2010-09-06

解剖実習

実習で解剖に行ってきました。

電車バスを乗り継いで、大きな大学病院へ行ったのですが、

遺体の保存状態が非常に悪く、心が痛みました。

また、肝硬変の方の肝臓は、非常にいたいたしいもので、ショックでした。

実習の前後には皆で黙祷するのですが、

いったいみんなは何を思っているんだろうかと考えました。

医療系の学校に入るとすぐ、命とか尊厳とかいったテーマについて熟考する間もなく、

圧倒されるほどの大量の情報に突如さらされます。

授業では日常的に、この病気は致命率何パーセントとか

そういった言葉慣用句のように使われます。

こんなことを繰り返しているうちに、患者さんに病名を告げる瞬間の空気の重さとか、

分からなくなっていくんでしょう。

それと、学校での生徒同士の会話も気になるところです。

忘れ物をしたらアルツハイマーじゃないのとからかってみたり、

怒りっぽい人にピック病じゃないのと言ってみたりとか、

そういった冷ややかな冗談が飛び交います。

それに、医学専門用語を使って下世話な下ネタを言う人もいます。

こうやって日常会話で医学用語を使うと、よく記憶できて試験対策には効果的なのだけれど、

それ以上に大切なものが失われていく気がします。

高潔な志をもって医大に進む多くの人々が、ぶしつけでデリカシーのない医者になってゆく環境がまさにここにあります。

それに、知識が増えれば増えるほど、

たとえばがんという病気の死亡率はそれほど高くなく、もっと恐ろしい病気はほかにいくらでもあるということが分かります。

でも、目の前にいる患者さんにとって、苦しいことは苦しいことであり、不安なものは不安なのであって、

そういうときに、ほかの病気比較してものを言ったりする医療従事者は無神経だと思います。

子育ての本に、子どもが抱える悩みは、問題の大きさではなく子どもにとっての悩みの大きさで受け止めてあげなきゃいけないとありました。

たとえば、迷子というのは子どもにとって大問題です。

実際には親は数十メートル離れた場所にいるかもしれませんが、

絶対的信頼といってもいいほどの信頼を寄せ、依存する大人が、突如視界から消えるのです。

しかも、周りは自分よりずっとせの高い人たちに囲まれています。

こういうとき、子どもの感じ方を親が受け止めるのは大切です。

患者さんもしかりです。

相手にとってどれほどつらく苦しいことかを察する能力は本当に重要だと思います。

物事を客観的に見すぎるのがいかに危険な考え方かを思い知ります。

学校にいると、そういう一般的な感受性を損ねるような言動にしょっちゅう直面して、

いつのまにか自分も鈍感になってきていることに気づいたりもします。

本当に怖いです。

正直、ご遺体とどう向き合っていくべきか、自分の中で今も考えがまとまっていません。

無理にまとめようとする必要はないのかもしれません。

ある意味、答えはうやむやのままで、腑に落ちないものを意中に留めておくべきなのかもしれません。

もはや実物と模型の区別がつかなくなっている教授よりはましです。

これからも、こういったことを考える時間を大切にしていって、

忙しすぎる日常に飲み込まれないようでありたいです。

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