はてなキーワード: 特定領域とは
賢い賢くないと言うのは基準が曖昧に過ぎるので言い換えると、同じ勉強量で大きく成果を出す子と、勉強量に比例した、あるいは劣る成果しか出せない子の違いだ。
賢くない子は物事を「知っている」と「知らない」の2つに分けることしかできない。口癖は「それはまだ習ってない」だ。逆に賢い子は「知っている」と「知らない」の間に「考えればわかるはず」と言う大きな領域が広がっている。
例えば「摩訶不思議」という漢字が出たとき。「まかふしぎ」という言葉は知っているという前提で、賢い子は、「不可」「思考」「議論」のような漢字の読みさえ知っていれば、推測から「まかふしぎ」という読みにたどり着く。賢くない子は「摩擦」も「不思議」も読めるのに、「訶」という知らない漢字が出てくるだけで「その漢字は知らない、読めない」となってしまう。
翻って大人のことを考える。ニセ科学に傾倒する医師であったり、新興宗教にのめりこむ弁護士であったり、あまりにも思慮の足りない行動、言動をする者がいる。
これはおそらく大量の勉強時間や素のスペックに物を言わせ、試験などの特定領域において「知っている」の領域を異常に広げた結果、特定の分野では結果を出すことができたが、「知らない」ことについて考える習慣がないため頓珍漢なことになってしまうのではないだろうか。
これは能力の問題ではなく習慣の問題だ。賢くない子はどこかでこの「考えればわかる」領域について考えることをやめさせられてしまったのかと思うと、不憫でならない。
はてブでは「正論!」と大絶賛だが、違和感があるので書いてみる。
話は飛ぶのだが、マイケル・ウォルツァーという政治哲学者が「複合的平等」という考え方を提起したことがある。
社会のなかには様々な領域があり、カネを稼ぐ人が優遇される領域、野球が得意な人が優遇される領域、プログラミングが得意な人が…(以下略)など無数の領域が存在する。ところが、往々にして人間社会ではそのなかの特定の領域で優れた人が、他の領域にまでその影響力を行使してしまうことがある。たとえば、カネを稼ぐのが得意な人が、なぜか専門知識もないのに教育の領域に口を出してくるとか。
ウォルツァーは、特定領域で優れた人が、その事実によって別の領域にまで支配力を及ぼしてしまうことをやめて、さまざまな領域の自律性を担保することで平等を実現しようと主張する。つまり、いくら金儲けが上手だろうとも、教育の知識がないなら、教育の話に口出ししてくんな、このスットコドッコイ!というわけだ。
他方、この考え方に従うなら、ある領域でものすごく能力が乏しい人であっても、そのことが別の領域におけるその人の評価に影響を及ぼすべきではないという話になる。要は、いくらスポーツが苦手だからといって、プログラマーとしてのその人の評価に何ら影響を及ぼすべきではないという当たり前の話。
ところが、世の中ではそういうことがしばしば起きる。なかでも重要なのが、人の「見た目」。確かに、ファッションモデルやアイドルが「見た目」で評価されるのは、ある程度やむをえない。そういう領域で活動しているからだ。だから、複合的平等の発想に立つなら、ミスコンテストやミスターコンテストは別に否定されないと思う。だが、ほとんどの人はファッションモデルやアイドルではない。
実際のところ、男性もかなりそうなのだが、とりわけ女性の場合、その「見た目」がその他の様々な領域での評価に大きな影響を与えがちになってしまう。
ここでようやく話が元増田に戻ってくるのだが、この元増田の場合、「仕事の実績で評価される社会人」と書いているから、まさに「仕事の実績」という領域で評価されたことが素直にうれしかったんだろう。ところが、見た目の麗しい新人が入ってきたことで、「見た目」という評価基準が不当にも拡張されているという感覚を抱いてしまった。
元増田自身も追記で「差別っていうのは確かに言い過ぎだったかもね」と認めているように、新人が入ってきたことで元増田に対する周囲の評価が変わったのでないのなら、元増田が差別されたどうかは微妙なところ。でも、複合的平等が達成されているかに見えた領域だったのに、また「見た目」という評価が不当に入ってきたことの失望は理解できる。
こういう観点からみると、元増田も「女子としてちやほやされたかった」という増田は、元増田の主張を不当にゆがめているし、言っていいならハラスメントですよ、それ。
いきなり公的扶助のベーシックインカム導入は難しくても、特定領域で小規模になら実現性があるのではないか、と考えています。
サブスクリプションモデルでの原資確保と、クリエイター(作品)単位での定期的分配プラットフォーム。それBIじゃなくてただのレベニューシェアじゃん、ってところは、単純配分とベース部分を二階建てにすることでご容赦を。
クリエイター(作品)ごとのブロックチェーンをファンと共有することで、細く長くのクリエイターが、一発屋より尊重されるような仕組み。
で、これをいま書いているのは、とある上場メディア企業で、数億円の投資予算を持っている人間なんですが、応援してもらえますかね?
簡単じゃないことはよく分かっているのですが、ダメでもともと、応援してもらえるアイディアなら、本気で取り組みたい。「善きこと」を世間さまから後押ししてもらうことで、企業の論理を超えていきたいな。
ちなみに、放っておいたらろくでもない思いつきであっという間に数億円溶かすのも大企業なので、あんまりリスクは心配していません!
サッカー。11人ずつ2つのチームに分かれて互いのゴールにボールを入れ合う。ただし手を使ってはいけない。90分のあいだにより多くのゴールを決めたチームの勝ち。
バスケ。5人ずつ2つのチームに分かれて互いのゴールにボールを入れ合う。ただしボールを運ぶときは地面にバウンドさせ続けなければいけない。普通にゴールを決めると2得点、離れた位置からゴールを決めると3得点。40分のあいだにより多くの得点を決めたチームの勝ち。
テニス。ネットを挟んでラケットでボールを打ち合い、ボールが二回バウンドするあいだに打ち返せなければ相手にポイントが入る。4ポイントを取り、相手と2ポイント以上の差があれば、1ゲームを取ったことになる。6ゲームを取り、相手と2ゲーム以上の差があれば、1セットを取ったことになる。先に3セットを取った方が勝ち。
ゴルフ。それぞれに形状の異なるコースの端からクラブを使ってボールを打ち出し、それを繰り返して反対側の端にある穴にボールを入れる。複数のコースを回って最終的にボールを打った数が最も少なかった選手の勝ち。
野球。9人ずつ2つのチームに分かれ、攻撃側のチームは一人だけがバッターとしてバットを持って特定位置に立ち、守備側のチームは全員でそれぞれが特定位置に立って守る。守備側のうち一人の選手がピッチャーとして、バッターに向かってボールを投げる。ピッチャーの投げたボールが特定エリアに入れば「ストライク」、外れれば「ボール」。ボールがストライクに入り、バッターがそれを打ち返せなければ1ストライクとなり、3ストライクで1アウトとなる。打ち返せても、ボールがバウンドする前に守備側の選手が取れば1アウト。3アウトで攻撃と守備を交代する。バッターがボールを打ち返してフィールド上でバウンドした場合、バッターはランナーとなって走りだし、ボールが返球されてくるまでのあいだに、フィールド上にある4つのベースを順繰りに踏んでいく。一人のランナーが4つのベースをすべて踏めば1得点。ランナーが走っているときに、守備側がボールをランナーに触れさせれば1アウト。ただしランナーがベースに触れているときはアウトにならない。ランナーがベースを回り切らないうちにボールが返ってくれば、ランナーはベース上で待機することになる。バッターが打ったボールが観客席の特定領域に飛び込めばホームランとして、そのときベース上にいるランナーすべてが無条件で得点となる。27アウトまでのあいだにより多くの得点を獲得したチームの勝ち。
やっぱ野球ってクソだわ。
http://rentwi.textfile.org/?759297917043609600s
心臓をドキドキさせながらブコメを見たら、「らしくないね」というようなものや、そのエントリを否定する内容がたくさん星をもらっていたので少し安心し、閉じて終わろうかと思った。
今朝、はてブのトップまであがって来ていたのでダイジェストじゃない方まで読んでみたら、
わりと「何を言ってるんだ、まったく正当なことを書いてるじゃん」というような意見もたくさん目にはいってきた。
もういちどエントリ本文を読み返して、 上へ下へ読み返して、はてなを閉じて、それから部屋でひとり泣いてしまった。
なぜ自分が突然泣いてるのか自分でもわけがわからず、ひととおりめそめそした後考えた。
エントリは、おそらく、どこかの具体的な誰かに対する怒りの発露なのだとは思うけれど、特に対象を特定することなく話が進む。切断処理と思考停止、それは敬意がない姿勢であってその学問や若者にとってはたいへんよくないという怒りの内容。漢字や英語とおなじくらい、あたりまえに数式は読めるようになるべき、できない人は恥ずかしいと思えと。
私は漢字だってそんな詳しくないし、英語だってろくに読めない。ほかにもできないこと知らないことが山のようにある。ひとつひとつ恥じていたら、本当にもう、生きていられないくらいの量になる。恥ずかしくて、みっともない存在だというしかない。
私には、数学じゃないけど、とてもとても苦手なものがあって、長いことそれは「人として普通にできなければだめ」だと思ってかなり苦しめられていた。だけど、ある時点でようやく、人は得意なことに注力そこを伸ばしていれば、社会でちゃんと居場所を与えてもらえる、座る場所をみつけられるということを知って、それでずいぶん楽になった。
もっと早くこれがわかっていればなあとも思った。「早くわかりたかった生き方」とは、ちょうど「数式アレルギー」という言葉をつかって、自分事になる前にスミマセンそれはこれ以上こっち側に入りません!とシャットアウトするようなやり方だ。私はこれをもっと早く知りたかった。たぶん、弱かったからだ。弱い人間なので、少ない体力・能力・時間を、できるだけ絞って特定領域に注力して、ようやく人並み…というか、私はこれが仕事です、と言えるレベルになった。
入ってきてほしくない何かをシャットアウトする時は、情けない顔をして、「すみません私、そういうのが本当苦手で・・・」とへーこらしているだろう。「アレルギー」という単語は使ったことはない気がするが、苦手な部分については取り組むときはアレルギー的に具合が悪くなる。それに触ると軽いパニックになって、心臓に血液がまわって体のほうに震えがくる。飛べそうもない跳び箱を前にしたときと同じかんじだ。情けない。恥ずかしい。そういえば、アレルギーは先天性の避けられないものだから、「苦手」のたとえとして適切でない、という批判を見たけれど、もともと体に合わないのを知らず多量摂取した結果発現する後天的アレルギーもあるので、個人的にはそこまでずれた例えだとは思わなかった。死ぬレベルじゃなくて「触るとかぶれる」「くしゃみがとまらない」程度のアレルギーもある。大きくなってからアレルギー、トラウマになったものがない、という人は幸福だ。うらやましい(私はソバアレルギーになってしまったし、花粉症も出た…)
そんな話を、私はしょうもない笑顔を貼りつかせて言うだろう。神妙にいったら、もっとみじめになる。敬意なく見えただろうか。誰かをいらだたせるようなやりかたをしているんだろうか。
エントリいわく、そんな私は矮小なニセモノの大人だった。考えて学ぶ時間をとっていない勉強不足の。大丈夫だよ出来なくても生きていけるんだよ、などとのたまう、才能ある若者の前には害でしかないような。
自分の専門外のことまでちゃんと気が回って、スマートに返せる人が「まっとうで普通」、「わかりません」を使う人間はものすごくマイナスの彼方にいて、恥ずかしい存在、って書いてあるように読めた。
わたしも実はかつては「わかりません/しりません」が嫌で(かっこわるいし、相手に失礼だと思ったのだ)人とボールのやりとりをするときは、気をまわしていちいち相手方の勉強する方だった。そのころ私は、出来るやつだ、という評価をもらえていた気がする。でも、それは過大評価だった。 時間を使ってむりやりやっていただけで、自分のしごとにプラスオンで、そこまではやってられなかったのだ。ある日パンクした。キャパオーバーになった。
「苦手なことを本業から除外」するためにも、こちらの「相手のためにちゃんと勉強しなきゃ」をやりすぎないためにも、 シャットアウトは私には必要な作業だった。
・・・別に自分に向けられた言葉でもなく、状況はまるっきり違うということは頭ではわかっている。それなのになんでこんなに悲しいのか考えたところ、ちょうどこのあいだホッテントリに入っていた、生きがいについて聞く増田と、その増田を憎む、というエントリの構図を思い出した。既に大量に「持ってる」ことを自然体としてもっと上の何かを求める増田と、そもそも「持ってない」増田。前者の増田に、後者の増田の存在は認識されていなかったので、傷つく人がいるなんて想像もしなかったんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
http://anond.hatelabo.jp/20160728154543
「できる」「持っている」のが当然で、そこがゼロ地点である、という前提で始まる議論は、たいへんまぶしく光っていた。そこからはるか下にいる自分は、 光にばーっと照らされるて、うわー、ゴキブリかー!と改めてつきつけられてしまった。結城さんや、ほかの仕事できる側ですと言うブコメたちからみたら、私は、あの憎む増田のいうところの、ゴキブリということなんだー、と。それがはっきり見えて、私は、 あんなにみじめで悲しくてショックをうけてしまったのだった。 書き手はそんな意図はなかったかもしれないけど、本心をふつうに書いた結果、それは流れ弾になって飛んできた。「恥ずかしい」「ニセモノの大人」 「勉強不足」 全部つきささってしまった。ブコメの「頭が悪い」「逃げをわざわざ打つな」「無知はさておき、恥知らずはちょっと」「無責任」などなど、もりもり刺さった。やっても追いつかない、体が持たずに睡眠に割いてしまう、これは、勉強不足か、頭がわるいか、無能か。
思い返してみる、そういえばもともと、結城さんは「中高生が一人でも数学面白いって思ってくれたら」みたいなことをよく書いていた気がする、今回も「若い人が」って、今後やってくるであろう未来ある若者と数学の未来について考え、憤っている。あー、もともと私のような人間はその立派な活動のおこぼれにあずかっていたようなものだろうか、などと、感じてしまった。優しいから別にそんなこと誰も直接はぶつけてこない。「誰しも学びたいという気持ちが」とか「すそ野を広げることが大切で」みたいに書いてくれるだろう。でも、ただ、眼前には辛辣な実際があった。それを見てしまっ(たように思え)て、がっくりとくじけてしまった。この人は弱い方の人間のためにも階段を用意してくれる人だ、この人は味方だ、…そう思っていたので、ちょっと、そう、ショックだったんだ。
こういうリプライを飛ばしている方がいた。結城さんもこれをリツイートしていたので、それですこし救われた。
「このポストは生まれつき数学が苦手な人に対して失礼だと思います。彼らは「勉強不足」で数学 (算数) のような抽象的な概念がわからないのではありません。生まれつき無理なんです。そして生きるためには「数学は苦手である」ことをこのような表現で宣言する必要があるのです。」
生きるために、という一言がとても優しい。これを読んでまた泣けた。ありがとうございます。
これが繊細チンピラと呼ばれる人々の見る世界か…などと思った。向こうに悪意はない、ないのは知ってる、でも、アアー。何かを受けて勝手に倒れ込んでしまった。朝から夕方ごろまで、めそめそしたりぐったりしたりしていたけど、落ち着いた。大丈夫だ。でも、たぶん数学ガールはもう読めない。あれは私のものではないなと強く思ってしまったから、みじめな気持ちになってしまいそうだから、いったん自己防衛のために、もろもろフタをしめて、また明日から仕事とか家のこととかで、ばたばたして一度いろいろ忘れたいと思った。あー、きょうはお天気もよさそうだし爽やかに走りに行こうと思ってたのだけど、目が真っ赤になりすぎて外に出られなかった。のんびりストレッチでもして寝よう・・・。