はてなキーワード: ヨットとは
→親に昔紹介されたプランナー?(正式な職業名がわからない)に全任せしていて、自分が何を保有しているのかよくわからない。毎月、運用記録が届くがぶっちゃけ読んでない。
→知らん。たまに野村證券だのから手書きのお手紙が届くくらい。読んでない。
→そもそも出会いがない。あとここ10年くらい、二次元でしかシコってない。人生で彼女がいたことがほぼない。「ほぼ」は盛った。彼女いない歴=年齢。
●住居・別荘
3000万くらいの家立てて、そこに住んでる。
別荘というか都内にワンルームは借りてる。月10万くらいしか払ってないけど。昔買ってた雑貨品置いてる。
●有名人との付き合い
→ない。従兄弟が舞台とかやってるから、もしかしたら有名かもしれん。今度聞いておく。
●職業
→普通にリーマン。月収30万くらい。昔、会社起こしてみたけど、普通に潰れた。某県の銀行はもう俺に金貸してくれなくなった。
●車
→プリウス。
●時計
→持ってない。
●ヨット
●ブランド品
●アート
→運用してる人がやってるらしい。正直やめてほしいが、税金的に有利とか言われたから続いてると思う。
●教育
→子供欲しいけど人と付き合うのダルい。生まれたら多分慶應あたりに入れる。
●趣味
→小説家になろうを読む、ゲーセンにたまにいくくらい。ボンバーガールでスターAになった。
正直こんな感じ。ごめん32億は多分そのくらいってだけで、正式な額は知らん。
てか千代田区育ちの人ならわかると思うけど、「資産運用はダサい」的な空気がガキ共にあったじゃん。
あれよくないよね。なんか損した気がする。
1977年 | 環境庁長官 | ・水俣病患者施設を視察した際に患者から抗議文を手渡される。 |
会見で「これを書いたのはIQが低い人達でしょう」「補償金が目当ての“偽”患者もいる」と発言。 | ||
土下座して謝罪。その状況の画像は今もインターネット上に残っている。 | ||
1981年 | ・石原の弟が倒れた際、小笠原諸島から自衛隊機を呼びつけて帰京した。燃料代は160万円 | |
1982年 | ・石原の第一秘書が対立候補のポスターに「北朝鮮より帰化」というシールを3000枚以上貼り付け。 | |
秘書は現行犯で逮捕される。 | ||
1987年 | 運輸大臣 | ・身内のヨット仲間の忘年会の席上で「小網代港の魚網はヨットの邪魔だから運輸大臣任期中に取り除かせる」と発言。 |
・宮崎にあったリニアモーターカー試験場で試乗した際 | ||
「ブタ小屋、トリ小屋の間を(リニアモーターカーの宮崎県内の実験線が)走っており、日本の技術力を世界に示すにはふさわしくない」と発言 | ||
その後記者会見で謝罪。しかし更に「言ってない。謝って損した」などと話した。 | ||
2000年 | 東京都知事 | ・「週刊ポスト」で「私は半分以上本気で北朝鮮のミサイルが1発落ちてくれたらいいと思う」とコメント |
2001年 | ・ロサンゼルス・タイムズのインタビューで「北朝鮮のミサイルが日本に当たれば、長い目で見て良いことだろうと思った。」と発言。 | |
2006年 | ・文部科学省の伊吹文明大臣宛にいじめ問題を解決するよう嘆願する手紙が届いた。 | |
この手紙には「改善されなければ自殺する」と書かれていたことを受け、石原は | ||
「予告して自殺するバカはいない。やるならさっさとやれ」と暴言を繰り返した。 | ||
2011年 | ・東日本大震災について | |
「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。と発言。 | ||
2016年 | ・小池百合子都知事に対して「大年増の厚化粧がいるな」「厚化粧の女に任せるわけにはいかない」 | |
小池氏は顔のあざを隠していると明かしている。それにかこつけた発言。 | ||
2020年 | ・ALSについて『業病』と表現。 |
ぶっちゃけ多すぎて全部まとめるの無理だわ。
http://camelop.g2.xrea.com/isihara/isihara_gendou1999.html#IQ
石原慎太郎が差別発言「(障害者に)人格あるのかね」「(水俣病患者の文書に)IQ低い」
https://biz-journal.jp/2017/03/post_18396.html
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「新潮」note開設の一発目の記事として谷川俊太郎が投入された
それに加えて、谷川俊太郎をよく知らない人への説明でもあったのではないか
名前と一部作品程度しか知らない人(増田のような)にわざわざ何を説明する必要があるんだ
と思うだろうけど、時事ネタへのコメントが苦手な件で、谷川もいよいよ大丈夫なのかな
などと邪推していた増田は、アレは平常運転であり老いてますます元気なんだなと納得できた
なんとなく、追悼文にアレは大丈夫なの?みたいな声が新潮の耳にも届いており
1月号にちょうどいい記事があったので編集部が気を利かせて、一番に出してくれた
と見るのは穿ちすぎだろうか
https://note.com/monthly_shincho/n/n74bb120454d4
>新聞雑誌ラジオテレビなどのいわゆるメディアから、発言を求められることがあります。大体時事的なテーマが多いのでほとんど期待に添えない。情報過負荷で矛盾に満ちたこの時代に、公的な発言ができるほど僕は知識がないし、器も大きくない。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220201-OYT8T50129/
西村賢太さんとの最後のやり取り…石原氏追悼原稿に「動揺もあって汚くなって申し訳ありません」|読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220205-OYT1T50204/
記事掲載の2日後に急逝した西村賢太の絶筆の石原慎太郎への追悼文
詩人の谷川俊太郎さんの話 として短い思い出だけが掲載されている
【特集】天才詩人と石原慎太郎氏の意外な接点 「あいつはいいやつだ」の関係|47NEWS
https://www.47news.jp/1466515.html
>彼は僕が全然やらないことを知っていて、クレー射撃の散弾銃を撃たしてくれたり、ヨットに乗せてくれて三浦半島の方まで連れて行ってくれたり。
文学者・文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。
そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き・映像監督と政治家で違うけども、根本は文学者だと思う。
文学や新聞がメディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。
石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実
「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影)
DSC_3468『わが人生の時の時』
政界を引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーにヨットにダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派”作家の身体と感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)
この本は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議なウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。
思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。
《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難や自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優・裕次郎さんとの別れや霊の存在を示唆するような不思議な出来事、戦時の日常も描かれる》
僕は肉体派だからね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷をヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときはコンパスがクルクル回るのが気持ち悪かったね。
ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。
戦時の体験も書きました。横須賀から出航する前、家族と最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争の不条理や残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー元会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうものが潜在意識にあって書いたんです。
《26年、衆議院議員を最後に政界を引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在も文芸誌に小説を連載する》
随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。
ライフワークが一つあってね。仏教徒だから法華経を現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在や時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。
やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。
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『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮社から単行本が刊行され、後に文庫化された。『石原愼太郎の文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。
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〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市生まれ。一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員に当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任。平成11年から24年まで東京都知事を務めた。