はてなキーワード: 天皇とは
保守派が天皇の「男系」にこだわるのは、彼らの「宗教」からすれば「男系だから、現人神なのだ」というロジックがあるからじゃないのかと。
一般的日本人の9割は「天皇は現人神ですか?」という問いそのものを「アナクロで、ナンセンス」と思ってるが、
1割の日本人は、本気で「天皇は現人神であり、皇族は霊的に一般日本人より優れている」と思ってるんじゃないかと。
そもそも「現人神なんて迷信だ」と考える「フツーの人」と、「現人神が穢される!」とマジで発狂している人との「会話」だから、議論が噛み合う訳がない。
こういう乖離ってどう捉えたらいいんだろう?
政治利用みたいでそぐわないような気がするし、
こういう民主主義と象徴天皇制のミスマッチ感になんともスッキリしない気分になる
皇室は立場的にこうしたいとかしたくないとか好きとか嫌いみたいな事を言いにくいみたいだし、
だけど身近な宮内庁とか政府が忖度して彼らの気持ちに沿った方向で動いてくれるかと言うとそうでもなくて、
実際生前退位の件も平成天皇自ら動いてメッセージを出して民意に訴えるような形にならざるを得なかった訳で
一国民としては平成天皇のような思慮深くてチャーミングな人に天皇でいてくれたことは
とてもありがたいことだと思ってるんだけど
それを今後の天皇に求め続けるのも酷なことだと思うし
大和朝廷という武装勢力が日本列島を制圧。律令制による統治を経て平安時代の朝廷の役割は「権威」による統治。
朝廷では事案が発生すると、みんなで集まって「どうするんじゃ~」と言いながらお祈りをする。
天皇がやってるのは「お祈り」である。もうこれ宗教である。この朝廷をだ~れも武力で滅ぼそうとはしないのな。
どこかで政教分離して、天皇の祖先である天照大神以下歴代の天皇をお祀りする宗教にしておけばよかったのにねぇ。
信長だったらできてたかもしれんが、力が無かったから放置。秀吉・家康は利用した。
権威をどう捉えるかって話だと思う
「国民統合の象徴としての天皇」が平成天皇の努力もあって割と広く受け入れられている今
伝統的な宮中祭祀による権威付けがどの程度効果を発揮するかっていうとちょっと疑問
「国民の安寧を神に祈ってくれる天皇」というのはそれほど多くの国民に訴求しないのではないかな
どちらかといえば災害時に寄り添ってくれたり心に響く言葉をテレビで語りかけてくれたりする事に
多くの人が惹きつけられて権威が形作られるのではないかなんて思うんです
祭祀の作法も明治維新とか大きな変革のタイミングで変化してるみたいだし変えていってもいいはずなんだけど
実際変える変えないの判断てだれがしてんだろ
宮内庁とかかな
天皇に「税金が使われてる!」って批判があるけれど、じゃあ独立採算でなんとかできないの?
天皇の活動は国が天皇に外注しているってことにして報酬として支払えばいいじゃん。
出張費とかはいったん天皇が払ってあとで経費として請求する形にしてさ。
ふつうに天皇はフリーランスってことにして独立採算でやってもらえばいいじゃん。これって何か不都合ある?
これなら誰も文句言えないだろ?
http://gendainoriron.jp/vol.11/feature/f10.php
千本 秀樹
「よりそう」ためには時間がかかる。明仁天皇はひとりの被災者と数分話しただけでよりそえるのか。明仁天皇に「国民によりそいたい」という主観的な願望があることを、わたしは否定しない。問題は、天皇に声をかけてもらったことで喜ぶ、癒される被災者、それを報道で見て、「天皇は国民によりそおうとしている」と感じる国民の側にある。
水平社宣言の核心は、次の条にある。
過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒瀆されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を労るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の解放運動を起こせるは、寧ろ必然である。
天皇に声をかけてもらって癒された被災者は、そこで天皇とのあいだで互いに尊敬しあえる関係になったのか。明仁天皇の行為は「人間を労るかの如き運動」そのものである。夜間中学生のかるたに、「あったかいと感じたらやばいと思え」というのがある。あったかいと感じるのは気持ちがいい、しかしそれは人間を堕落させる。水平社宣言から学んだものである。問題は天皇と対面した側にある。天皇制は「差別の元凶」といわれる。それは天皇制の構造そのものであるが、それを受け入れて癒される国民の側にも責任がある。社会学の八木晃介は「差別は最大の癒し」だといった。「癒し」は往々にして問題の本質を隠蔽する。天皇と国民一人びとりは水平社宣言の「互いに尊敬する」関係になりようがない。
問題は象徴のあり方ではなくて、国家のあり方ではないか。前号の末尾で、何物にも統合されたくない、何物にも象徴されたくないと書いた。自治と相互扶助を社会の基礎としていけば、国家の象徴は必要ではない。