はてなキーワード: 百姓とは
いいじゃん百姓らしくて
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。
トンパチ屋の常連は、近所の百姓と工場の労務者達であつたが、百姓の酔態といふものは僕の想像を絶してゐた。僕自身もさうであるが、東京のオデンヤの酔つ払ひといふものは、各々自分の職域に於て気焔をあげるものである。ところが、百姓達は、俺のうちの茄子は隣の茄子より立派だとか、俺は日本一のジャガ芋作りだとか、決して、かういふ自慢話はしないのである。自分の職域に関する気焔は一切あげない。さうして、酔つ払ふと、まづ腕をまくりあげ、近衛をよんでこい、とか、総理大臣は何をしとる、とか、俺を総理大臣にしてみろ、とか、大概言ふことが極つてゐる、忽ち三人ぐらゐ総理大臣が出来上つて、各々当るべからざる気焔をあげ、政策が衝突して立廻りに及んだり、和睦して協力内閣が出来上つたり、とにかくトンパチ屋といふものは議会の食堂みたいなものだ。