基本受け身で育った私は、自分に自信のある男が寄ってくるらしく、よくアプローチを受ける。
男性はフツメンからいわゆるオタクっぽい人が多くて、割とプライドが高めだ。地味で目立たないようにしているので特にイケメンとかテンションが高い人は寄ってこないみたい。ただ単に容姿が残念なのもあるかもしれない。
アプローチを受けるとほとんど受け身で人見知りなので誘いを断れない。とりあえずデートに行って連絡は自然消滅を狙う。
こっぴどく拒否したことがないし、とりあえず迎合するので他人からは優しいと言われるが、本当は優しくなんてない。
じゃあなぜ断らないのって親友から言われるけど、アプローチをされること自体が承認欲求につながっているらしく、特に嫌な気分ではないからだと説明してるし、実際そうだと思う。
一方で、断らないし拒絶しないことをいいことに全く恋愛したことのないような人もアプローチしてくる。彼らは恋愛したことがないことがコンプレックスであり、その分プライドも高いためなるべく優しい?人を狙うようだ。
つまり私はノーリスクで恋愛にチャレンジできる異性という立ち位置らしい。
優しいというより都合の良い女に近いのかもしれない。
追い詰めれば、次は戦争でしょう。
(建前上は)非武装中立な国の実例
なお軍を持たない国なら他にもあるが、いずれも中立ではないし、警察に軍隊に準じた武装を持たせてたりする。(日本もその一例)
アメなんて大嫌い
こないだテレビで「サマーウォーズ」を初めて観て、大学で偶然知り合った腹違いの妹に家族との夕食に誘われたら、そこのちょっと認知症入ってる婆さんが孫娘が婚約者を連れてきたと思い込んで大層喜んでしまい、場を荒立てないために俺と妹家族全員で話を合わせる羽目になったのをなんとなく思い出した。
ギリシャの生活保護のおっさんが金引き出せなくて嘆いてるなんて話あるけど。
極端な話、社会というのは全体の幸福を押し上げるための装置であって、個々人の幸福を実現する装置ではないんだよね。
だから、個々人が不幸にならないためには個々人の不断の努力が欠かせないし、生まれた瞬間から努力しても幸せに辿りつけない可能性もある。
社会はその生まれた瞬間から不幸ルートが確定してる人間に対して幸福を実現させる必要もないし、その悲しみに対して何か補填する必要もない。
アレは、自己責任だ。
いやいやいや、確かに映像としての情報量は多いよ。でもセリフとして陽に語られる情報は小説に比べてはるかに少ないだろ(良い作品の多くは)。映像的な情報、つまり場面がどこで、そこには誰がいて、どういう恰好をしていて、といった情報は見ればわかるんだから想像力は必要でないけれど、描写されない場面で何が起きてたかを知るのは想像力必要だろ。うまい映像作品っていうのは何を写すか以上に何を写さないか=どこを想像力に委ねるか、がうまいわけで。
小説原作の映像化の場合、小説では想像力に委ねられていた部分が映像で明示されるのと、小説で明示されてた心情やエピソードが映像では想像力に委ねられるのと、両方起きる。しかし小説既読者にとって後者は既知の情報なので、前者の効果だけ見えてトータルで想像部分が減ってるように思える、ってことじゃないかなあ。それでもうまい映像化は、後者の部分で原作小説の解釈にも新しい見方を与えてくれたりすると思うけどね。
小説が読めない人がいるように、映像作品の「描かれない部分」を解釈できない人も、わりとたくさんいる。セリフで全部説明するドラマが氾濫してるのはそのせいだろう。それでも、エンターテインメントの良作は、裏の意味が読めない人にも適度に視覚的な楽しみを与えつつ、理解できる人にはさらに大きな物語を見せるってことをやってるよ。
なぜ、徴兵されるのが嫌なのか。その理由を忘れてると「無条件降伏すればよい」という考えになる。
無条件降伏したら、どういうことになるのか。
徴兵されて、戦って死ぬのと、敗戦国国民であることを理由に処刑されるのと、どっちが嫌かってことな。