妻がへばりついてたら世話するにもできないだろ
でもちょっと厳しい事言われたらめちゃくちゃ凹んで筆折るわってなるし、
知人に「素敵です〜」言われても「はぁ、どうも(まあそう言うよね……)」ってなっちゃう。
自分のストライクゾーンが狭すぎて「どんな感想貰ってもめちゃくちゃ嬉しいです!」ってならないから、
気軽に感想欲しいですとか言えない。
そもそも仕事自体が嫌いではあるが、食べていくために働かざるを得ない。で、今やっている仕事の中にも好きな仕事と嫌いな仕事がある。
基本的に何かをやっている最中に別の仕事が割り込んで来るのがイヤでたまらないのだが、そういうイヤな仕事はたぶん他人から見ると「その程度の雑用で文句を言うな」と言われるレベルだとは思う。
要するに「さぁデスクワークをしよう」と思ったときに電話がかかってきたり、宅急便屋が荷物を届けに来たりすると「邪魔すんじゃねぇよ!」とぶっ殺したくなる訳だ。一個一個はそんなに時間を食うわけではないのだが、だいたい単発ではなく、狙いすましたように連続で来る。
電話はだいたい自分あてではないのだが、誰から誰に電話がかかって来たのかメモる暇もなく次がかかって来ると、前にかかってきた方を忘れそうになって怖くて仕方ない。ちゃんとしたコールセンターなら、一本電話を受けたらその内容を記録に残したりしてから次の電話を取るのだろうが、こっちはデスクワークのついでに電話を取る状態で、自分の負担感のわりには業務として認められていない。
ついでにいうと、そんな状況で受けた電話なのに伝言に不備があるとしっかり上司から文句は言われる。「○○会社の△△ですが…」という電話だと、会社名は覚えていても担当者名の記憶があやふやになりやすいのだが、重要そうな案件なのに担当者名を覚えていなくて上司が折り返し電話のしようがないパターンが一番ダメ。それで上司が困るということ自体はよく分かるが、出来ることなら給料を多少減らされてもいいから電話と宅急便の相手をしたくないぐらいこの二つが嫌いなのでムカつく。口先では「申し訳ございません。」というが、内心では「だったら電話番専門要員かデスクワーク専門要員にしてくれよ」と思う。発達障害傾向みたいなのがあるのか分からないけど、とにかくマルチタスクが死ぬほど苦手だ。
一緒に仕事をしている先輩は電話でも窓口でもいろんなクレーマーたちを相手にしてきた強者なので、全然平気そうな顔をしている。そして、今度仕事を辞めてしまう。その後に別の人が来るのではあるが、その人の実力が読めないうえに少なくとも2~3ヶ月ぐらいは私がその人のフォローをしなくてはいけないので憂うつだ。
先輩は私の出来の悪さを理解しつつも、優しくフォローしてくれていたわけだが、自分が職場を去る時が近づいてくるとだんだん根の厳しさが表に出てきた。仮に有能な人が来るとしても、うちの部署のことを良く知っているわけではないので、私がしっかりしなくてはいけない…という理屈は分かるが全く自信がない。
それに私はかなりのコミュ障だ。本当は職場のあちこちを歩いて色んな情報を集めるのが望ましい仕事なのだが、電話とか宅急便とかなかなか進まない書類仕事にかまけていると、職場のあちこちを見て歩いて人々とコミュニケーションを取り、情報収集をするなんておっくうな仕事は完全に後回しになる。
先輩はそれをよく見ていたので、私がやっていた仕事を新しい人に渡して、先輩がやっていた仕事を私がやってはどうかと言う。確かに今の仕事は本来緻密に計画を立ててこなすべき仕事であり、ここまで年度末が近づいてからあたふたと走りながら考えて仕事をしているような奴には不向きだと思う。が、私のポストはこの仕事をやるために存在しており、新しい人のポストは先輩の仕事をやるためにある。わざわざ逆にするというのはよっぽど自分がダメだという意味ではないのか。
それに先輩のやっていた仕事だって別に簡単ではない。非常勤で勤務日数が少ないのに簡単そうにこなしていたが、あのスピードで仕事を片付けて毎日定時で帰り、いろいろな人からその仕事に関するよろず相談を受けていたので、無能認定を下したくなる後輩に簡単に渡す仕事ではないと思う。
私は黙々と作業をこなしてさえいればコミュニケーションも情報収集も必要ない仕事がやりたいのだ。今の仕事であれば電話も来客もすべて無視してひたすらシステムに必要な情報を入力していたい。添付しないといけない資料は一般家庭向けのようなクソ遅いスキャナーで読み込んでPDF化する必要があるが、スキャナーの読み込みが遅いことよりもスキャン作業中に電話やら何やらで作業を中断されてどこまでやったか分からなくなってしまうことに腹が立つ。
書けば書くほど自分が無能だという結論になっているが、どうせ無能扱いされるなら、給料を安くされても良いからやりたくない仕事を拒否させてほしい。
置いていかれた本人なら怒るのもやむなしだけど
街で見かけただけなら「先に行って席確保しといて」とかの事情があるのかもしれないし
他人がとやかく言うことではないよね
しにたぽ
だからといってそれがとてつもなく残念だとか、憤懣やるせないなどと思ってはいない。
ただ少し思うことがあるとしたら。
「終わりよければすべてよし」なんて言葉がある。
皮肉なことに、最後の区切りとなるイベントが中止になったこの状況は、さきほどのフレーズを真に受けるのあればあまり好ましくないだろう。
そう、別に落胆しているとか気落ちしているとか、そうではないのだけれど。
そう、ただね、あいまいに流れていってしまっていつのまにか社会人というのが、ちょっと味気ないなと、寒々しさを覚えているという具合なのかもしれない。
学位記を受け取りにいったり、同期とごはん食べに行ったり、後輩とお話ししたり。
そんなことをしているうちに、唐突に寂しさが押し寄せてきて。
ああ、この感情は知っているよ。
例えば、にぎやかな祭りが終わって人がまばらになった時の喪失感。
例えば、遠い親戚の家に夏休みに訪問して、食べたり飲んだイした後、見送られながら帰りの新幹線に乗る時の空虚感。
だって、大学を卒業したらみんなばらばらになって、今度いつ会えるのかもわからないんだよ。
今はSNSがあるからなにかしら繋がり続けることは簡単だけれど、でもリアルで合える頻度は減る。
それになにより、向き合う大賞が、変わってしまう。
今までは同じ大学で、学習とその先の就職という共通する目的があった。
でも、これからはみんな、違う場所で、違うことをやり、目指すべきものも変わるのだろう。
そう思うと、お祭りとか遠い親戚の家を離れるよりも格段に、寂しいと思うのかもしれない。
寂しさだけではない。
「当たり前が尊いこと、幸せなことは、それを失った時に強く実感する」
そう、何の代わり映えもなくレポートを早く終わらせたいと投げやりになっていた時も。
一緒に勉強を教えあったり遊びにいったりした日々も。
当たり前のように流れていったことが、とても幸せで充実していたんだなと、改めて思うんだ。
綺麗なことだけではなくて、いろいろないざこざとか、投げ出したいこととかあった。
えれど確信している。なんだかんだいって、私たちは学生をしていたと、いとおしめるんだって。
みんなはどうなんだろうと、考えてしまう。
もう大学にいくことはないのだと思うと、とてもセンチメンタルな気分になってしまう。
そして、私の友人たちは私と同じようなことを感じているのかと。
別に友人たちとは社会人になろうとも、気兼ねなく遊べばいいし、それができるとは思っている。
ただね、別々な企業という対象に向かって、別々な歩みをすることがまだ想像できない。
だから怖いのかな。
不安なのかもしれない。
私の交流関係が狭く深くだから、だからその関係性に卒業という火種が加わるのを恐れている。いや寂しいだけかな?
友人たちも同じようなことを考えているのかな、そうであってほしいと私の強欲な部分がささやいている。
社会人になろう。
そして語り合おう、今までのようにね。
He who would learn to fly one day must first learn to stand and walk and run and climb and dance; one cannot fly into flying.
会話しながら歩いてるときに相手が怪我で遅れがちなら合わせて一緒に歩く。
相手が怪我していて歩くときに何らかのサポートが必要なら一緒に歩く。
会話をしてないしサポートも必要でないなら互いに好きなペースで歩く。
ってなところだろ。