかに精を吐き出した。きゅうくつな少年アナルにくわえ込まれたペニスは容易

にはおさまらなかった。

わたしはいった直後にもかかわらず続けて抽送を再開した。 薬の効き目は最大期にはいったらしく、体のどこにくちびるを這わせても少年は激し

く反応した。 ベビーパウダーのように無垢なにおいのする体は

どれだけ愛しても愛し切れるものではない。 この子は耳が特に感じやすいようで耳たぶのまわりに舌をはわすと

「あぁっん・・・や・・」

かわいい声を出す。 柔らかくなったアナルは生き物のようにペニスに絡み付き上気したかおと潤んだひとみ

たとえようのない美しさだった。 わたしは萎えることも知らず3回、4回、と彼の中に放出した。

スペルマでますます滑りが良くなり少年はその年齢にもかかわらず快感の中でおぼれている。

しかし至福の時間は長くは続かない。 わたしは冷静に時間計算した。

わたしは彼を四つんばいにさせるとバックから激しく突いた。

飛び散るスペルマと部屋に響く少年のあえぎごえ。彼の小さなペニスははちきれんばかりに勃起していた。

ぱんっ、ぱんっ、という太股とお尻がぶつかる音と、ぬちゃ、ぬちゃ、という湿っぽい音がいやらしさを増す。

わたしは少年ペニスしごきつつピストン運動スピードを速めた。

そして最後の一滴まで絞り出すように少年の体内に放出した。 そのしゅんかんA君は全身を震わせたかと思うと

体を痙攣させながら放尿した。

恍惚とした表情でベッドに横たわるA君を残して、わたしは再び日常の人となった。

いまとなっては彼との時間に撮ったビデオだけが彼との思い出。

そしてまた新しい獲物を探しにわたしは街をさまよう。

小市民の顔をして。

午睡 (theother side)

作:こどもっち

夏休みって大好き。 学校にいるより自由だし、うるさいママも夕方までいない。

友達とプールで泳いで帰ってきてお昼食べて、お昼寝しちゃうと夕方なのがちょっと残念だけどね。

今日もすんごいお天気ですんごいあつかったからつかれちゃった。

うそろそろ部屋も冷えたかな?

ぁ、いいかんじ。 じゃ、ねーよっと。

ぼくはあっという間に寝にはいっちゃった。

あれ?

夢かな? 誰かへやにいる?

夢だねきっと。

あっ なに?なにするの?

あっ やだ、なに?

びっくりしてる間にお口に何かはられちゃったよ。 手も動かない。

だれなの? やめてよう。

お尻に何かはいってくる。 いやだ気持ち悪い。

出そうとしてるのに出ないよ。 何をしたの?

首が痛いよ。

ぼくを襲った人は僕のお尻に何か入れたまま動かなくなっちゃった

だれなのかみようとしてもこの人がぼくの首を押さえてて動けない。あぁ おなかが痛い。 おトイレにいきたい・・。

はなしてよ。 いやだよ。

ほんとうにおなかが痛くなってきた。 するとこの人が僕の耳元で

「なんでも言うこときくかい?」

どうして?

ぼくが困っていてもむこうはにやにや笑っているだけ。

くるしいよ。 もうがまんできないというときにこの人が僕の口を

ふさいでいるものをはがした。

ぼくはうんこしたいばかりに言った。

「なん・・・でも・・・いうこと・・きくから・・。」

するとこの人は嬉しそうな顔をして僕に犬につけるような首輪をつけた。

いやだったけどおトイレにいけるなら何でもがまんする。

ぼくは立たされた。 けどなかなかトイレに連れていってくれない。

ぼくのことをじろじろ見ている。 あっ、はやく、もうだめだよ。

おもわず座り込んでしまった。

するとようやくこの人は僕の首輪を引っ張ってトイレに連れていってくれた。

便座に座っても何かお尻の穴に入っていてうんこがでない。「うんこしたい?」

ってきくからうんってこたえたらすごい恐い顔をされたので恐くなってはいっ、ていった。

そうしたらこの人が僕におちんちんをなめろって言うんだ。 気持ち悪かった。

でもそれでうんこさせてもらえるなら、と目を閉じて口を開けた。 そうすると

ぼくの頭をもって無理矢理くわえさせた。 はきそうだったけどその時やっとお尻をふさいでいたものを

とってくれた。 そのとたん自分のお尻が自分のものでないみたいにいっぱいうんこを出したんだ。

そのときこの人がおちんちんから何かぼくの口に出した。 おえってなりそうなとき鼻をつままれて思わず

ごっくんて飲んじゃった。 すごい変な味だった。

いっぱいうんこを出して力の抜けたぼくのお尻をふいた後、シャワーに連れて行かれ、 体のすみずみまで洗われた。

ぼくは何も考えることができずされるがままだった。

だって足に力が入らなかったんだもん。

またぼくの部屋に戻ってベッドに寝かされた。 まだ何かされるの?もうやだよう。

気がつくと僕の体は動けないようにベッドに縛られていた。

この人は自分の持ってきた袋から何か透明の入れ物とゴムのながーいひもを出してきた。

何をするんだろうと思っていると、お尻に何か塗り始めた。

またお尻に何かされるのかな。 いやだ。たすけて・・・。

あっ 何かはいってくるよ。こわいっ・・

ぼくが力を入れていると、体の力を抜くようにいわれた。 思わずそうしちゃうとまたお尻の奥深くに

どんどん突っ込まれてしまった。 そのときおなかの中に何か入ってくるのを感じた。

この人がゴムひもの真ん中にある風船を押すたびにぼくの穴かの中に暖かい何かが入ってくる。

いきなりぼくのおちんちんをしゃぶりだした。 僕のおちんちんがぴんぴんになる。

どうして? なんで?でもそんなことよりなんか変なかんじがするの。

お尻に暖かいお湯が入ってくるたびになんか体が熱くなってくる。

気持ち悪かったお尻からゴムが引っ張られるたびからだが震えちゃう。

お尻からすぽんっ、ゴムひもが出ていった。 いれられたお湯がながれてる・・。

またお尻にぬるぬるするのを塗られてる。

ぼくはもうどうなってもいいような気持ちになっていた。

両足が抱え上げられた。 おちんちんがお尻の穴にあたってる。まさか入れるの?

やだっ!

と思った瞬間おちんちんが僕のお尻の中に入っていった。

いやなのに僕のおちんちんは硬くなったままだった。

ちんちんがお尻の中で動くたびに声が出ちゃう。

ぼくは抱き起こされて、おちんちんをお尻に入れたままこの人とむかいあった。

お尻を一段と突かれていきがとまりそうだ。 でもこの人がぼくの体を触ったり

なめたりするたびにぼくはぴくぴくふるえて いっぱい声が出ちゃうんだ。

ぼくは思わずこの人にしがみついていた。 しばらくするとお尻に暖かいかんじが広がった。

なんだろうと思うと、この人も方で息をしてる。 終わったの?と思ったらまたすぐに僕は声を出さなければならなかった。

ちんちんがまた僕のお尻の中で大きくなっていくのがわかる。

ぬるぬるする手がぼくのおちんちんをさわる。 いやらしい舌が

ぼくのからだの上を這いまわる。 ぼくはそのたびに声を上げた。

何回かぼくの中に暖かいものを出したこの人は急にぼくを四つんばいにさせた。

これまでとはぜんぜん違う勢いで突かれる。

ぼくはもう変になりそうだった。

ひときわ激しく突かれ、もうだめっていうとき、おしりのなかにまた

暖かいものを入れられ、ぼくもおもらししちゃった。

つぎにぼくが気がついたのはママが帰ってきた時だった。

 

 

作者あとがき

うーん

失敗かな・・・・・。

やはりわたしは責めての立場で書くのが向いているのかも・・・。

2010-10-01

生理前だからイライラするの

この前男友達の家でみんなで飲んで食べてた。

なんでまた酒いっぱい飲んでるの?お前飲むとめんどくさいじゃん!って言われた。

なんかわかんないけどイライラするんだよ!だから飲んでるの!と答えたら、はあ?って。

そう言われたから、トドメ一言

生理前だからイライラするのはしかたないの!

その場にいた女友達はお前何言ってるの?

ここにいるのは男ばっかなのになんで!?

そんな顔をしていた。

そして男友達に、それを使うのは卑怯だと言われた。

俺らがどんだけそれに困ってると思ってるんだ!?って。

彼女だけじゃなくて女友達生理前はみんなイライラしてて、それがずるいって。

でも、覚えてるのはここまで。

そっから先の記憶はない。

お酒の力ってこわい。

最近いっつも酔って記憶なくすなぁ。

ま、起きたらベットの上で裸でした。みたいなことはないんですが。

ドラマみたいなそんな展開にあこがれますよ(笑)

起きたらベットの上で隣に男友達。そして腕枕、っていうシチュはあったけど。

2010-09-22

http://anond.hatelabo.jp/20100922155550

「ビックイベント」だっておw

 

「バック」持って歩いたり「ベット」に転がったりしてなさいw

2010-09-08

2006-09-10 楽しい毎日。

会社にいるだけで、いろんなことがわかる。

起業の仕方、

具体的なリソース調達手段や活用法などがよくわかる。

3年いたら…

いろいろな構想ができた。

とにかくあと20日しかない。

24時間仕事のこと、一つのことを考えられるのはすごく楽しいしある意味、楽だ。

洗濯は週に一度、調理をするのは皆無。

私服の着替えは不要。、

スーツシャツと下着類が大量にあればいい。

かばんには、ネクタイ名刺と財布を常に入れておく。

往訪の際は、PCを入れるだけ。

24時間仕事だけに集中できて、

次のスケジュールを考えなくてもいいのはすごく幸せだ。

でも京都に残してきたことも少々気になる。


...................................................

給料マジいらんなー。

5万円くらいはほしいが。

東京滞在10日で、

ちゃんとベットに寝たのは1日だけ(AM4時~6:30)。

あとは会社パソコンを打ちながら気づけば眠っている毎日。

これだけひとつのことに集中できるのはすごい幸せだ。

しかし、統括する立場になるとまた違うのだろう。

だから今はまだ自分のことに専念し、マネジメントを考えなくていいので多少は楽。

...................................................

現在22歳。

あと3年は、

週6日、1日16時間働く。

朝7時~夜中2時くらいまで。

途中で20分×2回ほど寝る。


....................................

想像通り。

期待通り。

こっちはやはり全てのリソースが10倍は違う。

スピード感も量も質も、流れもインタラクティブの度合いも。

でも大体慣れた。

この世界は、僕が望んでいたものだから。

まったく、鴨川でくつろいでいたひと月前がうそのような毎日。


僕の本心としては、ゆったりときれいな景色で毎日すごして、

好きな本を読んだり子供と遊んだりして暮らしたい。

だけど今は、敢えて対照的な生き方を選んだ。

生きる意味を考える暇など一秒も無い。

どうやって他の人たちの迷惑にならないか考える毎日。

まだ僕は足手まといの状態だ。

本当に過酷な環境

だけどこの場所は僕が選んだ結果。

僕は最先端の場所で、スピーディーに生きる。

だけど僕の心は変わらない。

どうすれば人の役に立つのか、

困っている人を救い、弱い立場の人たちをどうすればいいのか、

いつもこんなことを考えて生きている。

この思考が僕の力になる。

これはずっとこれからも変わらない。

僕の力の源は、自分自身が作り出しているので、

尽きることはない。

たくさんの人に支えられ、チャンスをもらいここまでこれた。

あとは、もっと成長して、

一日も早く社会還元したいなー、って思う、22歳6ヵ月ちょっとのぼく。



僕は負けることは絶対に無い。

思い描いた夢を実現できるか、

路半ばで力尽きるのかのかのどちらかだ。

好きなように自由に生きる。

2010-07-15

岡村 「僕が始めて童貞捨てたのが21歳の時で、奈良のかずみちゃんっていう子なんですけど。日曜日デートして、奈良公園に行って、鹿にせんべいあげたりしてたんですよ。その夜ですよね。チューしたいなあと思って。奈良のその彼女のウチですよ」

矢部 「彼女やから全然ええよね。チューしていいよ」

岡村 「ほんで、ベットに入って、僕はほんとチューだけで良かったんです。『チューしていいかな?』って言うたら、『いいよ』って言うから、チューしたんですね。ほんなら、そのまま向こうがまさぐってくるんですね…」

矢部 「(笑)向こうが止まらない?」

岡村 「全然止まらない。あれよあれよっていうてる間に…僕ね、その子にコンドーム買いに行かされたんですよ。パジャマで。持ってないから、俺コンドームなんか。俺、チューだけで良かったもん」

矢部 「チューだけで良かった(笑)

岡村 「もうだってね、奈良のシカにせんべいあげてる時なんか『うわ〜怖い〜』言うて『いや〜!』言うてた」

矢部 「シカが怖い言うてた女の子が」

岡村 「そらもう、まさぐってくるわけですよ。『えっ?』と思って。で、コンドーム買いに行けって言われて、『どこそこに売ってるから〜』言うて。自動販売機コンドーム買うたよ、自分で。で、コンドームつけて、いざっ!てなったら、その女の子が…まっ枕をね、枕取って、腰にグーンって入れて」

矢部 「自分の腰に」

岡村 「そう。で、僕の方に…なんていうのかな、ここだぞ!みたいな」

矢部 「的はここだぞって。めがけて来いと」

岡村 「こ、ここだ!みたいなことやったんですよ。そん時に『わあっ!?』って僕思って、もう(枕を)腰に入れたのが、俺からしたら『うわっ、この子、すっごい慣れてる』と思って」

矢部 「まあねえ。普通の子はせえへんわなあ」

岡村 「そうなんですよ。ほんで躊躇してたら、僕のナニを持って(笑)自分でサッとインサートしはったんですよ…もうそれがねえ、なんやろ、怖かったんやなあ」

矢部 「トラウマやんなあ」

岡村 「トラウマになってんねん、今でも。怖かってん」

2010-06-15

職場子供を育てちゃいけないんだろうか

てか、育休とかなくして、産休終わったら、職場復帰を義務にして、

その代り、職場ベビーベットを置いて育てるってのは無謀なのだろうか?

託児所を併設とかじゃないよ。あくまで、オフィス子供がいて、ギャーギャー泣いている状態にするってこと。

仕事にならないって意見もありそうだけど、そうやって、常日頃から身近に、子供がいて、子供にみんなを慣れさせたら、そんな状況でも仕事できるように適応していくだろうし、

そういう雰囲気になったら、みんな子供を産もうって気になるんじゃないかな?

公務員とかそうしたらいいのに。

2010-03-17

非実在青少年云々の件でなんとなく思ったことをだらだらと

「そんなバカな」「そんなことになるわけないだろ」と思う人が多数だろうけど。こういう言いがかりをちょっと思いつけば、自分が気に入らない人間をいくらでも犯罪者に仕立て上げることが可能になるという点が、極めて危険なんだろうなと想像するわけで。

それはそれとして話は変わるけど。

以前、安倍総理(当時)が、こうのとりのゆりかごに難色を示すコメントをした、ちょうどその翌日。東京都のとある公園ゴミ箱に、赤ん坊死体が捨てられていたというニュースが流れたことがあった。…これが、今の現状で、この現状をもっと意識すべきだと思う。

現実には実在していない青少年のアレコレに気を回してる暇があったら、今、たしかに実在している子供達の「命」を守ることに、社会的リソースを僅かでも注力すべきではないか。それでなくても、ついこないだ、餓死した男児のニュースが流れたばかりではないか。

死んだ赤ん坊や、餓死した男児の墓の前で、「私達はお前なんかより、漫画アニメの中の子供達を守ることに力を入れるからね」と宣言するかのような、そんな社会であってはいけないだろう。社会的リソース無限ではないのだから、優先順位を決めて割り振っていく必要がある。まずは子供達の「命」を守ることに使えるリソースを注ぐべき。実在していない子供 ―― 実際には被害者が存在していない事例のために、割けるリソース・余裕なんか欠片もないだろうと思う。

規制賛成派の、子供を守りたいという気持ちは分からないではないが、やることが間違っている。と思う。

2010-02-20

親が会社を廃業して離婚するらしい

今朝会社経営していた親父から聞かされた。標題の通りだ。

お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。

家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。

話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。

しかし、自分という人間頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田自分感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。

そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。

今回の倒産は二度目になる

最初に親父の会社倒産したのは中学一年1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。

家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。

その時僕は、ひたすら星新一ショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライト皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。

一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。

そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。

親父が僕の母親結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。

そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社東北関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北社長に祖父が就任、そして空位となった関東社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。

その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビ新聞カメラの前で、親父は深々と頭を下げた。

その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。

祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカ会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。

初めての会社設立

問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。

説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。

よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。

そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。

そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。

そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。

一方の家庭事情

端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。

まず、横浜社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。

自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。

自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理うまい母親だった。

自分にとって、親父はクールデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。

その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。

両親の仲は「当然」1995年会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。

それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。

親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。

そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。

いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。

そして今月、親が会社を廃業して離婚するらしい

父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。

母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。

今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。

色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?

* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?

* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?

* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?

* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?

* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?

* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?

どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。

色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。

ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。

そんなことを振り返る。

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

親が会社を廃業して離婚するらしい

今朝会社経営していた親父から聞かされた。標題の通りだ。

お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。

家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。

話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。

しかし、自分という人間頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田自分感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。

そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。

今回の倒産は二度目になる

最初に親父の会社倒産したのは中学一年1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。

家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。

その時僕は、ひたすら星新一ショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライト皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。

一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。

そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。

親父が僕の母親結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。

そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社東北関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北社長に祖父が就任、そして空位となった関東社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。

その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビ新聞カメラの前で、親父は深々と頭を下げた。

その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。

祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカ会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。

初めての会社設立

問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。

説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。

よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。

そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。

そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。

そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。

一方の家庭事情

端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。

まず、横浜社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。

自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。

自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理うまい母親だった。

自分にとって、親父はクールデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。

その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。

両親の仲は「当然」1995年会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。

それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。

親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。

そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。

いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。

そして今月、親が会社を廃業して離婚するらしい

父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。

母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。

今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。

色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?

  • 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
  • いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
  • 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
  • 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
  • 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
  • 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?

どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。

色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。

ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。

そんなことを振り返る。

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

2010-02-18

 去年東情(Fラン)を卒業した俺が新入生にアドバイスしたい

おいおい、そんなマイナーなFラン大学知らねーよって感じだよなwww

でも、なんかこの辺りのエントリーが面白かったので、オレも書いてみようと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20100217113611

http://anond.hatelabo.jp/20100218180915

合格おめでとう。(本当におめでたいの?w)東京情報大学千葉僻地にあるFラン大学だ。学科によっては男女比率は9:1だ。青春を送りたいならチャラい系のサークルに入ることをオススメする。女子に興味がなくヲタクなら、あそこは楽園だろう。

また、あの大学ぼっちにも優しい仕様になっている。選択する講義研究室によってはチームでの作業にもなるが問題ない。ぼっちを許可してくれる講義もあるし、どうしてもチームである必要があれば、講師勝手に決めてくれることが多い。だから、ぼっちでも十分に攻略可能だ。真面目に講義に出て、ノートを取る能力があれば十分に卒業できる。ただし以下のアドバイスはよく読んで欲しい。

 それとオレは一人暮らし経験がないから、ここでは通学、単位講義教科書の買い方、昼食のとり方、サークルへの参加、留学生との距離感研究室の住み方についてアドバイスする。

--------------------------------------------------------------------------------

①通学

 大学僻地にある。大抵のヤツは車かバスで通学することになる。千葉駅からバスに乗ると40分~1時間近くかかる。毎日が遠足だw暇をつぶせるものを用意しておくと良い。大学直通便も朝のみ運行しているから利用しろ。それとバスを利用するヤツはキャンバスライフっていう年間パスを購入しろ。「春先にしか買えない」がこれを買った方が得だ。車や原付で通学したいヤツは許可証が必要だからちゃんと取得しろよ。

単位講義

 単位計算は絶対にやっておけ。それと履修登録は期間が決まっていて、学内の指定されたPCからしか登録ができないから注意。卒業要件は学科、入学年度で若干違うからな。履修登録は混み合うと登録に失敗することがある。朝と夕方の時間帯を狙おう。当たり前だが登録し忘れたら半期を無駄にする。が、必修科目だけは自動で登録されるので、最悪それだけは単位取っておけ。

 講義で落としやすいのは「英語」だけ。クラス分けテストで良い点数とると特別クラスに放り込まれるからなw英語はFランだけあって、中学レベル英語力があれば難なくクリアできるが、毎年多くの学生(推薦組)が単位を落としている。単位落としても皆で落とせば怖くない。それに再履修は真面目に出席してれば、お情けで単位くれるから安心しろ。

 一応、情報系の大学だからプログラミングに関連した講義が数多くある。1年次に履修することの多い「離散数学」は高校数学をやってきた人向けであって、数学嫌いの人間にとっては鬼門だ。どうしても数学やりたきゃ「プログラマ数学」を独習した方が良いw

 試験講義内容も簡単だけど、ぼっちの場合は真面目に講義出ろ。友達が居れば適当にやってても単位はちゃっかり取れる。要領よくやれよwww

テキストの購入

 1年次は糞真面目にテキストを買うヤツが多いが、この大学講義に使われるテキストは糞が多い。名著や古典にはまず触れない。講師執筆した書籍は「基本的」には買うな。特に哲学系の書籍だ。それは地雷だ。教科書ビジネスだからなwそれwww

 中には試験に持ち込むために購入がオススメされるテキストもある。分からなけりゃ言われるままに全部買っておけ。

④昼食のとり方

 学内にはデイリーヤマザキ学食がある。学外にはセブンイレブンローソンガストクリエイトドラッグストア)がある。一人飯をするなら、本館の6階、7階あたりで食べると良いだろう。人通りが少ないから気にならないし、何より便所で食うより良いだろ?クラブ棟の1階も良い。この大学は1年次からゼミに配属されるから、各ゼミ室で食べても良いだろう。教授や先輩も居るだろが、挨拶して初めて会うヤツには自己紹介すればOK、親しくなれば色々教えてもらえる。

サークルへの参加

 何年か前に強化指定部活というのが出来て、ガチで練習している部活もある。テニスは…どうだったかな?w

 軽い気持ちでサークルに入りたければ、適当に皆で集まって遊ぶようなサークルで良いだろ。縦のつながりはゼミ室に入り浸ってれば嫌でも出来るから、他の大学ほどは気にならない。好きにしていい。基本はヲタクだらけの大学だから、自分を出せばすぐに友達はできる。ちなみに左翼宗教サークルはない…と思う。安心して良いぞwww

留学生との距離感

 留学生がちらほら居る。だが気にしなくていい。あれらはそこに居るだけで、別に好意も無ければ害もない。ちょっと煩いのと、バスの乗り方のマナー大陸風ってだけ。基本はスルーでいいぞw 

研究室の住み方

 7号館のゼミ室には、毎日泊っているような変人が毎年、数名確認されている。期間限定のも居れば年中居るような主も存在する。そういう変人が居るゼミ室に1年次から配属された場合には、試しに泊ってみるといい。いい勉強になる。

 研究という名目でゲームして泊っているヤツもいる。一人でゲーム作ったり、Webアプリをごりごり作ったり、ロボット動かして騒いでいるのも居る。だから話しかけてみるといい。時々、本当の変人に出会えると思う。

 もっとも、どのゼミ室にも人間が快適に泊れるだけの設備があるわけでもないが、冷蔵庫電子レンジは必ずある。エアコンも完備されているし、シャワーもクラブ棟と体育館にある。だから寝袋とダンボールがあれば、パイプ椅子を並べた簡易ベットを作って快適に過ごせる。

 注意事項だが、大学に泊るにはゼミ担当官から許可を貰う必要がある。それと書類を庶務課に提出して、警備員に連絡する手間もある。大学に泊ってみたかったら、その辺りはゼミ人間に相談してみることだ。

 

 

パソコンについて

 学内のいたるところにLANポートがある、無線LANもとんでるからノートPCがあると便利だ。実習室も6つか7つぐらいあるので、PCには困らない。ゼミ室にはリースしたまま放置されているPCもあるので、頼めば使わせてもらえるかもしれない。それと学内PCが捨てられていることもある。部品を集めてくれば自作も出来る。オレはそれで2台ほど作って鯖にしてた。一応、捨てられていることを確認してから拾えよ。

大学が指定するノートPCは高いばっかりだから、自分で選んで買った方が良いぞ。ただしVineLinuxなどを自分で入れることになる。それも勉強だ。分からなければ詳しい教授に教えてもらいに行け。親しくなるチャンスだ。

せっかくのモラトリアムだから、学歴気にして卑屈になってないで楽しまないと損だぞw

2010-02-14

夏休みの終わりに

 缶ビールを開けて飲む。その味は風呂上がりの時よりも悪くなっている。部屋に戻ると天井電気は付いておらず、机のスタンドが光るのみ。つけ忘れていたとか電気が切れていたとかではない。日本式の照明は就寝前には適しておらず、間接照明のように位置が低い物のほうが好ましい、というのはネット記事の受け売りだ。

 ふと思い出したのは母の事。私がまだ実家暮らしだった頃、二階の両親の寝室に入ると母はデスクスタンドのみをつけてタロット占いに興じていた。ある種の不気味ささえ感じながら、私は照明のスイッチをオンにした。電気くらいつけなよ。母は苦笑い。

 私と母は同じ行動を取っていたわけであるが、母が精神病棟に入っていた経験がある事を考えると、その事に少し抵抗を覚えるのは仕様がないと信じたい。またビールを一口。苦さが際立つ。

 明日はバレンタインである。いや、今日か。チョコの一つや二つくらい貰えるだろうか。いままで彼女などできた事はない私にとってそれは大変に関心のある事なのだが、全く興味を持てない事でもある。面倒なことだ。

 深夜1時にもなると外は真っ暗で何も見えない。片田舎に住んでいる事は重々承知だが電灯の一本すら見えないのはどういうことだろうか。空を見上げても曇っているのか星は見えない。大体、北陸のほうはこの時期あまり晴れないのだ。冗談ではないく、ここ一週間、太陽を拝んですらいない。モラトリアムの終わりは世界の終わりと同義なのか。ビールをグビリ。美味し。夏の終わりのかほり。 水滴だらけの窓ガラス

 この部屋ともあとひと月でおさらば。結局コールドプレイポスターを支える画鋲の穴のために敷金はどこへ行ってしまうのか。壁紙となるのか管理人の飯のタネとなるのか。

 社会人社会人ってなんだ。会社の犬かはたまた家畜か。巷で話題の社畜の身分とやらに私は落とされてしまうのか。それとも案外この4年の夏休みのようにやんわりはんなりと暮らせるのか。人工少女はやる時間はあるのか。からあげうめえ。ビール苦い。あれ、からあげもうないの?

 残ったビールを一気飲み。一缶でふわふわ頭は安上がりの証拠だ。弱いなどと。決して弱いなどと。

 こたつから出てベットに入ると、当たり前だが毛布はまだ冷たかった。大丈夫。すぐに暖かくなるさ。大丈夫

2010-01-16

ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/

小沢一郎が買った土地は、元秘書石川代議士の話だと「たんす貯金だった」そうだ。

300万かのたんす貯金なら、聞いたことがあるが、「4億円のたんす貯金」だとなると聞いたことがない。

そもそも、どこに保管していたのか。第一無用心ではないか。

それに、秘書に、「この金で●●の土地を買え」と言ったにせよ、たんす貯金となれば、ちまちま貯めたのだろうから、100万円づつの帯封はついていない。となると、秘書は4万枚の一万円札をどのように数えたのだろう。

更に、それを預り、秘書の自宅に持って帰ったとすると、それこそ家を空ける訳にはいかない。何しろ「現金で4億」だから。

3億円事件はジュラルミンスーツケース。4億だから、ひとつには入らない。二つのケースに分けておいたにせよ、家のどこに隠しておいたか興味がある。ベットの下。天井天井は重さで落ちてしまうだろう。

大体、不動産屋も、その金額を「現金」で持参されても、銀行でも呼んでいない限り、数えるにも数十時間を要する。どうやって数えたか。

札を数える機械搬入したに違いない。

しかし、普通に考えると、不動産を買うのに4億の「現金」と言うのは変だ。更に、たんす貯金と言っても、その限度を超えている。たんすに4億など貯まりようがないと理解するのか普通感覚だ。

どう考えてみても「怪しい」

ところが、鳩山総理は、「選挙前からこうした問題は出ていたので、それを含めて国民の支持を得たと考えるので、問題はない」と開き直った。

たんす預金だと言う方もそうだが、冗談ではない、選挙前には「疑惑の一部」が出ていただけで、あとは「政権交代」「生活が一番」としか言っていないではないか。

数億円のお金を「お母さんからもらった」と言う幼稚園のような言い訳、4億も「たんす貯金」していて、秘書に渡したと言うたわごと

そんな言い訳選挙でしましたっけ?明確にしていない。

国民を偽装マニフェスト馬鹿にして、それでも済まずに、今度は「疑惑を含めて支持を得た」と言う。

これでよくもまあ、「政治と金」の問題を語れたものだ。「企業献金は廃止にする」と言ったのは小沢だ。裏献金はどうなるのか。

よくもまあ、いけしゃあしゃあとこんなこと・・・私たちは身ぎれいでございます・・・なんてことを言えたものだ。

それでも済まなくて、今度は北京とのパイプを作り、ひとやま儲けようと企む根性は、さすが、「田中派七奉行」だ。

この内閣マニフェストにない革命法案提出で革命政党と判明し、鳩山小沢疑惑政権担当能力がない政党と判明した。

それにしても、「こうした疑惑選挙前からあり、それを含めて国民の信任を得た」とよくも開き直れるものだ。

鳩山総理は名門の出と言われているが、精神死刑囚大久保清以下であることが判明した。死刑執行の間際まで、泣いて騒いで抵抗した大久保は、自ら殺した女子大生の命の重さなど全く考えていなかった。

それと同じで、鳩山総理は、自らが犯した罪や、言い訳小沢犯罪国民が「承知」したと言ったのだ。

この総理。至急にMRI検査をしなければならない。

もう、進行しているかも知れないが、、、。

小沢確信犯・筋金入りだからね。検察が頑張るしかない。

何しろ「悪いと思っていない」のだから。

4億円の現金土地を買う。それも秘書に預けて。ばかじゃあないか。誰が信じる?!

2010-01-14

同棲してたやつは死ねばいいのに

同棲してた奴って バカなの?

ペア食器出してくるなよ。

どうみても女の趣味丸出しの食器とかアホなの?

同棲開始時にクイーンサイズのベットを選んだ理由とか

なんで話すわけ 頭おかしいの?

キッチングッズだけディズニーまみれとか

なんなんだよあれ。

2010-01-07

始めてデリヘル呼んだ

24歳にして、初めてデリヘル呼んだ。

彼女には内緒で。

彼女とは普通にえっちはするし、不満もほとんどない。

けど欲を出していうと、フェラで気持ち良くなりたいわけですよ。

ということで、初めて1人でラブホにも入ってデリヘル嬢を待った。あの緊張感は凄く新鮮だったね。

久しぶりにあんなにドキドキしたよ。

ホテルコミコミ60分で16000円。

嬢は、顔も悪くなかったし、スタイルも良かったし、優しかった。

あくまで俺規準だけど。

風呂でもいちゃいちゃしたし、ベットでもフェラも手コキも気持ちよかった。

なにより良かったのは舌先の感触。

乳首舐められた感じが忘れられんほど良かった。

しかし、いけなかった。

凄く嬢は頑張ってくれたのに、、、

フェラでいくためにはどうすればいいんだ?

彼女普通にえっちするときは、挿入して5分程度でいっちゃうんだけど。

単純にオナニーを控えればいいのかなぁ、、、

今度デリを頼むなら、1週間くらいオナ禁してからにしようと思う。

あと、デリで気持ち良くなるためになんかした方がいいなら教えて欲しい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん