こういう性的対象を人間として扱わない下半身思想ってどこで養われるんだろうな。
最近はBingが人気だよ。
増田でも高音じゃなくて低音のボーカルが歌う邦楽バンドで何がお勧め~とか話してるところで
「高音だけど○○いいと思うよ」
そのたびに「ああ・・・本物のアスペってこういうのを言うんだろうな・・・」って思いにさせられる。
そこに悪意がないんだよな。
なんでそんなことするの?って聞いてもちゃんとした答えも返ってこない。
何を聞かれてるのかそもそも分からない感じ。
純粋に自分の良いと思ったのをお勧めしてるだけなのに何でそんなこと言われなきゃいけないの?と返ってくる。
絶望的に空気読めてないだけでマカーも悪気があるわけじゃないんだ。
ただ単に条件を当てはめて行動するってことが脳の構造的にできないだけなんだ。
そこに甘美な魅力があるからだ
それを社会的禁忌とすることで一部の特権階級だけが専有的に享楽に興じることができるのだ
くそう
うらやま、いや、けしからん
http://aoi-tomoyuki.hatenablog.com/entry/20120730/1343653428
ただの価値観の相違に過ぎない。
呼ばれたから答えるけど、こんな感じかな。発音できなきゃ聞き取れないということで発声法を述べます。
・ドイツ語→水に溺れかかった感じでいながらもハキハキ何かいえばOK。ちなみにイギリス英語やるときもこれ使う。モンティパイソンのジョン・クリーズがヒトラーのモノマネうまいのもこれな。
・フランス語→「ジャ」「ジュ」「ジョ」「シャ」「シュ」「ショ」を多めに交えつつ、鼻母音(鼻にかかった音)を適度に入れる。日本語と同じsyllable timed languageだから途切れ途切れ言う感じでOK。中級者以上はrの「喉のうがい音」もほどほどに入れるとなお良い。
・イタリア語→迷ったら全体的に舌をペロペロさせつつ最後の言葉を母音AかOで終わらせる頻度上げととけばOK。
・ロシア語→タルコフスキー一本見れば覚える。そこでため息をつきながらしゃべる感覚を身につければOK。ただ現代ロシア語で通用するかは不明な。
・スペイン語→イタリア語をベースに母音Uの割合を全体的に増やし、イントネーション若干あげて陽気な感じに。(自分はスペイン語苦手だから微妙かも)
・ポルトガル語→すまん。わからない。もっとボサノヴァ歌わないとな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/lnews/kanazawa/3025397471.html
記事では廃棄の際に相談もなかったとある。事前に話し合いができるような緊密な関係をお互いに築いておくべきだった。まだ寄贈者生きてるじゃねーか。
よくあるパターンだと、寄贈者亡くなってから奥さんや息子さんとうまくコミュニケーションとれないってのはあるけど。
寄贈者は普段からあまり図書館の人と緊密ではなかった? 普段からこの図書館利用してなかった? この辺りは廃棄されるされないを決めるうえで、地味に重要。
穴水町は小さい町(2016年4月で8809人、広報参照)で、この人口規模では司書は多分1人~2人。常勤のひとか、あるいは準職員で回しているのかも。そうなってくると、専門的な本かどうかの整理が追いつかない。
事務職員もすぐ異動する。耐震強度の問題などで、図書館の移居の事例もある。そうなると、蔵書が失われる可能性は十分にあった。
本当は職員がしっかり連絡などできればいいのだが、如上の理由では手が回らないことが多い。
図書を寄贈する際は、そういう事情を汲んだ上で寄贈しなくてはならないだろう。スペースあります? 整理ができますか? そもそもいりますか? ってあたり。
私も図書を地元の図書館に寄贈することがよくある。仕事上、大正末~昭和戦前期の地元に関する書籍が中心。まず自分で重複がないか調査して、そして受け入れ可能か司書に相談する。週1くらいで図書館を使っている。
司書さんと話していると、いらない本とか忙しい時期や作業が解ってくる。こんなの個人がすべて理解するべきとは思わないけど、文庫レベルで図書を寄贈するなら当然理解していないといけないと思う。
これは私にも言えることなのかもしれない。古本とか稀覯本の、そのものの価値に加えて、それを所持している自分・あるいはそれを知っている自分に価値を見出していませんか。
今回の事案、寄贈者は漆器研究の専門家ということで、彼の価値は、漆器にまつわる民俗学の専門性にある。研究自体もそうだが、彼の研究姿勢や系譜が解る図書群ならばまとめて寄贈してもいいと思う。
ただし今回の奥さんの蔵書はどうだろうか。寄贈者の専門性と照らし合わせて、あるいは研究者のバックグラウンドを考える上で重要だろうか? そのあたり、寄贈者や図書館は充分にお互いを理解しなくてはならなかった(こうやって増田で言うのは簡単だ。ちょっと無責任な放言だとは思うけど。)。
たまにtwitterとかのSNSを見ていると、「本をたくさん持つ自分」「知識の基をたくさん持つ自分」に酔ったような、「知」にあてられたような人間をよく見かける。
かつても、文芸者の飲み会などで、家にこんな本があるあんな本があると自慢合戦になることもあったから、昔からそうだ。
実際大事なことは、本を持っていることではなく、それを読んで研究した結果、社会や学説史にどういう貢献をしたかだろう。
そこを踏み誤ると、名前を冠した文庫が公的機関に存在することに、思いもよらない価値が含めてしまうことになる。
文庫は名誉なことだけど、名誉な業績があったからそうなるわけで、そうなったから名誉なわけではない。ここを踏み誤りがちだ。
踏み誤ると、妻の蔵書を寄贈、なんて発想が出てくる。