はてなキーワード: ポトシとは
モジャモジャの髪、目力、彫りの深さ、すべてが超スペインっぽくて最高
そして何より声がいいですよ
sの音が消えがちな、アンダルシアあたりの訛り?(訛り事情全然わからん)もカッコいい
そんでよお、曲調がいい
https://m.youtube.com/watch?v=0o8SdwaGx2s
俺は自分が何をもってラテン感を判断してんのかわかんないんだけど、ギタリカデラフエンテさんの曲はとにかく大体ラテンっぽい(フラメンコっぽい?)
「若いカッコいいにいちゃんがハスキーな声でラテンっぽい音楽やってる」って事実が良すぎる
そんでさあ、さっきの、Quien encendió la luzっすよ
これ良すぎる
サビで執拗に繰り返される
'Tú la dejaste encendida, ahora sueño con que ya vuelvas tú "
これがカッコいい
こういうチャカチャカした音すげえ好きだよ
チョーカッコいい
「きみは火をつけたままにしたね、いま僕は君が戻ってくる夢を見てるんだぜ」アッこれ俺の力だと訳せないな 現在形って難しい
でもこのahoraはぜってえ当てつけのニュアンスがあると思う
僕は純粋な青年だったのに、君のせいでもう滅茶苦茶ですよ、火をつけてくれましたねえ!っていうニュアンスの歌だよな多分
それで「いま僕は君が(もう)戻ってくる夢を見る」っつうんだから、それはもう恨み節じゃん
ああ〜いい いいよお
個人的にハズせないのが、いちばん最初サビに入る前のところで"ahora sueño con que vuelvas tú" つって、yaのないバージョンをお出ししてきてるところ
繰り返されるフレーズの、ビミョーに違うバリエーションっていうのがすげえ好きなんだよなあ!
サビフレーズ'でちょっとフェイントを入れてからサビフレーズの繰り返しに入るのが渋い
あと、1番終わって、なんつうかいかにもブリッジ?って感じの、ちょっとゆったりした感じになる部分
ここもこう、わざとらしいくらいのギターのトレモロが非常にあざとくていいんですけど、何よりいいのが、サビへの繋げ方!
"… punta de la nariz” のあとに入る「ウエ〜」みたいなのがマジで良すぎる
耽美系(?)のブリッジからラテン系のサビにシームレスに移行するのにベストすぎるウエ〜だ
しかも3番(?)でも出てくる それがいい
あと、ポトシ銀山とか出てくるのもかなりいい
"もし君をポトシの金で飾れるのなら、サンティアゴからマドリードまで橋をかけるよ"
地名3つ出てきてて、演歌みたいになってもいいはずなのに、ただカッコよさだけがあってズルい
南米からマドリードまでの橋っつうんだから、完全に不可能なレベルの巨大橋なのに、"puentecito”なんて言っちゃうのが憎い
小さな橋、というか、かわいい橋というか、どういう気持ちの縮小辞なんだコレ
橋ちゃん?小橋?"橋なんか"?橋なんかかけちゃうよ!的な?違うよなあ
しかもcito系の縮小辞だもんな itoよりcitoのほうが好きだから、自動的にポイントも加算や
ああーカッコいい
このMadridのあとに例のウエ〜が入るんだからもう最強だ
マジで何なんだこの曲
これ13万再生に収まる器じゃないと思うのですが……
なんならもう、普通にその辺のスーパーでかかるようになってもおかしくないって
https://m.youtube.com/watch?v=ONdDn05lq-s
まだ5日しかたってないとはいえ、これが1.5万回再生とかなのも納得いかねー
ヘンな服着てんのになんかカッコいいしさあ
覚えておけよな
(気になったところだけメモ)
→統合したばかりのスペインの国力を強化し、国境を挟んで緊張関係にあったフランスと対抗するために、ハプスブルク家に近づいた。フェルナンドとイサベルは生んだ子供のうち2人をハプスブルク家の人と結婚させた。その子供の1人がヨーロッパのかなりの領土を支配したカルロス1世(カール5世)だった。スペインは思いがけぬ形でハプスブルク帝国もいただくことになった。
→多民族、多文化、多言語、他宗教国家だったスペイン(4分の1はスペイン語が話せなかった。ユダヤ人社会。またイスラム系住民はまだ底辺労働力として居残っていた)。毎日開かれる王の諮問会議。報告書、稟議書などの大量の文書。数千人の役人が働いていた。スペインの大学は役人養成機関として発展し、16世紀始めに11あったカスティーリャの大学はその後の100年で33にも増えた。イギリスはそれと比べると官僚制を発展させず、大学の数も19世紀にいたるまでオックスブリッジの2つだけだった。
→銀塊をリャマの背に乗せて港近くまで運び、そこから小舟に移して北上、パナマを縦断するためにまたラバに載せ替えて陸上移動、大西洋からやってきた、トレジャーフリートと呼ばれる船団に載せてスペインに向かう。季節、季節風も加味してこうした計画を周到に用意する。信じられないほど高度なオペレーション能力が必要とされる。
→16世紀を通じて西ヨーロッパの物価は平均して5倍に高騰。スペインがヨーロッパにもたらした銀が原因とされているが、違うとされている。原因は王室の貨幣悪鋳・公債発行。そして人口がこの時急速に増えたものだから食料価格が高騰したことが原因。
印刷術
→金属活版印刷は1450年にドイツで発明。そこから1476年にイングランドに導入。カスティーリャには1473年に導入。わずか20年で違う国にまで技術が伝播した。この技術移転のスピードはほとんど現在と引けをとらないのではないか。
→同じ羊毛生産を主力産業にしていて、フランドルへの原料供給国だった。イングランドはロンドンの独占商人組合が一手にそれを集め、アントワープに出荷。カスティーリャでもおなじような独占組合が羊毛の生産・出荷を支配。北部の内陸都市ブルゴスに集積、フランドルに出荷していた。
→アメリカから得た富を装飾や豪遊につかったというのは誤解。むしろ、絶えず起こっていた戦争(オスマン帝国との戦争、フランスとの継続的な戦争、宗教改革の勢力、独立を目指す北イタリア、ネーデルラントの勢力などなど)への出費のせいだった。
アルマダの経緯
→同じ新宗教国家として、イギリスのエリザベス1世はネーデルラントの独立紛争に介入。7000人の兵を送る。1588年、スペイン王フェリペ2世は英国作戦を計画。大量の兵力を送り込み、ロンドンを一気に制圧する予定。当時のスペインは領土も富の綿でも大国。小国イギリスに勝ち目なし、と当時の銀行家たちは踏んでいたが、まさかの敗戦。
オランダ発展の経緯
→16世紀半ばから新教によるオランダ独立運動が始まって30年。南部アントワープがスペインの焼き討ち→北部アムステルダムに大量の人口移動、資本と商業もここに集約。スペインの劣勢も追い風となりこの地の発展が促された。貿易国家として栄えた上、アントワープ以来の繊維産業も追随を許さない。
→海洋商業国家のオランダを潰す目的で制定したクロムウェルの航海条例(1651年)→翌年から20年に渡る断続的な戦争。→1672年にはルイ14世が陸・海で攻撃、オランダはパニックに陥り経済も壊滅的打撃。数々の緊張が続く中、オランダはイギリス侵攻を計画する。1688年、500隻の船、2万人の陸軍兵を伴ってオラニエ公ウィレムがロンドン上陸。イギリス国王の座に収まった。これが、名誉革命のもうひとつの側面である。