はてなキーワード: ピック病とは
50代で発症急増
https://books.kokode.jp/products/detail.php?product_id=4283673
ピック病は脳の神経細胞内にピック球という封入体(異常な物質のかたまり)ができることで、前頭葉や側頭葉が萎縮する病気です。
https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/frontotemporal_dementia/
働き盛りで認知症 ピック病、こんな症状出たら受診を
https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXZQOKC071W90X00C23A3000000/
ピック病の方に「文章を書いてください」と言ったら、「文章ってなに?」と言われたことがあります
https://www.npwo.or.jp/arc/documents/090531pick/resume1.html
門前払いにされることがない、と言うが、それが本当なら障害者雇用制度の対象にしなくてもいいよね。
でも実際には障害者雇用制度を儲けなければ就労できないと言う様なハンディキャップがある訳だけど。
就労支援制度で精神障害者などの採用が少ない事が問題だ、と言うのはわかるんだけど、そこで車椅子利用者を腐す理由が分からん。
障害者年金も所得制限あるじゃん。所得が平均賃金以上になると半額に減免され、更にそこから100万プラスになると停止になる。これは障害者年金を含む値だから、実質一般の給与より100万円程度低い給与所得を受けた時点で半額になる。
だから、車椅子利用者だけ年金と両方得られてお金が有り余ってる、と言う主張は構造的に間違ってるよね。そんなことは起きない。
普通にみる様な気がするんだが……。もちろん、車椅子利用者が利用しにくいような場所では見ないけど、イオンモールとかではよく見るけどなあ。
これもちょっと理解に苦しむ。というのは、障害者の人って周りに助けてもらえないとできないと言う意識があるからか、無茶苦茶お礼言うよね。車椅子の人も例外なく。
もうそんなに言わなくてもいいよ、ってくらい言うよね。
この間、加山雄三、最後のコンサートのドキュメンタリーを見たんだが、昔の様子に比べて無茶苦茶「ありがとう」「ありがとう」を連発している様子が出ていて、なんか胸が苦しくなった。脳卒中やってからだと思うけど、そういう風になるのが普通で。俺の身近な人はみんなそうなってるよ。
だから増田がそう言うのは、なんか特殊な相手だけなのでは。もしくはピック病のように、精神疾患からくる感情の乱れである可能性も。
もううんざりだ、俺は差別主義者じゃない、差別と共に戦ってるつもりだった
だがやり方を考えろと、苦々しく思ってきた
お前らの擁護するあいつは、やりすぎだ、叱られる理由があると物申したい
でも俺はそいつらに袋叩きにされるのが怖い、息苦しい、もううんざりだ
だいたい、ラブドールに実在の子役の顔を再現したいという奴を何で擁護しなくちゃいけないんだよ?
ま、俺も小児性愛傾向があってロリ同人出してるから他人の事は言えませんがね
でも、アイコラだって捕まる世の中にあんな放言をしておいて、炎上しない方がおかしいんだよ
未遂行為を必要以上に咎めても仕方ないが、批判される理由は十分ある
でも、叱りもせず「人形で発散してえらいでちゅね~とっても模範的な人間でちゅね~」
とさも慈愛に溢れたリベラル善人ぶって擁護する奴らがいる、そいつらが持て囃される
腐ってんな
分かりますよ?
悪しき規制派だの悪辣なフェミと戦うにはこれくらいしないとだめと言うんでしょう?
表現の自由戦士さんよ、お前らあれほど嫌っている腐ったクソリベラルそっくりになってきたよ
そこに落ち度を何も無かったかのように整地している
言論の自由を行使して「徹底的に批判」しているだけなんでしょうけども
それでいいの?
差別を消し飛ばす成果を急いだ結果が、あんたらの大嫌いなクソリベラルなんだよ
こればかりは、程々で動いてじっくり待つしかないと痛感したさ
もう見たくもない
ま、そんな彼らの暴れっぷりを知らんぷりして今日も俺もロリエロ描くよ?
http://anond.hatelabo.jp/20110406115718
母85歳、認知障害があり要介護3。父86歳、ピック病で要支援1。私50歳は、ほとんど泊まり込みで、2人の日常生活を支えていた。
母は週4日のデイケアに喜んで出かけてくれるので、ずっと家にいたときよりは、ずいぶんと楽になっていた。
ところが、最近、父のピック病がどうも進行している感じがする。「物事に関心を持たなくなる」という症状が出るのだが、母を預けて私が外出していると、母を一人で残して、フラフラとどこかへ行ってしまうのだ。
父の介護度が上がったら、もう、私の手にはおえなくなると思っていた矢先。
今日、珍しく、夕方から父に用事が入った。母と二人だと母さえ見ていれば、何をしていようと文句を言う人はいない。ガラスのドア越しに母の様子を見ながら、携帯電話で友人と話していた。
家の電話が鳴った。
いつの間にか、母が電話のところまで来ていて、受話器を外すところだった。何を言い出すかわからない。母の手から受話器をひったくった。あおりを受けた母は、そのままよろけ、右足に力を掛けて、そのまま転倒した。
電話の内容は自動音声のアンケートで、別に母に取らせても何の問題もないものだった。
母は「腰が痛い。どこかでぶつけた」という。認知障害があるので、本当の話かどうか判断できない。とりあえず、ひっくり返ったままの仰向けの姿勢から、横になれるよう身体をずらした。
「ちょっと休んでいれば治る」と母が言う。
私の頭の中は(父がいない間にやりたいこと)でいっぱいで、母が寝ころんだまま痛がっていることはたいして気にも止めなかった。
30分経ったので「少しはよくなった? 立てる? 四つんばいになってみようか?」と声を掛けた。
母は動こうとするのだが、痛くて立てないとしきりに言う。
私は自分がやりたいことに戻った。動けないのなら、見ている必要が無い。
1時間経過した。母はおしっこが出ると言い出した。いつも紙おむつをしているので、動けないのなら、そのままどうぞと促したら本当にした。そのあたりで、私は本格的にやばそうだと思い始める。
救急車をと思ったが、あまりくだらないことで呼んでしまって「タクシー代わりに使わないでください」などと言われるような事態になるのは嫌だ。民間の介護タクシーは予約が必要らしい。民間の救急車を検索していたら「救急車を呼ぶほどのことではないが、家族では対応出来ないことに使ってください」と書いてある。病院に救急要請できるわけではなさそうなので、入院先を決められない段階では頼めない。
ようやく、救急車を呼んだ。
入院する場合に備えて、いろいろと準備をしているうちに、到着してくれた。あれこれと手を打ってくれて、母は病院に運ばれた。大腿骨を折っていた。
ご高齢の方には、よくあることなんですよ、と当直の先生がなぐさめてくださる。
母が入院している間は、私は介護から解放されるんじゃないのか?
父の世話もあるけれど、24時間見守りが必要な母に比べたら、たいして大変なことはない。
どうやら、母は大腿骨に大手術をしなくてはならないらしい。入院期間はたぶん1カ月くらいになるということだ。
今晩から、うちに帰ろう(私の自宅は実家とは別にある)かと思ったが、解放されたという実感がわかず、結局、実家に泊まっている。
介護の無い生活が1カ月も続いてしまったら、私はきっと、元の生活には戻れないだろう。自由時間が週36時間なんて、やっぱり無茶苦茶だ。二度とやりたくない。
実習で解剖に行ってきました。
遺体の保存状態が非常に悪く、心が痛みました。
また、肝硬変の方の肝臓は、非常にいたいたしいもので、ショックでした。
いったいみんなは何を思っているんだろうかと考えました。
医療系の学校に入るとすぐ、命とか尊厳とかいったテーマについて熟考する間もなく、
圧倒されるほどの大量の情報に突如さらされます。
こんなことを繰り返しているうちに、患者さんに病名を告げる瞬間の空気の重さとか、
分からなくなっていくんでしょう。
それと、学校での生徒同士の会話も気になるところです。
怒りっぽい人にピック病じゃないのと言ってみたりとか、
そういった冷ややかな冗談が飛び交います。
それに、医学の専門用語を使って下世話な下ネタを言う人もいます。
こうやって日常会話で医学用語を使うと、よく記憶できて試験対策には効果的なのだけれど、
それ以上に大切なものが失われていく気がします。
高潔な志をもって医大に進む多くの人々が、ぶしつけでデリカシーのない医者になってゆく環境がまさにここにあります。
それに、知識が増えれば増えるほど、
たとえばがんという病気の死亡率はそれほど高くなく、もっと恐ろしい病気はほかにいくらでもあるということが分かります。
でも、目の前にいる患者さんにとって、苦しいことは苦しいことであり、不安なものは不安なのであって、
そういうときに、ほかの病気と比較してものを言ったりする医療従事者は無神経だと思います。
子育ての本に、子どもが抱える悩みは、問題の大きさではなく子どもにとっての悩みの大きさで受け止めてあげなきゃいけないとありました。
実際には親は数十メートル離れた場所にいるかもしれませんが、
絶対的信頼といってもいいほどの信頼を寄せ、依存する大人が、突如視界から消えるのです。
しかも、周りは自分よりずっとせの高い人たちに囲まれています。
こういうとき、子どもの感じ方を親が受け止めるのは大切です。
患者さんもしかりです。
相手にとってどれほどつらく苦しいことかを察する能力は本当に重要だと思います。
物事を客観的に見すぎるのがいかに危険な考え方かを思い知ります。
学校にいると、そういう一般的な感受性を損ねるような言動にしょっちゅう直面して、
いつのまにか自分も鈍感になってきていることに気づいたりもします。
本当に怖いです。
正直、ご遺体とどう向き合っていくべきか、自分の中で今も考えがまとまっていません。
無理にまとめようとする必要はないのかもしれません。
ある意味、答えはうやむやのままで、腑に落ちないものを意中に留めておくべきなのかもしれません。
もはや実物と模型の区別がつかなくなっている教授よりはましです。
これからも、こういったことを考える時間を大切にしていって、
忙しすぎる日常に飲み込まれないようでありたいです。