はてなキーワード: 教育問題とは
犯罪の弁護人は、世界で全員を敵に回そうとも被告人の味方であることを求められる。こんな厳しい仕事を進んでやる人が一人でもいるから、裁判の正当性が担保されるのだ。それを理解していない筈はない。単純にポピュリズムというか、衆愚主義にのっかって(群集の快感原理に訴えかけて) 弁護士会への懲戒請求を煽る。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/28/kiji/K20120128002522420.html にもあるが、結局の所教育問題ってのは誰でも口をはさみたくなるが故に、しばしば間違っていることであっても「正しい」という信念のもとに正当化される。しかし、教育を左右するというのは国の基礎を左右している、という責任感はあるのだろうか(私には全く感じられない)。建っている建物の基礎を変更するんだから、ドラスティックに変更したら、いくら設計図が正しくても工程管理のミスで家が引っくり返ることがある。ましてや、その棟梁が選挙で選ばれる(すなわち、継続性が保証されない)政治家だと言う。
短期的に見ればミクロな世代間格差や想定していない副作用でおかしなことになるだろうし、長期的に見れば右に左にゆさぶられた教育の現場がぐだぐだになるだろう。教育改革は1つのサイクルすら5年、10年という長丁場の覚悟がないと、本来は為しえない難事業なのだ。どうしてもドラスティックに変えたければ、特区や特定校指定などといった「離れ」でまず実験をすべき。これは、別に教育に限った話ではなく、生きているシステムは全てそうだ。
教育問題が取りざたされて久しい。
私はとある私塾の講師として授業を受け持っていて、担当は高校3年生が中心である。
高校生ともなれば、ある程度の学力のばらつきが出るのは当然であり、
高校の授業内容を全員が等しく身につけることは必須ではない。
有り体な言い方をすれば、良い大学を受験したい人はしっかり勉強すればいいし、
そうではない人は適当にやっていればいい。
実質的に教育問題とは、とくに初等教育の問題であると考えてよいだろう。
特に、生活のリズム、社会のマナーを身につける小学校という場について考えてみたい。
一般的なのは、教育系大学あるいは教員養成系教育学部をもつ大学に進学することである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k205.pdf
を見てみると、教員養成系の大学の偏差値は50~55程度が多いように見受けられる。
これらのレベルの大学を卒業した学生が教員となり、現場で児童に教育することになる。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k203.pdf
自分の高校時代を思い浮かべてもらいたい。
偏差値70のトップレベル集団と、平均点そこそこの集団は違う。
具体的な人間を思い浮かべてみてほしい。
さて、教育特に初等教育は、親からの目が特に厳しい職業である。
小学校の教員のもとには毎日まさに鬼のようなクレームが寄せられるらしい。
そんな業種として、他に医療が挙げられる。
そしてその医療の担い手として大きな役割を果たすのが医師である。
医師になるためには医学部医学科に入学する必要があり、その偏差値は理系の中でもトップクラスである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k210.pdf
によると、国公立の医学部医学科の偏差値は65~70程度が多い。
教育も医療も、周りの期待が大きい。耐え切れないほどの重圧がのしかかる。
教員の立ち振る舞い方で、児童はいかようにも変わっていく。それが初等教育であると考える。
かつて、私立医学部に入学するのに必要な偏差値は50を切っていた時代があった。
今では軒並み65程度まで上がっている。
医療の現場では、患者やその家族との信頼関係を作るように現場レベルでの指導が行われ、徐々に大学医学部での教育も変容しつつあるようだ。
教育も同じであるべきである。その時に求められるのは教員がいかに児童や保護者との信頼関係を気づいていくか。
それを念頭に置いた教員養成のための教育が、今の限られた教職課程の授業の中で行われているのか。
そしてそれを実現できうるレベルの学生が今の教員養成系の大学に集まっているのだろうか?
教育を本当に志す者のための教員養成機関になっているだろうか?
決して、就職先がない人の掃き溜めであってはならない。
強い信念を持った素敵な教員が増えることを願ってやまない。
レスしてくれた人、ありがとう
球はね、一時期自分では投げようとしてたと思うんだ
でもね
たとえばテレビの話題で「○○の霊能力者の番組は嫌い」とか書いたとする
賛同してくれる人もいるけど、その霊能力者を信じてる人からは嫌われた
ああ、誰かを嫌いと書いちゃいけないな、と思い直して
「お笑いの○○が好き」と書いたとする
今度は別の人から「○○のネタは△△を冒涜していて許せない」とディスられる
犯罪問題に言及すれば、知識不足で見捨てられることもある
そんなことを繰り返しているうちに、
受け止められやすい球を投げるということは
最終的に何も書けないってことなんじゃないかと思うようになってしまった
一部の人に受け止めてもらえればいい、と思っても
そして一度そんな風に思われると、ネットだとろくにフォローもできない
「考え方の違いを受け入れてほしい」と言えるほど深い仲でもない
けっきょく常に当たり障りのない話しかできない
何かの感想でさえろくに書けない袋小路に入り込んでしまった
でもそんな話は自分で読んでさえつまらないんだよね
そんな状況でコミュニケーションなんてムリだよね・・・
【政論】隠れた衆院選の争点 社民、共産との共通点浮き彫り
左派・リベラル色が濃厚な民主党政策集「INDEX2009」は、外交・安全保障などの政策面で現実路線をとりつつあるとされる民主党が、実はまだ旧社会党的発想の影響下にあることを浮き彫りにしている。本質的な違いの見えにくい自民、民主両党だが、こうした点にも衆院選の隠れた争点がありそうだ。
「自民党も右から左までいるし、民主党もそうだ。ただ、決定的な違いはそれぞれが抱える左の体質だ。自民党の左は『なんとなくリベラル』だが、民主党は『本物の左翼』『職業左翼』を抱えている」
確かに「INDEX」には、自民党では初めから否定されるか、議論はあったが最終的に棚上げされた政策がずらりと並ぶ。そしてそれらは社民、共産両党などの政策と似通っている部分が多い。
例えば、永住外国人への地方参政権付与について、結党時の「基本政策」だとして「早期実現の方針を引き続き維持する」とある。この問題は民主党執行部はほぼ全員が賛成だとされるが、自民党では反対派・消極派が大勢を占める。
関連して「国籍選択制度の見直し」の項目をみると「重国籍を容認してほしいとの要望を踏まえ見直す」と記している。つまり、韓国など外国籍を有したまま日本国籍も取得し、参政権を行使できるようにするというわけだ。
人権侵害救済機関の創設も盛り込まれている。内容は、「人権侵害の定義があいまい」「救済機関の権限が強大すぎる」として自民党の議論で承認されなかった法務省の人権擁護法案を「さらに過激にした」(百地章日大教授)ものだ。
また、福田康夫前首相が官房長官時代に進めようとして頓挫した靖国神社に代わる「国立追悼施設の建立」も主張する。自民党では「家族制度の根幹にかかわる」として慎重論が根強い選択的夫婦別姓の「早期実現」もうたっている。
さらに、教科書採択では「保護者や教員の意見が確実に反映されるよう、学校単位へと採択の範囲を段階的に移行する」としている。これは、傘下教員の意向で教科書を選定させるため、学校単位での採択制度を目指す日教組の方針とぴたりと重なる。
関連して「国籍選択制度の見直し」の項目をみると「重国籍を容認してほしいとの要望を踏まえ見直す」と記している。つまり、韓国など外国籍を有したまま日本国籍も取得し、参政権を行使できるようにするというわけだ。
なんじゃこりゃ
親のせいにするのではなく、
自分の子供に愛情も抱けない人は自分と親の関係を自分自身で問うてみるべき。
統計はとっていないが、犯罪者の多くは親からの愛情が少ないだろう
犯罪を犯してしまった当人がもちろん悪いのだが、その原因をつきつめていくと親から教育問題が非常に
大きな割合を持っているかもしれないという以下の意見に賛成
http://anond.hatelabo.jp/20090428113540
子供の教育について親たちは本気でグループディスカッションをすべきじゃないのか?
社会全体の問題や派遣社員やダガーナイフやオタクの問題ではないはずだ・・・・
若い先生なんて4月にあったときから生徒数人に「つきあって、メアド教えて、彼女いるの」の連発
むかしからこういうのあったけど、今の子は本気で異性としてみてる、学校によるが一番さかってるのが中2
まだ13歳だけどセックスの話しかしてないよ、まじめな子も携帯ですぐ情報回るみたいだし
で、中3はそれほどひどく誘惑してこないんだが、これは「もう経験してしまった」っていう落ち着きw
中1も付き合う付き合わないとかみんな言ってるけどセックス自体の話はあまり耳にしないね
とにかく生徒が盛ってる、止めようが無い、若い男がいたら先生だろうが宅配の人だろうが見境無い
今日も毎休み時間に若い先生に胸を押し付けにくる女子生徒の甘い声が響いてた、マジで毎休み時間来る
携帯が普及しはじめたころからマジでかわった、性に積極的過ぎる、じっさい経験しまくってる(相手は先輩とかが多い)
親は「成長してるけどまだ14とかだし、、」とか言うし、教育問題でもあまり取り上げられないけど
はっきりいってどうにかしないと教育にならない
体罰にある種の尊さみたいなものを求めていた時代だったので、そこを逆手にとって悪いことに利用しようとする輩は必ず出てくるんだよ。
そのヨットスクールは摘発されはしたんだけど、体罰容認派の文化人や政治家たちが持論を通すために事件を利用した。センセーショナルだったからね。単なる殺人事件が教育問題にまで結び付けられて、結果一部の層では体罰は必要悪だという声も出始めた。こうなってくると同じような私塾が今後現れ、仮に摘発されたとしても「社会が護ってくれる」とタカをくくって同じ悲劇を繰り返すに違いないんだよ。
「体罰は何が何でも厳禁」ってことにするとあんたみたいな被害者も出てくるのだろうけど、「体罰は尊い」という風潮になるとより多くの死者が出てくるんだよ。どっちがマシですか、となると、まぁ普通は前者だわ。残念だけどあきらめてくれ。恨むなら、そのヨットスクールだろうな。
まったく同感。体罰によって救われた人間ばかりがクローズアップされるっていうのも変だ。体罰がトラウマになってる奴だって居るだろうよ。
「どっちがマシか」って論理だよ。その昔、更生施設を自称した、とあるヨットスクールが親から委託された子供を秘密裏に殺害するビジネスを行っていたことがあった。(何かの福本マンガに出てきた「人間学園」みたいなもん)
体罰にある種の尊さみたいなものを求めていた時代だったので、そこを逆手にとって悪いことに利用しようとする輩は必ず出てくるんだよ。
そのヨットスクールは摘発されはしたんだけど、体罰容認派の文化人や政治家たちが持論を通すために事件を利用した。センセーショナルだったからね。単なる殺人事件が教育問題にまで結び付けられて、結果一部の層では体罰は必要悪だという声も出始めた。こうなってくると同じような私塾が今後現れ、仮に摘発されたとしても「社会が護ってくれる」とタカをくくって同じ悲劇を繰り返すに違いないんだよ。
「体罰は何が何でも厳禁」ってことにするとあんたみたいな被害者も出てくるのだろうけど、「体罰は尊い」という風潮になるとより多くの死者が出てくるんだよ。どっちがマシですか、となると、まぁ普通は前者だわ。残念だけどあきらめてくれ。恨むなら、そのヨットスクールだろうな。
>カブール(CNN)
>登校中の女学生の集団がバイクで接近してきた男2人に水鉄砲で酸をかけられ、
>少なくとも2人が失明した。軍報道官が明らかにした。
>事件では女学生4人が負傷し、病院で手当てを受けた。うち2人は既に退院し、
>男2人は現場から逃走した。
>今のところ犯行声明は出ていないが、カタールの衛星放送アルジャジーラは、
>イスラム原理主義勢力タリバーンの戦闘員による犯行の可能性を伝えた。
>カンダハル当局者は負傷者数を6人、うち1人が重傷と述べる一方、
>旧タリバーン政権時代(1996─2001年)には、女子の通学が禁止されていた。
>アルジャジーラによると、犯行に使用された酸は電池由来で、負傷者には姉妹も含まれていた。
通学どころか教育すら禁じていただろうというニュースへのツッコミは別にして、
こんな機会でないと書けない思い出話。
>アフガニスタン中部パルワン州で今月6日、民間ラジオ局の女性ディレクターが殺害された事件に対し 、
>ローラ・ブッシュ米大統領夫人は10日、犯行を非難する異例の声明を出した。
>同日までにイスラム原理主義勢力タリバーン系の武装勢力の関係者6人を逮捕した。
>ザキさんはラジオ局での仕事のほか、女子学校の経営や地方政治にも取り組んでいた。
>アフガンでは今月1日にも、女性ニュースキャスターが首都カブールの自宅で殺害されており、
>相次ぐ女性ジャーナリストへの攻撃に、国内外の報道関係者も危機感を募らせている。
>2007.06.11 Web posted at: 15:31 JST - CNN
当時、某×××Aのアフガニスタン支部で働いていた知人が、語ってくれたこと。
その招待リストの中に、当初はザキさんの名前もあったのだという。
ところが、日程直前になって、ザキさんの父親が×××A支部を訪ね、
娘の招待を取り消してくれと申し入れてきた。
その理由は「娘を日本にやったら、留守居の家族を殺すと脅迫を受けた」と言う。
どのような検討がされたか知らないが、結果として
そして
…………
…………
…………
なるほど、家族は殺さなれはしなかった。
全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育のスタートが1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。
うぃきぺでぃあによると、
1972年(昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS「報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。
1977年(昭和52年)??1978年(昭和53年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)
学習内容、授業時数の削減。
ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。
自社さ政権で社民が与党にいた間は日教組が与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年、週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。
1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党が政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?
未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。
小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとりは日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。
ただ70年代に日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党の責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。
↑に気になるコメントがあった。☆もいっぱいついてる。
どうして、批判されるべきことをうっかり「もう過ぎてしまった事」と言ってしまったり、そう言っているのを聞いてその人の「信用度がゼロ」になってしまったりするんだろう。なぜそういう齟齬が生まれるんだろう。元記事やコメントの内容とは無関係な疑問で恐縮だけれど。考えてみると、この齟齬の背後にはかなり普遍的な構造があるんじゃないだろうか。
あるひとつの現状に対して、様々な考え方がある。代表的なのが(だと私が思っているのが)次の4つだ:
乱暴に括ってしまうと、1と3は科学者の視点、2は実業家の視点、4は法律家の視点というイメージだろうか。
1と3は現象に注目している。2と4は人物に注目している。
もちろん、一人の人物の中に複数の視点が混じることもあるし、ある話題に対してある考え方をした人が他の話題に対しても同じ考え方をするとは限らない。
ただ、違う視点を持った人には同じ発言が違った意味で捉えられてしまいがちなので注意が必要。例えば、元記事を書いたnihenさんは1の視点に立っているから、「もう過ぎてしまった事」というのは「自分は過去よりも未来に興味があるぞ」という程度の意味でしかなかったはず。でも、それが4の視点に立つSnailさんにとっては「過去なんかどうでもいい」という意味になってしまった。
こういう風に、議論や意見の内容以前の「注目する対象」の段階でそもそも違っていて、その違いに無自覚なまま内容を論じているせいで話が噛み合わなかったり、お互いを意味もなく嫌ってしまったりしているのを見ると本当にもったいないなと思う。
界隈でたまに話題になる歴史問題とか女性問題とか労働問題とか教育問題とか、はっきりいって全部このパターンだよね。一番たちが悪いのは、視点の違いに何となく気づいているのに「自分の視点こそが絶対善、相手の視点は絶対悪」みたいなことを言い出してしまう人だけれど……
ヤバイ。官僚ヤバイ。まじでヤバイよ。マジヤバイ。
官僚ヤバイ。
まず叩かれる。もう叩かれるなんてもんじゃない。超叩かれる。
叩かれるとかいっても
とか、もう、そういうレベルじゃない。
何しろマスコミが叩く。スゲェ!報道の権利とかを超越してる。闇雲だし超叩く。叩かれまくり。深夜残業してタクシーに乗ったらビールをサービスでくれた、それだけで袋叩き。
確かにサービスっていったけど、タクシーに乗っている以上それは税金なわけで、ビールは税金の私的流用なのかもしれない。
でもじゃあ、そもそもタクシーに乗せんなよと。残業代も出ないんだから早く帰らせろと。
久々に早く帰れるなと思った夜十時、駅で酔っぱらいサラリーマンが解散しているわけですよ。得意げな顔して何が、おつかれさまでしたー、だ。
俺はもっと疲れてるんだよ。
残業対策で省内に仮眠施設を設けようとか、もう見てらんない。
だってIT企業のデスマーチ対策にマッサージチェアとか泣くっしょ。根本の原因はそうじゃないだろと問いつめたい。
おまけに市民まで叩く。ブロガーも叩きまくり。通報システムをゼロ億円で作ったとかで浮かれまくり。ゼロ億円で誰が責任持って運用するのかと。お前ら、官僚の仕事奪ったつもりになりたいだけちゃんかと。
そのわりに超国家依存体質。教育問題でも外交問題でも金融問題でも保険問題でも聞こえてくるのは「国がなんとかしろ」。あれこれ民間移管しようとすると怒る。でも選挙超いかない。ブログで吠えるだけ。
あと官僚はなんつっても超給料安い。受験勉強を必死で戦い抜いて、東大出なのに薄給。外資金融の同級生の十分の一。ヤバイ。
だから人材流出。日本は全然平気じゃない。叩かれるからって優秀な官僚がコンサルとかに転身して、また官僚主義を叩く。元官僚による官僚叩き本とか出まくり。お前らそれ読んで溜飲下げまくり。根本問題は無視されまくり。
レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大(だい)企(き)業(ぎょう)や官公庁(かんこうちょう)に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。
第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、四十代、五十代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁(ひんぱん)に起こっています。
現代の熾烈(しれつ)な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担(ふたん)となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望(のぞ)むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望(がんぼう)であり、もうひとつには地位が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬(うやま)われることなどが挙(あ)げられると思います。
もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合(てきごう)しない性格であったり、負担に堪(た)える人間的な能力がなければ、その人は苦痛(くつう)の毎日を送ることになるのです。
第二の点は、学歴(がくれき)至(し)上(じょう)主義(しゅぎ)がもたらす弊害(へいがい)と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼(おさな)いころから勉学に励(はげ)んできた努力によって、能力的に優(すぐ)れています。深い学識と幅(はば)広い教養による英知(えいち)はいずこの社会や職場にあっても、知的(ちてき)資源(しげん)、人的(じんてき)資材(しざい)として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入(はい)れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許(ゆる)される狭(せま)き門を目指(めざ)して、過酷(かこく)な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育(はぐく)むどころか、同級生を敵視(てきし)する状態(じょうたい)に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨(ひさん)な事件が相(あい)つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者(はいぼくしゃ)」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅(はめつ)になると考えるのは当然です。
まさに誤(あやま)った学歴偏重(へんちょう)の風潮(ふうちょう)が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅(ぞうふく)していくのです。
このような教育制度や教育行政(ぎょうせい)のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革(かいかく)しようとしても根本的な解決にはなりません。
なぜならば、教育問題は時代や社会機構(きこう)全体と深く関(かか)わっており、さらには人生観・価値(かち)観(かん)ともつながっている事柄(ことがら)だからです。
釈尊は現代を予言して、末法は五(ご)濁(じょく)の時代であると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂(くる)うことを指(さ)しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実の幸福は表面的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉(ふくし)につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々(ゆうゆう)と解決して乗り越えていくところにあります。
個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧(ちえ)をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽(つ)きるのです。
身につけた学識(がくしき)と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。
団塊の問題は、少なくとも団塊以外は団塊の価値観を理屈上は理解できる(感覚的には無理です)が、団塊は自分以外の価値観が存在すること自体を知らない、です。これってマーケッティングの宿命で、日本の業界は常に団塊世代をマーケット戰略の中核に据ゑてきた。たった3年間で1000万人近くゐるのですから、ここに焦点を合はせるのは利益を追求する企業なら当然です。だから、団塊はテレビを付けても見たい番組がある、町を歩けば欲しい商品がある、教育問題から始まり、住宅問題、年金問題と、政治家はいつでも自分達のライフサイクルに合った問題点を取り上げてくれる。一方、そこから外れると、テレビは面白くない。欲しい商品もない。政治家には声が伝はらない、となってしまふのです。
団塊の問題は、少なくとも団塊以外は団塊の価値観を理屈上は理解できる(感覚的には無理です)が、団塊は自分以外の価値観が存在すること自体を知らない、です。これってマーケッティングの宿命で、日本の業界は常に団塊世代をマーケット戰略の中核に据ゑてきた。たった3年間で1000万人近くゐるのですから、ここに焦点を合はせるのは利益を追求する企業なら当然です。だから、団塊はテレビを付けても見たい番組がある、町を歩けば欲しい商品がある、教育問題から始まり、住宅問題、年金問題と、政治家はいつでも自分達のライフサイクルに合った問題点を取り上げてくれる。一方、そこから外れると、テレビは面白くない。欲しい商品もない。政治家には声が伝はらない、となってしまふのです。
このひとたち一緒に仕事してた同僚がつい先日しんだばっかりなのになにやってるの?
いっそのこと国会は冷暖房とめていいとおもうよ。
じゃないとまじめに省エネなんて考えられないでしょ。
ワーキングプアが! なんていってるかと思うと、
おまえは家で寝てろっていいたくなる。
教育問題が! なんつったところで公立校の大半なんてクーラーねーのが現状だべ。
冷房を切れば必然と国会議員の歳食った重鎮連中は昇天していくし、いいことづくめじゃない?
前いた会社の役員連中がでぶっちょコンビで、午後からしかこないんだが奴等がくると会社が極寒の地になってたまらなかった。
夏場なのにジャンバーきてるんだぜ?
そりゃ女の子どんどんやめてくわな
政治がつまらなくなった。
これだけひどい格差社会が出現しているのに小泉を叩けないのは何故だろうか。
政治がわかりやすかったからだ。
よくもわるくも、小泉のやろうとしている方向性が見えた。
見えるのだと思い込めた。
例えそれが幻想だとしても、方向が見えればそれだけで政情が読めた気がしたものだ。
格差社会の出現はバブルが弾けたあとの清算として仕方がないと受け入れている。新しい安定したバブルを作り出すための下準備だ。そう思い込もうとしている。
だから小泉政治を評価している。
しかし、安倍政権はその方向が見えないのだ。
それでいて社会的な動きは何やら進めているふしもある。政治がつまらない。情報リテラシーという高度なスキルを持っていないと政治が理解できなくなってしまい、非常に信用できないのだな。
世情としては教育問題が活発化したように感じる。
しかし、国の美しさなんてこれっぽっちもわからないまま時代だけが進んでいく。ニュースもブログも何を語っているのかわからなくなった。
嗚呼、小泉時代が懐かしい……。