増田にも、
ある程度多くの人に読んでもらうつもりで書く場合とがあるけど、
自分の場合、多くの人に読んでもらうつもりで書いた直近5本の記事は、
ブクマ数10から50が4本、ブクマ数51から100が1本だった。
1ブクマもつかない、というようなハズレ記事がない点には満足してる一方で、やや火力が足りないかな、という気もしている。
目安にしたいので、他の人たちはどんな感じなのか、よければ教えてほしい。
アクビ!ふざけてる。そんな集中力がない状態で至高のネタなんて探せるわけない。
オカズを探す時はね、何にも邪魔されず自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ 独りで静かで豊かで・・・
睡眠欲なんかに邪魔された時点でケチがついたから、今日は風呂入って寝ることにする。
エロに対して真摯に向き合うことができないのであれば男じゃない。
ギラギラしてたあの頃。
それが今は暑いというだけで一日1回のオナニーすらままならない。
もう俺はダメなのかもしれない。
一度原点に立ち返って自分を見つめなおすんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20140727213206
http://anond.hatelabo.jp/20140727213425
ただの連投なら分かるけどなんで2分もズレてるん?
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追記
後の方が消えてた。
ん?そんな法律何処にもないが?
苗字は慣習的にそうかもしれんが、それはたとえ夫婦別姓とかにした所で何も変わらん。
相手にペコペコなんてのは男も女もするやつはするししないところはしないし。
実家に疎遠、って、嫁入りして2世帯住宅に住んでるとかでない限り、
むしろ子供が小さい頃なんかは母方の実家にお世話になることが多いのが普通だと思うが?
何が言いたいのお前は?
「あなたは寂しくないの?」という質問を投げかけられ、「私は寂しがりやに見えるのか?」とずっと疑問に思っていたんだけど、結論が出た。
「私は寂しがりやではない。なぜなら、誰かで自分の寂しさを埋められると思わないから。そこまで他人に期待をするのがおこがましいから。」である。
自分の寂しさは、自分でしか埋められないのである。他人で自分の寂しさが埋められると思ったら大間違いだ。
上っ面の寂しがりやは、他人で自分の寂しさが埋められると思っている。例えば、自分の好きな人が淋しい時に、側にいれば、自分の寂しさがなくなると思っているのだ。だから、そういう人こそ、寂しがりやではないのだ。だって、自分をそっちのけにしても、他人といることを選べるのだから。
私は、自分が幸せじゃないと、周りも不幸だと思ってしまう人間なのだ。
それは、好きな人と一緒にいても同じ話なのだ。分かり合えるといっても、それはホントウのホントウなの?と思うところがあるのです。
寂しさには、色々な種類があると思う。凸と凹のように。
寂しがりやだという人達は、お互いの凸凹が噛み合っていなくても、「私もそういう時に助けてね」と言う考えがあるから、お互いに優しくなれるのだ。
私は、そういう時に、優しくなれない人間だ。
「自分の孤独に勝てなくて、他人の孤独を親切ぶって癒やそうなんておこがましい」と思うのだ。
もっと強く言うと、「自分の傷をなめて欲しくて、他人の孤独にたかるなんてもってのほか」と思っている。
これは、少女時代の経験によるものが多いんだけど、私は周りの女の子の達の「トイレに一緒に行こう」という流れが大嫌いだった。
「私も一緒に来てほしいから、誰かのトイレに付き合う」ということだ。
自分の寂しさを埋めるために、他人の孤独を利用することなんて出来ない。私は、私の孤独に向かい合うしかないのだ。誰がなんと言おうとも。
そういう付き合いをしておかないと、修学旅行の時にハミゴになったりする。そういう将来を計算して、「一緒にトイレにいこう」になるのは、大嫌いだ。
傷を舐め合うなんて、まっぴらごめんだ。ビジネスがうまくいかない人達が集まって、自分たちの中で回していこうなんて、無駄だと思っている。
とりあえずおまいさんは問題提起したいならまず知識をつけよう、な
はてブコメントを、ブログのコメント欄やTwitterのツイートと同じようなもんと思ってるなら、同じようなもんとして扱えばいいじゃん。価値ないと思ったらスルーして、言及したいものがあったらブログに俎上に上げてIDコールして言及すればいい。ぐちぐちブコメだけ気にするのが意味わからん
おめでとう、次に進むといいな。
バカなのか?
どちらが優位だとか言ってないだろ。
お前が言う「理系なんて少し便利にするだけ」ということに対して、
じゃあその少しを外してみたら、と言っただけ。
でもそれ、単にペーパーテストでバカ度を図るのと何も変わらないよね?
んで、診断したところでどうにもならんよね?
エビデンスの意味ワカって使ってる?なんで「エビデンス」なの?日本語でおk,なんだけど。
そもそも医師の所に来る時点でかなりバイアスかかった集団だわね?
それが現在医療の現場での「ベストストラテジー」って誰が決めたの?
病気の説明をすることは医者としての大きな役割の1つだと思うが。
精神病患者はバカだからはなししても無駄、と決めつけているというならあれだが。
ちょっと違うと思う。
彼女の件は「ムキになって」で出来るようなレベルのシロモノとはちょっと違う。
ベルのシェーンの件もそうだけど、決して「ムキになって」捏造を繰り返したわけじゃない。
最初は研究を行ってる中で、少し手を加えるとより良い結果が見えることに気づいて、少しだけ手を加えて報告を行った。
それがうまく言って評価につながり、教授陣はその結果を元にした新たな結果を求めてくる。
この時、まだ本人は手を加えたと言ってもその先少し頑張ればその結果は得られるものだと思っているしそこまで罪悪感が無い。
が、それを繰り返していくと、徐々に手におえないほど、恣意的な捏造を行わないと矛盾が出てきてしまうことがある。
この時、もしかすると本人は手を加えること自体を「悪」とは思ってないかもしれない。
あるいは小さな捏造を繰り返していくうちに麻痺していくのかもしれない。
いずれにしろ、大きな結果になっていくに従い、結果を疑うものは当然増え(それはどんなものでも同じ。たとえ今では本当に凄い大発見と確定しているものでも)、
大きな目に触れることでバレる。
実はその時点まで、「勘違いや間違いだろ」等と強く責められる事はない。
勿論、研究者同士での議論で、結果について文句を付けられることはあるが、これも上で述べたのと同様、研究界ではアタリマエのこと。
論文がはじかれる、なんてこともNatureレベルなら別に恥ずべきことでも何でもない。
つまりは「ムキになって」と言うことになるシチュエーションすら無く、単に小さな嘘の積み重ねの結果、
で、実際の所、そういうことは研究の世界とか関係なく何処にでもある話。
その嘘の積み重ねがあまりにうまく行きすぎて、また、あまりに大きくなりすぎた例が今回の彼女の件、というだけ。
小さな嘘の積み重ねなら誰でもしたことがあるだろう。
研究なんかの世界でそんなコトしたらバレるに決まってるし、いずれにしろ先は無い
(研究としてそれ以上発展のさせようが無いから定年間際でどうしたって功績が欲しい人以外はやらない。
先日、電撃大賞の一次結果が発表された。
嬉しいことに、その中に名前があった。いつもなら憂鬱な週末も今週ばかりは鼻歌交じりだ。こうやって危険な文章だって書いてしまう。
年に一作小説を書き、それを電撃大賞に応募する。これは私の趣味だ。1年かけて1作を書く。職業作家ではこうはいかないだろう、と思う。始めて応募したときは院試の最中に逃げるように書いた小説だった。当時ある電撃文庫の一冊に影響されて、あこがれだけが動機だった。せっかくなので応募し、院試の結果よりも気になったのを覚えている。それから数年、十数年。毎年毎年ひとつかいては応募する、を繰り返している。不思議なことに、複数完成させ、その中から選ぶ、ということはない。書き上げられるのはひとつだけだ。
数年来使っているペンネームと、愛着のあるタイトルが並んで表記された結果が誇らしい。私はまずタイトルありきだ。書きたい場面を思いつき、そこからタイトルを考える。タイトルがきまった手ごたえがあると、ソリティアが終わったかのように最初から最後まですべて決まる。この瞬間はいつだった身震いする。あとは梗概を完成させ、必要な資料をそろえて、読み込み、最終原稿を書くだけだ。これは6年間(というか最後の半年)で培った論文でっち上げの技術だと思う。先生、あの時の経験は今に生きています。
5000を超える応募作が半年もたたずに1割になる。そのからさらに減らされていき、受賞作が決まる。どこまで行けるかわからない。この楽しみは別格だ。今、日本でこれを感じているのは600人たらずだと思うと、全員と酒を飲みたい気持ちが湧いてくる。
増田と言えば。先日「猫の地球儀」を引用したそれがあった。前述の電撃文庫の一冊は「EGコンバット」だ。不思議な縁を感じる。