http://anond.hatelabo.jp/20070521144122 の記事を書いてから7年が経った。
個対群のネットワークは何をもたらしたのか考察してみたが、つまらない結論に達してしまった。順を追って説明しよう。
まず全ての前提として、個対群のネットワーク、というのは、まだマイナーであるということが観測される。正確に言うならば、個対群のネットワークの個の側に立っている人間はまだ少数である。
どういうことなのか?
世界を意識した発信者は少数である、ということだ。blog、Twitterなど、世界に向けて情報を発信するツールは多々あれど、世界を意識してそれを使っているユーザはまだ少数で、多くのユーザは自分が知っている人の範囲に伝えるためだけに、もしくは世界も知人も意識せずゆるく言いたいことをいうためにしかそれらを利用していない。別にそれが悪いという話ではない。
1.個対個
必ずしも1対1を意味するものではない。お互いに面識のある人間だけで構成されたネットワークはこれに分類される。互いが互いを個人として認識しているからだ。
2.群対群
一番簡単な例は民族の対立など。他の民族の個人を憎んでいるわけではないのに、その民族であるというだけで憎しみの対象になったりする。
3.個対群
例えば、芸能人対そのファンなど。群の方は個を知っているのに、個の方は群の中の個人を知っているわけではない状態の時、このネットワークが構成される。
ニコニコ動画界隈やYouTubeでのパフォーマンスなど、個対群のネットワークの個の側に立つためのコストは非常に安くなったことが観察される。
しかしそうして個の側に立つにはどうしても能力の高さが求められるし、まだまだROM専の方が多いだろう。
それにこれらがもたらした世界は、新しく見えて実はそうでもなかったりする。『能力の高い個』だけが個の側に立てる、という点において、インターネット以前の個対群の関係がそのまま持ち込まれただけと言うことが出来る。
個の側に立つためのコストが非常に安くなったことに意味がないとは言わないし、そのために新しく現れた世界もあるだろう。しかしこの文章ではそれを論じない。他の方に任せよう。
私は、『誰しも』が個の側に立つ可能性を考えてみた。
今までの個対群の関係は個はいつまでも個であるし、群は群のままであった。だが、インターネットの個対群の関係として今までの個対群の関係と決定的に違うのは、誰しもが個であり同時に群の構成員でもある、ということだ。
しかし、インターネットが広く公開されてから20年では、まだその認識がユーザ一人一人に行き渡るには時間が足りていない。
そのため、個対個の中で収めておくべき話が全世界に公開され炎上したり、群の中の一人のつもりで言った放言が祭り上げられやっぱり炎上したりする。
炎上というのは意図せずに他人に注目されてしまうことである、ということに注意をおきたい。
さて、炎上などという話ばかりではなく、もうちょっと別の目線でも話したい。
それは、群の側のつもりでいても関係性を持った個の側に非常に捕捉されやすくなったということだ。個対群のコミュニケーションのつもりでいたのに、個対個のコミュニケーションへと移行することが簡単になった。同時にそれは、個対群のネットワークのうち個の側に立たされてしまう、ということを意味する。
これは、前回7年前に記事を書いたときには見られなかった現象である。
この2点で重要なのは、能力の高低から個の側に立つ人間が決まるのではなく、他者に注目されるか否かで個の側に立つ人間が決まる、と言うことである。
そして、一度個の側に立たされた以上、それ以降の発言は世界を意識せざるを得ない。
人が個であることを拒否して群の中の一人でい続けることのできる世界は、インターネットの世界にはもうない。
やはり、全ての人が個対群の個の側であることが当たり前である世界があと何十年か何百年か後には訪れるのだ。
もしも個の側に立つのかどうかが個人の能力にのみによって決まるのであったら、個対群の関係は今まで通り、個の側は個、群の側は群と動くことはなく世界は変わらなかっただろう。
そして、一度群に認識された個が簡単に群に戻れるなら、やはり世界は変わらなかったはずだ。しかし、そうではない。
ユーザ一人一人が世界を意識したネットワーク、それは個人同士が争い合う世界なのか、宥和し合う世界なのか。
個人的には、宥和し合う世界へ向かうのではと感じている。世界を意識した発言をする際、世界と争うつもりで発言できるほど強い人は滅多にいないだろう。
それよりは、他者に対する思いやりと慎みを持つよう心がける人の方が多いのではないか?そんな予想である。
http://anond.hatelabo.jp/20150114174939
カレンダーを物色してたら隣を小さな男の子が、ひとりすり抜けていった。
歳のころは、どうだろう、小学2〜3年生か。
そう、「鉄道」「イラスト」「アート」「スポーツ」などで整然と分けられた紀伊國屋本店の特設カレンダー売り場の奥には、エロカレンダーコーナーが有るのだ。おれも知らなかった。
レイアウトはTSUTAYAの例のコーナーを想像してもらえればよろしい。
エロカレンダーの存在は知っていたが、これだけ多くの種類を見られる機会は初めてだったので、彼より前に当然眺めに行ったわけだが、結果は、はて、この実物大より拡大された高精細極まりないB2サイズの砂まみれ乳首を1ヶ月眺め続けると、人間の精神状態はどうなるんだろう、というのが感想だった。大量のエロカレンダーというのは人を思索的にさせる。
で、そこに低学年男子が入ってったわけだ。
商品のカレンダーを掛ける急設の壁は金網になっていて、エロカレンダーコーナーの中の低学年男子はこちらからよく見える。
彼は手が届く範囲のエロカレンダーを、1枚いちまい、ていねいにめくっては検分していた。ほんとうに宇宙の神秘を解明せんとする科学者そのものの顔で。
人生最高の時、というのはすぐに終わる。そのときは5分程度だったか。
とうぜん彼は一人で紀伊國屋に辿り着いたわけではなく、親御さんがいて「○○ちゃーん?」と呼ばわるわけだ。
瞬間、彼は見事に気配を消し、数拍の間を置いてエロカレンダーコーナーから滑り出て、何くわぬ顔で母親の元へ向かっていった。
「どこ行ってたの?」と廊下から詰問の声が聞こえてくる。どうする坊主!
「ディズニーキャラのカレンダーみてたんだ。あんまり、いいのなかった」
全く言いよどみも、声の震えもなかった。どうせなら親受けが良いだろう、少し弾んだ声ですらあった。
昨年の暮れの話だ。
楽に生きたいんじゃ~
改変にしても面白くないだけでなくスゲー気持ち悪いし、
あるある
うちの息子はまだ小さいんだが、
今日家であったことだとか、これはなーに?とか、
俺は母親譲りのコミュ障で、いきなり初対面の人に話しかけるなんて恥ずかしくてできっこないのに、
こいつは俺に似ないでよかったなあと思いつつも、
できれば理解ある大人に囲まれて、このまま気兼ねなく誰にも話しかけられるような明るい子に育って欲しいと思いつつも、
わっこっぱずかしいそんな話やめろバカっ!って言いたくなるのをこらえつつ、
息子の将来がうらやましく思ったりもする
しかし、よく考えてみると、私も中学生の頃はアナル形容詞学派の一員だった気がする。
当時、英和辞典は持っていたものの、中学生向けの拙い辞書だった。大した単語は載ってない。
何故か忘れたが、授業で使うため、図書室から普通の英和辞典が大量に持ってこられ、教室の前に積んであった。
まず見つかったのはanusだった。名詞であった。
「アナル、アナル」と喜ぶ同級生に、「アナルって形容詞なんだぜ!」とドヤ顔で言ってみたが「???」といった感じであった。
おそらく形容詞が何か知らなかったんだろう。私はよく分からんこと言う、空気の読めない奴のように見られた。
マックのフライドポテトの原料はデカイ実がなるアメリカ品種だそうで