はてなキーワード: 御家人とは
右筆(ゆうひつ)は、中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。
目次 [非表示]
1 概説
3 織豊政権
4 江戸幕府
5 関連項目
6 関連作品
概説[編集]
初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)。
なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。
現在では天皇・皇后の文章の代筆をする宮内庁の文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。
源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。
その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団を構成するようになった。
なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。
戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。
なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている。
戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている。
徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した。
昨日内職をしていた時の事、何故だか分からないけれど、ふと小学生時代に好きだった男の子の事を思い出した。
彼はサッカーが凄く得意で部活だか、どこかのチームでだかのキャプテンをしていた。休み時間も気が付けば校庭に出てボールを追い掛けていたし、放課後も学校の校庭に来ては一人でボールを追い掛けているような男の子だった。けれど、勉強はてんで苦手で卒業文集は最後まで書き上がらなかったし出来上がったものはほんの数行しかないようなものだった。社会のテストで出題されたこの人は誰でしょう?と言う問いに答えは源頼朝だったのだか、彼は自信満々に漢字で御家人と書いていたし、国語の授業では先生が黒板に書いた文字をノートに写しきれないまま黒板の文字が消されてしまい、たまたま隣の席だった私に「ノート貸してや!」と言われて貸したりもした。そしてそのノートを返してもらった時に「なんでそんな字きれいなん?」などと言われ、その時既に彼を好きだった私は有頂天になった(補足しておくと、私は賢い訳でもないし、どちらかと言えば成績は悪い方だったし、字が綺麗と言われたのも彼に褒められた以来褒められた事がないので、察してほしい)
そして思ったのだ。私が彼に貸した国語のノートは、彼のランドセルに入り家へ持ち帰られ、彼の家に泊まったのだと言うことに。
それだけで済めばよかった思い出話なのだが、妄想癖がある痛い性格な私はあれよあれよと言う間に全く違う話に飛躍してしまった。
もし、仮にもし、少しでも私を好いてくれていて彼が自慰を覚えていたのなら私が貸した国語のノートを使って自慰をしたのではないか、という事だ。
彼が私を好いていた事実はないと思うし、小学6年生が自慰をするのかは女の私には分からないのだけれど。
それでももし、もしそんな事があったのなら凄く嬉しくて興奮してしまうな、と思う。
いつからかは分からないのだけれど、私にはオカズにされたい願望がある。どうして?と聞かれると全く分からないのだが、自分がオカズにされたとしたら、と考えると凄く興奮してしまうのだ。だからと言ってそんな妄想をしながら自分が自慰をするという事はないのだけれど。
もし、好きな芸能人がオカズにしてくれる可能性があるのなら、そういうDVDに出るのもアリなのではないか、と思った事もあるし、オナクラで働く事も自分の性癖を満たすものでもあったから、アリなのではないかなと思ってそういう求人サイトを食い入るように見た事もある。
ただ私に度胸が足りないばかりにどちらの考えも流してしまい、今はただ朝からこんな場所で匿名の日記を書いている。
出席番号9番だった彼は今も元気にしているのだろうか。卒業してから今まで随分会っていないしSNSが発達したこの時代に彼らしき人を見かけた事がないので、もうこの先二度と会う事はないのだろうけど、もしもう一度会う事が出来たのなら私のノートを使って自慰をしたのか、していないのかそれだけでいいから聞いてみたいなぁ、と思う。
横だけどさ、
例えば禄なんかサラリーマンももらってるので
なんで公務員に限定するのかすらよくわかんねえ。
江戸時代の武士は盆暮れ正月以外は毎日お城やら江戸屋敷やらに出勤して仕事して帰ってきて、
禄をもらってるから、侍を現代のサラリーマンに例えるのは普通に「あり」だよな。
で、「毎日出勤して定期的に雇い主から給料をもらう」ていう共通点に着目すれば「江戸時代の武士はサラリーマン」て言うのはありだろうし
「毎日出勤して定期的に雇い主から給料をもらう」ていう共通点に加えて、「雇い主が民間じゃなく公共(租税で維持されてる組織)」
という共通点も加味すれば、「江戸時代の武士は公務員」て言うのも普通に「あり」だと思えるが。
増田的にはどのへんが雑なんだ?
うん、だから雑な議論でいいんだね?
江戸時代の武士の職分が現代の公務員のそれと被っているのは事実なんだからさ。
「食わねど」「食えない」という文字を無視して頑張るのはやめなよ。
江戸時代以降、武士道っていうのは既に武士以外の階級にもある程度知られてて
部分的に好ましく受け止められたり内面化されたりもしてたわけ。これに限らないよ。
ああ、軍事や社会問題に武士道を適用したがる人は、本物の武士ではなく、単なる武士道好きの庶民だって言いたいわけですね。
それには同意しますよ。っていうか、そういうことを延々と論じてきているわけだし。
お前がそういう方向の話をしてるんだよ。
え、どこでどこで?
意味がわかりません。
馬鹿です、と開き直られても困るんだけど。
ええと、既にやってると思うけど、とりあえず「武士道」でググってみたら?
2009-08-04 / Economics
城繁幸氏のブログに、台湾のメディアに日本の年功序列が理解できなかったという話が出ている。年功序列は儒教の「長幼の序」の影響だと思っている人が多いが、違うのだ。儒教の本場である中国にも台湾にも、年功序列はない。中国の科挙は、基本的に試験だけで昇進を決めるので、10年以上受験勉強して中年になってから合格する人も多かったから、年齢で人事を決めることは不可能だった。韓国には日本以上にきびしい年功序列があるらしいが、日本のように入社の年次ではなく年齢による序列だという。
では日本の年功序列は、どこから生まれたのだろうか。笠谷和比古氏によれば、徳川幕府にも年功序列はなかったという。武家の序列の基準は石高だったが、幕末には財政が苦しくなり、管理能力の高い下級武士が昇進するようになった。たとえば勘定奉行として日米修好条約を結んだ川路聖謨の家は「御家人株」を買って武士になった町人だった。勝海舟の家も、無役の最下級武士だった。このような能力主義を可能にしたのは、徳川吉宗のつくった足高制度だった。本来の石高とは別に足高として加算され、形式上の序列(石高)とは別に、実質的な能力主義による俸給制度になっていた。つまり年功序列は、家柄とは別の経験や功績による序列だったのである。
ところが明治時代に官僚制度ができたとき、高等官/判任官の身分制度や15段階の俸給制度ができ、昇給は年次によるものと(非公式に)定められた。これが戦後も実質的に継承され、Ⅰ種(戦前の高等官)は6級に編入され、「キャリア」と呼ばれる。民間では、長期雇用の定着と年功賃金は、ほぼ並行して広まったと考えられる。特に戦後、労使紛争が激化した1950年代に、安定した賃金を求める労働側の要求に対して定期昇給制度を採用したことが年功賃金につながったとする説が多い。
つまり年功序列は日本の伝統でも儒教の影響でもなく、官僚制度によって原型がつくられ、戦後の労使紛争の中で両者の妥協として大企業で成立した雇用慣行なのである。これは結果としては若い労働者に「強制貯蓄」させることによって、その忠誠心を高めてモラルハザードを防ぐ役割を果たした。しかし老人に生産性以上の賃金を払い続けることができるのは、企業が成長し、若者が増え続けるときだけである。賃金原資が減り始めると、ノンワーキング・リッチに「配当」を払うことはできなくなる。
これは年金や財政の破綻と同じ構造である。日本の企業組織も財政も、戦後の高度成長を前提にしてつくられ、それに適応して相互補完的なシステムができ上がっているのだ。その結果、老人と若者の利害の対立する問題では、つねに組織内の権力を握っている老人の既得権を守る決定が下される。この構造の前提となっている成長が止まった今は、官民ともにシステムを見直さなければならないのに、問題を先送りしてきたのが「失われた20年」の根本的な原因である。
http://anond.hatelabo.jp/20090416115341
どんなに偏屈な江戸っ子だって3代住んだ家に、国に帰れなんていちゃもんつけやしないと思うけど。
こちとら、3世、4世の人間だよ。
御家人の家系の人が三河伝来のルーツを元に三河気質を自慢していたら、東京から出て行けというのかい?
逆にそうやって帰れ、帰れといわれ続けて、なお、日本を全面的に好きでいろっていうのも
なかなか、マゾ気質でない限り難しいと思う。
何を勘違いしてるんだろう、と思うんだが、三河人も江戸っ子も「日本人」だよ。
その上で、「これだから江戸っ子は。まず三河だったらこうじゃない…」とかうだうだ
自慢されたら、「じゃあ三河に帰えんな」っていわれるに決まってる。
悪意がもっと多いかと思っていたら、少ないのでちょっと拍子抜け。
好意的なの中立的なの、ちゃんと読んでいますが不精のため返信しません。ごめんなさい。
これだけ返答しておきます。
ルーツだけが重要ならば、帰国すべきでは?そのルーツはどこなのか、それは韓国なのでしょう?
でしたらそのルーツである、本国に帰国すればいいわけです。ルーツを守りたいのに、何故か
帰国はできない
どんなに偏屈な江戸っ子だって3代住んだ家に、国に帰れなんていちゃもんつけやしないと思うけど。
こちとら、3世、4世の人間だよ。
御家人の家系の人が三河伝来のルーツを元に三河気質を自慢していたら、東京から出て行けというのかい?
逆にそうやって帰れ、帰れといわれ続けて、なお、日本を全面的に好きでいろっていうのも
なかなか、マゾ気質でない限り難しいと思う。
わざと誤読しているのかな?
僕は国籍を変えても良いと言っているんだけど。
2重国籍を認めろなんて言ってないよ。
いや、くれるんなら、躊躇無くもらうけどね。
世界中に、他国に移民する人たちがいます。アメリカに移住した人たちもそうです。
彼らは自らのルーツを無為に捨て、愚かな選択をした人たちなのでしょうか?
違うはずです。彼らは己の出自を大事に忘れず、新しく自分たちの住むべき大地を愛し、誇りを
持って生きているはずです。貴方にもそれができるのではないでしょうか?
僕の書く、韓国系日本人というのはまさにそういった人々を目指したいんだ。
そう。
すぐには無理でも、僕らは出来るだろうと思っている。信じている。そうあらねばならない。
けど、それのためには、僕等の選択も重要だけど、それを受け入れる土壌が必要だと思う。
例えば、
日本だけじゃないでしょう?自分たちの国に入り込みながら、こんな国は嫌だ、俺は俺の祖国を
愛する。ここじゃあないと叫ぶ人がいれば、「なら帰りなよ」と言われるだけだと思います。
僕はそんなことを一言も言っていないのに、君の第一声は帰れだった。
僕は嫌っていないと書いているのに、君が僕に言う言葉は帰るかルーツを捨てろだけだった。
いいかい。
僕は僕のルーツを大切にしたいと表明した、なら帰れと君は切り捨てた。
そういう人間に囲まれて、どうやってルーツを大切に持ちつつ、その土地を愛するんだい?
結局、貴方達が疑われているのは、
ここなんです。自分たちが日本で便利な特権を得たら、帰化してもいい。そう思っているのでは?という
疑問です。
正確に書こうよ。疑っているのは君だ。
僕が疑われているというように、疑う主体を誤魔化さないで欲しい。
そして、国籍を変えて日本国籍になっても、在日は特権を得たと言われるのだろうか?
日本人としては認めず、日本国籍という特権を得た韓国人・朝鮮人と言われるのだろうか?
君が提示したアメリカの例とはだいぶ違うじゃないか。
いや、たぶん、そうだとは思っている。