http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/lnews/kanazawa/3025397471.html
記事では廃棄の際に相談もなかったとある。事前に話し合いができるような緊密な関係をお互いに築いておくべきだった。まだ寄贈者生きてるじゃねーか。
よくあるパターンだと、寄贈者亡くなってから奥さんや息子さんとうまくコミュニケーションとれないってのはあるけど。
寄贈者は普段からあまり図書館の人と緊密ではなかった? 普段からこの図書館利用してなかった? この辺りは廃棄されるされないを決めるうえで、地味に重要。
穴水町は小さい町(2016年4月で8809人、広報参照)で、この人口規模では司書は多分1人~2人。常勤のひとか、あるいは準職員で回しているのかも。そうなってくると、専門的な本かどうかの整理が追いつかない。
事務職員もすぐ異動する。耐震強度の問題などで、図書館の移居の事例もある。そうなると、蔵書が失われる可能性は十分にあった。
本当は職員がしっかり連絡などできればいいのだが、如上の理由では手が回らないことが多い。
図書を寄贈する際は、そういう事情を汲んだ上で寄贈しなくてはならないだろう。スペースあります? 整理ができますか? そもそもいりますか? ってあたり。
私も図書を地元の図書館に寄贈することがよくある。仕事上、大正末~昭和戦前期の地元に関する書籍が中心。まず自分で重複がないか調査して、そして受け入れ可能か司書に相談する。週1くらいで図書館を使っている。
司書さんと話していると、いらない本とか忙しい時期や作業が解ってくる。こんなの個人がすべて理解するべきとは思わないけど、文庫レベルで図書を寄贈するなら当然理解していないといけないと思う。
これは私にも言えることなのかもしれない。古本とか稀覯本の、そのものの価値に加えて、それを所持している自分・あるいはそれを知っている自分に価値を見出していませんか。
今回の事案、寄贈者は漆器研究の専門家ということで、彼の価値は、漆器にまつわる民俗学の専門性にある。研究自体もそうだが、彼の研究姿勢や系譜が解る図書群ならばまとめて寄贈してもいいと思う。
ただし今回の奥さんの蔵書はどうだろうか。寄贈者の専門性と照らし合わせて、あるいは研究者のバックグラウンドを考える上で重要だろうか? そのあたり、寄贈者や図書館は充分にお互いを理解しなくてはならなかった(こうやって増田で言うのは簡単だ。ちょっと無責任な放言だとは思うけど。)。
たまにtwitterとかのSNSを見ていると、「本をたくさん持つ自分」「知識の基をたくさん持つ自分」に酔ったような、「知」にあてられたような人間をよく見かける。
かつても、文芸者の飲み会などで、家にこんな本があるあんな本があると自慢合戦になることもあったから、昔からそうだ。
実際大事なことは、本を持っていることではなく、それを読んで研究した結果、社会や学説史にどういう貢献をしたかだろう。
そこを踏み誤ると、名前を冠した文庫が公的機関に存在することに、思いもよらない価値が含めてしまうことになる。
文庫は名誉なことだけど、名誉な業績があったからそうなるわけで、そうなったから名誉なわけではない。ここを踏み誤りがちだ。
踏み誤ると、妻の蔵書を寄贈、なんて発想が出てくる。
ごちゃごちゃ言わんでよろしい。 「図書館いらなくね?」 「本いらなくね?」 に拍車がかかった事件。 それで済む。