と、思うじゃん?
でも実際に幸せで満ち足りてて将来にそこそこ展望がある人ってネットになんて書き込んでリア充確認なんてしねーから。
ずっとバカみたいに食べてたのでやってみることにした。
18時間ご飯を食べずに水だけで過ごすのが良いらしい。
普通に食べないでいるのではなく、「俺は断食をやっている」って意識したら
18時30分にご飯を食べたので12時30分まで我慢だ。
余裕なように思えて少し辛い。
でも久しぶりに軽い空腹感がある。
だけど、リアルの恋愛は、男は恋愛面倒くさいから、拒否る。セックスだけで手を打とうぜ、関係性だけは与えてやるよって。
それに気づいて、大学くらいからは、「セックス前提、関係性で恋愛」になる。白馬の王子様どうこうとこじらせてるブスは、フェミになったりして、日本の男をたたき出して、パリ症候群って奴になる。
何度も言うが、若い頃の「恋に恋する乙女」では、イケメンヤリチンしか好きになれない、当然ブスはイケメンヤリチンに相手されないから、そんな幻想もてなくて、理解できない。
あるJDからは、将来のことも考えて、セックスせにゃならん、男を捕まえないと路頭に迷うから、男がどんだけキモいと思っていても、やらなきゃいかん。「故意に恋する」ってこった。セックスさえすれば好きになれるし、十分楽しい。
だから、まともな、女に尽くすような、いわゆる恋愛したい童貞とかオタクには行くな。セックスやってやるよっていう雰囲気イケメンに池。理解できなきゃ、ブスの癖に婚期逃して、残りの人生地獄だぞ!!!
雰囲気イケメンは当然ヤリステだが。そのくらいで、飽きたら、尽くしてくれる童貞に乗り換えろ、外見関係なくセックスで人を好きになれるぞ。
つまんない記事の量産やめて
で、『世界が土曜の夜の夢なら』って本が目にとまった。あれ、これ聞いたことあるぞと。確か、マイルドヤンキー文化について書いてた奴だなーと。
で、そこでフト頭でつながった。「ヤンキーって、打ち込めることがないんじゃねーの?だから、打ち込めることがある俺みたいな奴には、彼等みたいな空っぽだから、女に走るみたいなのが理解できねーんじゃねーの?俺は忙しすぎてそういうの考えたり準備する余裕ねえなあ」
まあ、一瞬で考えたことだから、差別的な内容なんだけどさ。これ近からずもって感じじゃない?
俺みたいに、なんか専門で打ち込めてる奴って案外少ないんじゃないか。ましてヤンキーなら。
そういう奴らと俺との違いで、俺のほうが勝ってる部分で比較したら、そういう感じじゃねーの?って。
で、帰り道、まあ言い訳かもしれないけど、俺は打ち込めることがあるし、それで一生多分終わるけど。それができてるってだけで、満足して十分死ねるから、女にモテようなんて、ちょっと贅沢いいすぎなんだろうなと。
本当は、昔の豪農と奴隷みたいに。マイルドヤンキーみたいな低脳には農奴になってもらって、俺ら頭脳系は支配者になって悠々自適で馬鹿にしたいんだけど。そういう時代じゃないし、甘んじて死のう。
狭量にもほどがあるwww
自分が好きな相手が、自分が嫌いな対象を好きであってはならない、とか、どんだけわがままなんだよ。
あー、でも、そういう考え方をしていると、自分が不快なものは排除したい、っていう方向へ行っちゃうのかなー。
自由ってのは自分がわがままし放題という意味ではなくて、相手にも自由があるんだから尊重しましょうねー、ってことだろ。
割と納得しかけたけど、小学校や中学校のときから、恋愛に傾倒してる女の子は大勢いたよ。
本気で書いた奴なら、10に1つ。
応援するわ
はてぶで話題になってる、ゲームや漫画や、ジェンダーやら様々な政治問題についてあれこれ模索し、調べ、考え消費したいだろう。
目の前のこと片付けろ。惑わされるな。
まったく同意
確かにな。
でも難しいのが、このゲームを非難すると被害をこうむる女性はこのゲームの利用者で、どちらかと言えばマイノリティ。
男の性暴力系ゲームを非難している女性はこのゲームの利用者を気持ち悪いとしか見ていないんだと思ってる。
真っ当な性趣味を持ってる人は、異性の人間が創作物で倒錯した性趣味を満たす事より、同性のそれの方が理解するハードルが高そう。
山田詠美の「姫君」という短編集を読んでいた。私は山田詠美のファンなので楽しく読んだ。巻末に、「蛇にピアス」などで知られる作家、金原ひとみが解説を寄稿しているのだが、それを読んでひっくり返った。
完全に誤読してる。解釈とかそういう問題じゃない。基本的な国語の問題だ。
短編「フィエスタ」は、「欲望」が主役だ。「欲望」という感情が擬人化され、その一人称で、自分が宿っているブスな主人公の状況を愚痴ったり嘆いたりして話が進む。「欲望」は、主人公のことを「主人」とよんでいる。
主人公の名前は瞳である。私はこれを読み始めた瞬間、「醜いだと?」と思った。ごめんなさいね。名前というのはとても大きな力を持っていて、他人事をは思えなかったのです。瞳だからではないけれど、私はこの主人公が好きだ
主人公→瞳と言う名前→自分の名前と一緒。えっ、名前なんて出てきたっけ?と本編を見直してみた。やっぱり主人公は「主人」としか呼ばれていない。でもなぜ誤読したかは分かった。
主人の瞳がせかしている。(中略)瞳はもうルーペ状態になっている。男の姿は拡大されている
金原は「の」を同格の格助詞として読んでいるのだろう。つまり、主人(である)瞳(ちゃん)。
しかし文章からも分かるように、ここは主人が男に見惚れている比喩なのだ。だから、この「の」は所属の「の」だ。主人(のものである)瞳。
俺は、他人に期待するのはおかしいと思っている。同じ人間だからさ。
それに、たとえばプロのピアニストがいい演奏をしたからって、その人の人格がクソだったら、なんだいやだなとは俺はなりたくない。だって、そんな演奏のためにすべてをかけたなら、幼い性格とか、他が幼稚とか、あるいはまったく発達してないとか、普通にありそうだもん。
たとえば、居酒屋で出てきた枝豆。これのおいしさをもって、感謝する。
たとえば、工芸品、これを見て、『その人はこれを作った能力があるんだな』と感謝する。
この考え方は、別に俺が思いついたんじゃなくて、国語の問題で出てきた文章での考えを発展させたもの。
確か、人格のよさってのは、「その人が成し遂げたもの」って感じの。東大だったかな。そこらあたりの論説だったと思う。
で、他人に期待しすぎるのはよくない。ほどほどでいい。
中身がいいとか、性格がいいとか関係無い、1つだけ、その人が誇れることがあったり。ってか、生きてるだけでいい。
ヒーラ細胞っていう、特殊なガン細胞があって。これ無限に増殖できるんだけどさ。これをもってた人は普通の人だけど、このヒーラ細胞のおかげで、世界中の研究がむちゃくちゃ進んでる。ただ生きただけの人がこれだけ貢献できる。努力も人間性も関係無い。
こういうのあるし。たとえば血管の走行なんて、一人ひとり違うし、そういう超絶ミクロな奇形も含めれば、個性の無い人はいない。ただ、それを分かりやすい人間に蝕知できるレベルで説明はされていない。
そんな感じで、一人ひとりに尊敬すべきところあるし。アル中でDVしてるやつでも、秋葉原で車で突っ込んだ加藤君も、皆皆いい人だと思ってる。
正確には、その個人には期待してないが、それぞれが生きてるだけで、いいよねって思っている。