はてなキーワード: アフォリズムとは
→ワックなはてなーのdisに神さんマジ激おこ「まだ死んでねえっつの!!」
→ニーチェにバトルをふっかける
ニーチェ「いやー負ける気? がしないっスね。もう終わりでしょ正直神とか。前世紀が全盛期だったでしょ。今日は調子いいですわ。全身が口になったみたいな、断崖の高みから落ちる渓流の轟みたいな感じ。はやく俺のフロウを谷へ向かって流し落としてえ気分でーす」
神 a.k.a. Shit する God「人類? 最近頑張ってじゃないんですか(笑)。でも、まだちょっと、ちょっとまだねえ。譲れないでしょ。チャンピオンの座は」
M.C. Leo PP. XIII「さあ、Big. G.G ことガリレオ・ガリレイやマルティン・”シスマ”・ルター以来のビッグなマッチアップがやってきたぜ! ニーチェ vs 神! 果たして神は死んだのか!? それとも死なないのか!? さっそくはじめるぜ、DJ Shit-ダールダ! ギミアビーーーーッ!」
(チェケチェケチェケバウ♪)
どうみてもおまえ Wimp なバットマン
勝てるわけねえじゃん おれはクリプトン
負けるわけねえじゃん おれのスクプリト
かつて神をdisった俺たち
死んでくれて良かったな思うし
全力つくして行くぜ善悪の彼岸!」
神
「そう僻むなよ スーパー メーン!
見下げたやつだぜ ルサンチ メーン!
殺されるわけない オレの神学
降伏するならいまのうちだぜ
勝手に使うなヨソのザラシュトラ
ゾロアスター に頼ったところで
返却なんかしないぜ今夜かぎりで負債は
あれかこれかで悩むならよしな
身過ぎ世過ぎで死屍累々のこの世で
いつか掴むぜ獅子の声を Mein に
カインの末裔なら上等なんだ だったら
神
欠けたブルース・ウィリスだな
それに引き換えオレはダイ・ハード
ぜったい死なねえマジハートフルに
祝うんだ毎年のクリスマス of my child
俺たちいつでも Homie 三位一体だ
だけど おまえ次第だ 忘れんな
してやってんだ Say So Still God’s not Dead!」
「アーティストは政治的主張を行うべきではない」、「作品で語れ」。
なにもかも職人偏重文化のせいだとおもう。与えられた枠内で技術を研ぎ澄まし、寡黙にプロダクトを作り続ける「職人」への憧憬。それをアーティストにも適用してしまったことがそもそもの悲劇だ。
日本のアーティストは根っこの部分で表現者であることを求められてはいない。製造者たれ、ということだ。なんだってプロダクト扱いしてしまうのだ。美術品は金銭に還元できるものであり、究極的にはコンビニで売っているヤマザキのクリームパンと等質であると信じて疑わない。
なので、先日のオリンピックエンブレム問題を見てもわかるとおり、高度に訓練されたデザイナーやデザインはリスペクトされない。
日本人の美意識は今後百年、楽天の通販サイトから一歩も前へ出ないだろう。
ところで「アーティストなら作品ですべてを語れ」という言説は一見かっこ良く、筋が通っているように思われる。
ひとつは、表現活動はストレートに言語化できない領域を扱っている場合が多い、ということ。
明確なテーマや社会的政治的なメッセージやイデオロギーが作品内で直截的に説明されている作品や作家も世の中にはある。
しかしエンターテイメントの分野においてはリーダビリティの都合上、そうした主張は糊塗されていることが多いし、アート作品ならばそもそも既存の言説言語では語りえない(表現者自体の言語能力はさておき)ことを表現したがったりする。
ありきたりな言葉でいえば、数行のセンテンスで説明できる内容ならそもそも小説や絵や漫画や映画や写真や音楽などにせず、論文なりtwitterなりで発表するはずだ。そして、現にそうしている作家も少なくない。政治的なアーティストたちは、単に媒体ごとで最適かつ合理的な伝達形態を選択しているにすぎない。
だというのに、バカは不合理を強いるのが好きだ。
もうひとつは、作者にはテーマが選ぶ自由がある、ということだ。
あなたが政治的なレベルでピーマン嫌いだとして、戦国時代を扱った作品でピーマンの栄養学的劣位を述べる必要はまずない。
表現者の義務は自分のすべてを伝えることではけしてない。むしろ、自分の要素のうち何を削ぎ落とすかが重要になってくる。これも伝達における最適化の問題だ。さきほども言ったように、簡単に言語化できる政治的言説を人びとに伝えたいのであれば、それはそのまま作品を通さずに主張するのが合理的なのだ。
ぎりぎりまで絞った作数を重ねるうちに、全体を通じてひとつ芯の通ったテーマが浮かび上がってくることもある。その芯は作家性とも呼ばれる。だが、残念なことに作家性はたいがい作家個人のコンプレックスやトラウマに直結している。社会性などない。
選ぶのは自由なので、もちろん、社会的なメッセージ、政治的なメッセージを作品を通じて生に近い状態であれオブラートにうまく包んであれ発信する作家も多い。それは彼らがそうした方が受け手に伝わりやすいと判断したからだ。やはりそれも作家個人における選択の問題であって、乱暴なアフォリズムで普遍化されるべきものではないんですよね。
特権をもった人間が、自分の抑圧した人間に対して心に抱くやましさという重荷、そうした気づかいは、まさしく特権を維持するための気づかいなのである。
(『夢・アフォリズム・詩』ASIN:4582761496、p110)
禁欲主義者の多くは、もっとも貪欲な人たちである。彼らは人生のあらゆる局面でハンガーストライキをやりながら、それによって同時に次のことを達成しようとする――
一、ひとつの声に言わせる――十分だ、お前は十分に断食をした。いまやお前は、ほかの人々とおなじように食事をしてもいい。それにこれは食事とはみなされないであろう。
二、おなじ声に同時に言わせる――いまやお前はずいぶん長い間、強制されて断食してきた。いまからお前はよろこびをもって断食するがいい。それは食事よりも甘美であるだろう(しかし同時にお前は実際にも食事をするがいい)。
三、おなじ声に同時に言わせる――お前は世界に打ち勝った。わたしはお前を、世界と、食事と、断食から放免する(しかし同時にお前は、断食も食事もするがいい)。
そこへさらにひとつ、以前から彼らに絶え間なく語りかけていた声が加わる――お前の断食は完璧ではなかったかもしれない、けれどもお前にはよき意思がある。それで十分だ。
(同上、p239)
あんまり詳しく書くと野暮だからやらないけど、これって恋愛を語る人の身振りとか、非モテ主義者とかの行動にも当てはまるような……。