はてなキーワード: 凡才とは
天才と秀才の違いは理解の速さとかじゃなくて、新しいものを考えられるかってところが一番の違いだと思う。
私の考えでは定理をたくさん知ってるのが秀才で、定理を作るのが天才。
「自分に最適な練習方法」でたくさん練習していろんなことができるようになるのは秀才で、
自分の今までの経験・知識の中から「こうすりゃこうなるんじゃね?」とほとんど練習もせずやってのけるのが天才。
ビルで例えれば、階段を登って途中の階で挫折するのが凡才、階段やエスカレーターを駆使して登るのが秀才、
天才性と秀才性の真ん中くらいに「エスカレータ」に位置付けられるモノがあると思う。
「エレベーターをまずまずの高さで降りた人」ってのは正確にはエスカレータを駆けのぼってエレベーターに追いつき続けた人で、途中からエスカレータが途切れて階段になったときに「自分は天才でなく凡才、しかし高さは稼げてる」=「ここまでこれてない奴なんなの」になるんだと思う。
エスカレータを駆けのぼると高揚する。疲れもするけど階段よりはどんどん上がれていくので楽しい。疲労と引き換えに高さという報酬が得られるという経験がリアルに体得される。
エレベーターは違う。疲れたりしない。一瞬で何の障害も無くその「高さ」に到達でき、しかもそれが出来て当たり前に体感される。高さは報酬でなくただ単に「高さ」だ。但し高い方がいいといえばいい。見えるモノのレベルが違ってくるから。高所到達には高揚はあるけれども、それは決して「報われた感」の類ではない。
階段はぶっちゃけ圧倒的に疲労感の方が大きい。こんなに頑張ってるのに報われないっていうか報いが少なすぎて効率が悪いのでのぼっていてイライラしてくる。周りにエスカレータ野郎がいて楽しそうに駆け抜けていくのを見送ってたりすると苛立ちに拍車がかかる。もう階段しんどいし得るものないしのぼるのイヤだ、どっか別のエスカレータに接続してる分岐は無いかな、と目があちこち向くようになる。
天才性はある事柄を学んだ時に感覚的に理解することができる能力で、
一つ一つ段階を踏むことで理解することができる能力だ。
多くの人が1+1=2という決まりごとは直感的に受け入れることができるし、
ある程度の段階まではエレベーターに乗って進むことができる。
しかし多くの人が小学校中学校と進学するに連れて徐々にエレベーターを降りて階段を進まなければいけなくなるだろう。
だが階段を進むだけでもかなりの高さに到達することはできる。
高校大学あるいはそれ以上の段階までエレベーターで登っていけたとしても、
どこかの段階で誰しもエレベーターを降りて階段を歩むことになる。人間は全知全能でないから。
ただし階段を登りはじめたあとでも、人によっては辛抱強く階段を登っている途中で再びエレベーターが現れることもあるし、
稀にはじめから高いステージにいるがゆえに乗るべきエレベーターがわからず発揮されない天才性もあるだろうけれど。
で、
エレベーターをまずまずの高さで降りた人ってのは、エリート意識が高いってのはまあいいんだけど、
そのくせ自分は天才じゃない=自分は凡才って思ってる人が多くて、扱いづらい面がある。
凡才の自分でもこれくらいはできるのに、それすらできない奴らは何なの?ゴミなの?
っていう態度が透けて見えるから。
目にするたびにむしょうにイライラしてたんだけどなんでかわかんなくってモヤモヤしてた。
さっき思いついた。
あれって、小中学校のころガリ勉秀才だった私のテスト答案をテスト返却のたびにわざわざ見に来て
「わーーさすがだねー増田ちゃんマジ天才^^やっぱ天才は脳みそ違うわ~^^」
とか意味もなく茶化してきてたあほみたいなクラスメイトたちの反応に似てる。
私天才でもなんでもないしただの凡才が泥くせえ努力で100点取ってるだけだよ。
おまえらとたいして違わない脳みそだけど、ガリ勉してるからいい点とれてんの。
あたしは凡人だから勉強してもイイ点取れない、だから勉強しな~い
って思いたかっただけだろ?
って言ってやってもよかったな。
子供の頃は大人は正しくて基本的に間違わないものだと思っていた。
でも自分が大人になるにつれ、自分やまわりの大人が子供の頃のイメージとはかけ離れた欠点だらけの存在であることが見えるようになってくる。
世界もいろいろな部分でほころびがあるように見える。
そうではない。
学校を見ても優秀な生徒はごく一部にすぎなかった。大多数は欠点を多く抱えた人間だ。
世界的に見てもそうかわらないだろう。ごく一部が優秀で、大部分は凡才。
大人と言っても子どもが少し成長しただけにすぎない。
ならば世界のあちこちがほころんでいるのはあたりまえだ。
大部分をしめる人間がほころばないように運営する能力がないからだ。
それでもそれぞれ自分の出来る範囲でうまくやろうとしている。
歴史的にみても奴隷制は廃止されたし、食べ物で困る地域も減ったし、職場環境も良くなってきている。
ダウンタウンというコンビについて、「天才・松本を補佐する凡才・浜田」という間違った認識の人間がとても多い。ゆとり以下のガキどもに至っては、浜田に対して、クソつまらん芸人だという認識しか持っていないと思われる。
たしかに近年、クソ番組でMCをただこなしているときの浜田は、いくつか落とすパターンこそ持ってはいるが、さんまや、中堅のくりぃむ上田等に比べると、明らかにパターンの数が少ない上に、相手の話を膨らませる能力にも乏しくはっきりいって面白くない。
浜田がその実力を遺憾なく発揮し芸人として、テレビタレントとして革命的な存在だったのは、売れ始めてから成り上がるまでの時期だ。
テレビ画面に現れた、まだ若さの残る浜田は、競演した大御所や先輩タレントに対して、問答無用でツッコんでは、時にどついてみせた。
たったこれだけである。
だが、これがとんでもなく衝撃的だったのだ。
それに先んじて、とんねるずが お笑いとアイドル・ミュージシャンとの関係性を変化させていた。当時、芸人は歌手より地位の低い物と見なされており、「公の場」でアイドルをバカにしたり、ミュージシャンに無礼な振る舞いをする芸人は、ほぼ存在しなかった。たけし(軍団)ですら、公の場ではその関係性を守っていたのだ。
だが、とんねるずは体育会系のルールそのままに、年上に対してはそれなりの礼節を持って振る舞ったが、年下のアイドルやミュージシャンに対して、平気でタメ口をきいたり、時にバカにしたりして笑いに変えた。そうして芸能界の暗黙の掟を一変させたのである。
浜田の革新性は、こういった土台があったからこそという側面はある。それでも、芸能界において先輩後輩の序列は絶対であり、そこを侵す者は現れなかったのだ。浜田を除いて。
そのことに気づいてから、俺はテレビで浜田を追いかけるようになった。相手が誰であろうとも、己の信念と姿勢を曲げることなく容赦のないツッコミを浴びせる浜田は間違いなく『パンク』な存在であった。そして、上下関係抜きの辛辣なツッコミを浴びせても、浜田は決して場の空気を乱すことがなかった。それ故に、つっこまれた人間は、浜田に怒りの感情を示すことがなかった。松本の天才性の陰に隠れてはいたが、この事実は、浜田もまた紛れもなく天才であったと言うことの証左である。
だが、いつの頃からだろうか。おそらく、ダウンタウンが多くの冠番組を持ち始めてからのことだが、主に若い世代から、浜田に叩かれることを喜ぶような連中が現れた。こうなると、もはや猪木のビンタと変わらない。ツッコミの鋭さそのものは変わらずとも、その意味合いは、全く別のものになっていった。
わたしはそれを否定する。松本が天才であったのは間違いないが、浜田という斬り込み隊長の存在がなければ、もっとマニアックな存在としてしか、世に出ることはなかったと思われる。若かりし頃の浜田には、とんねるずと同じように、予定調和をぶち壊し、新しい地平を切り開く革命家としてのパワーが宿っていたのだ。それは、ともすれば狂気的とも言えるものであった。
浜田が切り開いた新しい地平の上で、松本がその才能を遺憾なく発揮した結果として、日本のテレビお笑い史上最高のコンビになった、というのが俺のダウンタウンに対する短評である。
今のテレビお笑い界、特に若い世代に、登場するたび「今日は何をやらかすんだろう?」と、わくわくさせてくれる存在がいるだろうか? 浜田もとんねるずも年をとった。丸くなってしまった。たとえ懐古厨と言われようとも、俺をテレビに夢中にさせた、かつてのダウンタウンととんねるずほどの存在は、テレビに誰一人見あたらない。強いて言うなら大泉洋であったり、ブラックマヨネーズであったりといったところだが、大泉は役者であるし、ブラマヨは真の実力(フリートークスキル)を発揮できる場を与えられないまま年を重ねている。
寂しいことだ。
横だが。
理系からガチガチの技術屋になるなら解るが、SE方面に進むと大概死んだ魚の目になる。
何で文系がいいかといえば、システム上のクリティカルな事象は、専門家に任せればいいからだよ。
客先との打ち合わせや、チームの管理やらのスキルはどっちかといえば文系向けだ。
実際、言葉の通じない理系の天才よりも、きちんとした日本語を話す文系の凡才の方が打ち合わせに狩り出される。
一般的な事象から外れたものを認識できる程度の知識があれば、既存ノウハウの蓄積でSEなんてやっていける。
ネットワークでも、データベースでも、一般的でない事象を解決できる専門家が社内にいればいいし、そういう実験的なポジこそ理系に向く。