https://news.livedoor.com/article/detail/19781980/
ハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授は、いわゆる慰安婦問題について「太平洋戦争における性契約」とのタイトルで、学術誌に論文を掲載しました。論文でラムザイヤー教授は「慰安所は戦時中の売春宿」で、契約に基づくものだったなどと主張しています。
韓国メディアは論文内容が明らかになった先月上旬から連日、教授を批判する報道を行っています。この問題について2日、韓国で慰安婦問題を担当する女性家族相は、専門家との懇談会を開き、この論文について「研究者としての基本がそろっていない内容」、「被害者の名誉と尊厳を毀損する試みで非常に残念だ」などと批判しました。
論文の本文と引用文献、そして学術誌のレビュー記録、その他過去の研究活動や教育活動、学術誌の影響力 (IFなど) から「ファクト」が得られるはずなので、ファクトチェックが大好きな左の人たちにぜひ検証してもらいましょう。
経済は過去の貯蓄の取り崩しを含めて、資金調達しての支出を初項、収入のうち消費の比率(消費性向)を公比とした等比数列の和なんだわ。
なお、資金調達しての支出は投資とも言われるが、設備研究投資に紐付いていない金融投資は貯蓄な。
で、設備研究投資に紐付いていない金融投資、平均消費性向以下の富裕層、不況で保身に入って資金余剰にある企業のフリーハンドの減税は公比を落として経済を下げる。具体的に使ったもの減税なら良いが。使ったら増税の消費税は最悪の税制。
そんな税制をしてきたからの新自由主義30年の不況。時々貿易赤字も出るようになった。このまま行くと外貨借金が増えてこその財政はたんとハイパーインフレ。だけど、原因は新自由主義。
金は動かすような税制にしないとならんのだよ。
40代前半女性、結婚しているが、夫以外の男性と夜ふたりでご飯やお酒に行ったりする。年に2回から4回くらい会う人が複数人おり、大抵が既婚で、仕事がらみの知人友人が多いが仕事とは全く関係ない人もいる。ご飯やお酒に行って何がどうなるかというと、何もどうもならず、ただご飯とお酒を楽しんで、取り止めもなく喋って、愚痴ったり笑ったりして、またねと言って帰る。セクシーな感じにはならないし、期待もしていない。要するに、不義理はしていない。
悪いことは全くしていない自信があるのだが、何となく男性の配偶者に悪いような気がしてしまう。男性の方も、配偶者の方に何となく隠している節がある。私は自分の夫には、仕事がらみの人、もしくはただ友人と食事に行くと言ってあるが、性別について取り立てて言及することはない。隠すつもりはないが、詳細を説明するつもりもない。
社会経験を積み地位も収入もそれなりに得ることができたころ、話の合う同性の友人がどんどん少なくなっていった。見ているものが違う、ライフスタイルが違う、人生の目標が違う。これはもうしょうがない。話は主流派ではないのだ。でも同時に、話の合う男性の友人が作れるようになってきた。自由と責任の醍醐味、仕事を通じて成し遂げたいこと、社会の中で自分をどうやって使い切っていくのか。そんな話を衒うことなくできる相手が、偶然男性だった。私が社会で得た役割を私と同様に担っている人に、偶然男性が多かったというだけだった。
男性同士で何に臆することなくご飯やお酒に行って、愚痴り合い励まし合えるのが羨ましい。同じことをするにも、私はなんだかコソコソとしなければいけないようだ。
女性の性欲の年齢的な面について言えば、35歳ころにピークを迎え45歳ごろまで10年間ほど続くという[10]。というのは、性欲を覚えさせるテストステロンのピークがその時期なのだという[10]。
だって。
Twitterでバズってるツイートを眺めてて気がついたけど、如何にもドヤ顔を感じ取れる良いこと言った系のツイートとか、スカッとジャパンみたいな嘘松臭いツイートしてる人って、プロフィールを見ると投資がどうとかFXがどうとか胡散臭い人が多いよね。
やっぱり情報商材的な手法だと、まずああいうツイートをバズらせてフォロワーを増やして、そこから信者を作り出すようなことでもやってるんだろうか。どうなんだろ。
アフィブログやってる奴らにとっちゃ揉め事が起こった方が金になるからね
だから真偽はどうであれ金になる話題の作り方をする方向にアフィブロガー達が流れるのは必然
"わっせーう"との一致はありません。
>「嫌い」であることを言えない世の中より、お互いの「嫌い」という意見を許容しあえる世の中のほうが自由だと思います。
これは互いの関係性によって決まってくることでは?
(多くの人は、親しい人からでも見知らぬ人からでも「嫌い」と言われたら、不快を覚えると思う。)
もっともと言えばもっともな意見に聞こえるが、ちょっと実際的ではないと思うな。
>コメントでもいくつか見られるように「嫌いと言われるのはかまわないけど、言われたら反撃する」という考えが許容されていることにどうしても疑問が残ります。
疑問を敷衍した方が良いぞ。
「反撃」の定義についても述べてほしいな。
>社会的多数派に対してであれば「嫌い」と公言する自由は制約されないのでしょうか。
誰に対しても、法令等に違反しない限り、または判例に示されない限りは制約されないと思うが。
>究極を言えば、差別的イメージによって「嫌い」と言われることも許されるべきだと思うんです。
>もちろん、表明するだけで、それによって不利益が生じることは良しとしないとした上で。
それは無理だと思うよ。それって、ある意味、コミュニケーションを放棄してるのではないかな?
お前の考えが、他人に何ら批判されたくない、何ら反撃されたくないとする考えであるならば、それは、俺は間違ってると思うよ。
>わたしがいいたかったことは、どちらの立場であっても、お互い心理的安全を約束した上で、「嫌い」という言葉を堂々と言い合える世の中のほうがいいよねということです。
それは、記事の冒頭に掲げるべきことだったな。
あと、先にも述べたが、理想論としては結構だが、実際的ではないと思うよ。
「嫌い」という言葉の意味が変わるか、人間同士の関係性が変わらないと、それは多分実現しない。
>お互いにどこが「嫌い」なのかを素直に言い合うことによって、はじめて異なる存在自体が歩み寄れると考えているからです。
それは、お互いの関係性が深まって、親密になった先にある段階じゃないのかな?