論文が「正しい」か「正しくない」かを査読者が判別可能な,ある意味特殊な分野である数学のことしか分からないけど,
数学だと論文の主張とその証明が正しい事は前提になってて,主張が間違ってたら落とすのと,主張は正しくても,
論文誌のレベルにふさわしい面白い結果かどうかで採否が決まったりするよ
論文の正しさは投稿者にも原理的には判別可能だし,投稿する側は勿論必死のパッチで証明の正しさを検証してから投稿
するけど,ワイルズのフェルマーの最終定理の証明の一回目の査読では間違いが見つかったみたいに人間は完全ではないから,
査読者が何も見落とさないか?と言われると,それは見落とすことも多分ある,としか言いようは無いけど,自分では気づけなかった
パンプスで歩くと左足の小指がやたら痛い
長く履いているからどこか傷んだのだろう、と思いつつ
そこそこ良い値段の靴なので このまま放置は惜しく、痛くなる原因を調べた
どうやら底が削れて外側に力がかかりやすくなって痛くなるようだ
ヒールかかとの修理は1000円〜2000円でやってくれるサービスがあるらしい
試しに修理に出してみたが
修理後の靴はもう小指が痛むことはなかった
修理代金は1500円程だった
めっちゃお得
靴の修理なんてはじめてだったが、すごくいい
以前は安くて大きめの靴を手当たり次第買って履き潰すか履かずに放置か、という感じだった
そこそこ良い靴を修理して使う っていうのは
今回の修理で思った
まず論文の査読ってのは、文理問わず、ある程度の有識者によって
「明らかな誤りを含んでいない(であろう)こと」が担保される制度って理解でいいのか?
そうすると、普遍的ルールが存在する自然科学の領域ならわかる。
ただ、法律学なんかの分野で、A説とB説のどちらの法解釈が妥当かみたいな考証をした場合、
何が正しくて何が間違っているか判断する基準はどうなってるんだ?
いずれの説もそれなりに筋が通り妥当といえるから両説が対立してるとかあるんだろ。
査読ってのをした担当者(?)の支持派閥によって判断が分かれることになるんじゃないのか。
私は病気で十分な意思疎通が図れなくなり社会から隔絶されたし、今もあなたのいう社会には復帰していないと思うが、それでも切り捨てられることなく生きることができたのは福祉の分野が私を見捨てずお金を回してくれたからで。
そんなもん文系基準でも「査読なし論文」じゃねーわ。業績欄に載せるとしても学術誌の片隅のコラムとか学生新聞のインタビューとかと同じ扱いだわ。そんなもん、理系だって査読があるわけないじゃん。
そう。で、その論文基準に満たないものが論文として投稿されたらどうなのかっていうところ。
査読があればそこで止まる。無ければ、評論家に叩かれるとか、別の論文でこき下ろされるとか、同業者からお声がかからなくなるとか、別ルートで評価されるんだろうとは思う。
査読と違って反論が論文として業績になるとか、やり取りが公開されるとか利点もありそうだけど、匿名のレビュアーが絶対的権限を持つ(と言いつつ編集がひっくり返すこともある)査読より権威者に有利な制度でもありそうで、そこは制度の性格による良しあしと思う。
というのとは別に、遅くないかと。査読は一部の人柱だけど、査読がなければ多くの人の時間を使うわけで。永遠に時間があるつもりで勉強しろという格言はあるけど、人はあっという間に死んでしまうわけで。