はてなキーワード: 津原やすみとは
津原泰水の発言に関しちゃ「女流文学」という言葉が今ではあんまり推奨されない言葉なのも相まってちょっと雑語りなのでは? でも伊東麻紀は津原泰水が男性であることを以て勝手に女性蔑視の話に紐付けているのが最悪。
津原泰水がこう呟いた。
少女漫画や女流小説が、政治を直接的には描いてこなかったというのも、一因のような気がする。そこ、完全に座席が空いている。
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1206719227022860288
で、それに対して伊東麻紀が津原泰水の作品には女性蔑視的な部分があるという言及をして、色々と揉めている。
あんまり言いたくはないんだけど、この方もうっすら女性蔑視が漂ってるんだよね。作品を読んでいてもそれは感じる。いや、本当にあんまり言いたくはないんだけど。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207045087860887554
揉めてる様子は各位Twitterを見てくれ。
この話のポイントは、発言者の経歴とかを度外視して「字面から推測できそうな意図」だけ読み取ってしまうと意味が全く変わってしまうというところ。
まず、津原泰水は「女性作家」の話をしていない。津原泰水自身は津原やすみ名義で少女小説を書いているのだ。しかも2−3作ではなく、30冊近くに登るはず。つまり、「少女小説を書く男性作家」である津原泰水は、「少女小説」の書き手が女性に限定されないことを誰よりも知っているのだ。その意味で、「少女漫画」「女流文学」の書き手が女性であるとは限らないことも理解している(実際、他ユーザーとの女流文学に関するやりとりの中で紀貫之を例にあげている)。
更には、この発言自体、過去の話を話題にしている。女流文学というものがある一定の範囲で許容されてきた歴史が存在することは(残念ながら)事実である。ついでに言えば、元発言自体はジェンダーギャップ自体を批判する文脈である。その点を見過ごし、「女流文学」という言葉を使ったことだけを以てして、津原泰水の発言が女性蔑視的なものだと読み解くのは、解釈の飛躍である。「女流文学」というものはたしかに存在「した」し、津原泰水は現在の話には一言も触れてない。むしろ、津原泰水さんの立場から見た場合に、上記の発言は半ば自戒・反省の意図の方が大きい筈である。もっとも、「少女漫画」「女流文学」「少女小説」全部違うものであり、少女小説の書き手であれば少女漫画や女流文学を語れるのかというとそれも少し違う気がするので、増田自身は津原泰水のこの発言をうかつだと思うし、正直雑語りだと思いますよ。
それはそれとして、伊東麻紀はどのようにこの件に絡んでいるか。
まず、引用RTにて「作品から女性蔑視が読み取れる」という話をはじめ、やりとりの中で「女流作家という言葉を使う時点で女性蔑視」と津原を批判する。また、「津原やすみ」名義の作品を読んだことがない上に「読む気もない」と述べており、津原泰水が「女流文学」という過去のジャンルの話をしていたことに気づき「脱力」する。
女流ですか。その表現自体に男性よりはワンランク下というニュアンスが含まれてるんですがわかりませんか。女流と呼ぶなという女性作家は少なくないと思いますが。もうその時点で女性蔑視なんですよ。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207176254643793922
津原泰水名義の作品なら読みましたよ。それだけではご不満ですか。わざわざ古本で少女小説を買って読め、と。お断りします
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207172161422557185
やっとわかったような気がします。「少女漫画」や「レディコミ」と同じように「女流文学」というジャンルがあって、作家の性別にかかわらず、そのジャンルに参入することは可能であるという認識だったわけですね。あまりにもズレがありすぎて、これ以上会話できるとは思えません
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207187821678583808
はあ、ものすごく脱力。結局、最初から最後まで噛み合わない話をしてたわけだ。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207191049891762176
ここでのポイントは、「津原泰水が女性作家に責任をおしつけている」という前提で伊東麻紀が話を進めていることだ。津原泰水は一貫して「少女漫画」「女流文学」の話しかしていない。概ねの傾向として女流文学と呼ばれるものの殆どが女性作家によるものなので近いようにも見えるが、津原泰水の経歴を考えるとそこを同一視することはまず有り得ない。仮にあったとして、津原泰水の発言は半ば自省や自戒を含むと読める。この、カテゴリの話を女性の話に飛躍させている、そこに解釈の飛躍がある。誰も、そんなことは一言も言っていないのである。むしろ、文学において書き手の性別と作品の作風とは関係がないこと、そういう垣根は超えられることを実践してきたのが津原泰水なのである。
ここから得られる教訓はいくつもあるんだけれども、確実に言えるのは伊東麻紀は「言ってないことを勝手に読み取る悪い見本」ということだ。書き手が男性であること、自分が少女小説に嫌な思い出があること、女流文学というカテゴリに対して批判的な態度をとっていること、そういった先入観が、津原泰水に対する潜在的な拒否反応を生んでいる。その前提からスタートするため、津原泰水の発言から悪意を勝手に読み取っているのである。たとえば、やりとりの途中で津原泰水本人から「少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかる」と津原泰水が言ってもいないことを勝手に読み取り、本人から問いただされている。
少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかるし、女性蔑視もしていないというのは思い上がりですよ。性差別は社会構造そのものに組み込まれているものです。誰もそこから完全に自由ではありません。女性である私自身でさえ、女性蔑視を無意識に内面化してしまっている部分はあるでしょう。
https://twitter.com/ItohMaki/status/1207173245478174720
「少女小説を書いていたから女性の気持ちはわかる」というのは誰の言葉?
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1207174096586342401
ひとと議論・口論をする上で、この「相手の言ってないことを読み取らない」力はものすごく大事な能力なんだけれど、残念ながら知識の豊富さや政治的スタンスの正しさと相関性がない。「何を言ってるのか」、ひいては「何を言ってないのか」を読み取らないと、会話は全くかみあわなくなる。相手の言動から可能な限り意図を(できる限りフラットに、つまり悪意をできるだけ排除して)推測しようとする力は、最低限相手に対するリスペクトがないとできない。「コミュニケーションをとる相手に対して、少なくとも最初のうちは表面上だけでも最低限のリスペクトをとる(たとえば津原泰水は最初伊東麻紀に敬語で話しかけている)」という、人間が社会生活を送る上で多かれ少なかれ求められることができない人は男女関係なくたくさんいるんだなぁ、という悲しい気持ちが心に無限にわいてくるのである。本当に悲しい。
1989年、少女小説『星からきたボーイフレンド』(津原やすみ名義)でデビュー。また3年間、代々木アニメーション学院にて特別講師を務めた。
1996年、『ささやきは魔法』を最後に少女小説から引退し、翌年、津原泰水名義での長編『妖都』を上梓。
1997年、津原やすみ名義の作品が北京語版・朝鮮語版で発売される。著者名は「津原靖美」と表記されている場合がある。
2003年、『少年トレチア』で第56回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門候補。
2006年、高校時代の吹奏楽部での体験をもとにした『ブラバン』を発表。ベストセラーとなる。
2010年、尾崎翠原案の『瑠璃玉の耳輪』を上梓。翌年には尾崎翠フォーラムにて講演を行う。(講演録は文庫版に収録。)『バレエ・メカニック』で第41回星雲賞日本長編部門候補。
2011年、「五色の舟」「テルミン嬢」(『11 eleven』所収)ともに、第42回星雲賞日本短篇部門候補。『ブラバン』で第1回広島本大賞候補。
2012年、『11 eleven』で第2回Twitter文学賞国内部門1位。
2014年、近藤ようこにより漫画化された『五色の舟』で第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。
2016年、『ヒッキーヒッキーシェイク』でSUGOI JAPAN AWARD 2017 エンタメ部門候補、第33回織田作之助賞最終候補。
ただし本文も評価も読んだことはないのでこれ以上のことは言えない。
「月の庭園」
>http://www.bk1.jp/product/00941131
>http://www.bk1.jp/product/01043916
どうやら未完のようだ。