はてなキーワード: 宇野氏とは
宇野氏のアンチが過去ログを引き合いに出して宇野氏を叩いてるが、
いやいや、宇野氏の善良な市民時代って十年以上も前やん。古い証文にもほどがある。
宇野氏は00年代末期から10年代前半にかけて、けいおんやAKBを好きになって変節したんだよ。
人は変わるんだよ。アンチは人が変わることや成長することを許さない人達ですか?
宇野氏の芸は、学識や教養を以ってオタクを類型化し、その正体を看破する知的な芸であり、
カジサックのように特定個人の外見や仕草を笑うようないじめ芸ではないし、
はあちゅうの童貞いじりのようなクリエイティビティの欠片もない素人芸でもない。
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2007年7月には宇野さんの本領が発揮されたと言っていい「老害化が進むオタク論壇の憂鬱」という記事をサイゾーにて執筆します。あらゆるオタク系評論家、批評家、ライターをブッタ斬るという挑発的な内容が業界人の間で話題に。
「藤津亮太の、毒にも薬にもならないちょうちん記事で、満足できる人っている?」
「ロック中年慰撫アニメ『エウレカセブン』。売れてないけど、大塚ギチや宮昌太郎に無理やり褒められています。」
「筆者に対して、元長柾木などのセカイ系エロゲー作家たちはブログで怒り狂っている。みっともない連中だ。」
批判された人たちはあまりに図星だったのか、mixiでこそこそと慰めあいます。
230 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2007/07/22(日) 10:36:43 ID:WbZ+FBXA
・中年ロックオヤジ(笑)おもわず大塚○チにメールしちゃった、
「俺達は中年ロックオヤジだってさwwwww」。いいね、中年ロックオヤジ(笑)
・コン○ニューと○トナアニメの仲が悪いってさあ~、俺オトナアニメの
ラノベ評論家のタニグチリウイチさんにも「もはや営業妨害に近い」と言われます。ついに宇野さんの芸風が認められました。良かったですね、宇野さん。
その後、宇野さんは順調に「ゼロ年代の想像力」の連載で2ちゃんねるやはてなダイアリーにおいて賛否両論を巻き起こし続けます。批判対象の東浩紀とも急接近し、一緒にお酒を飲んだりラジオをやったりします。東さんは「下の世代からこういう人が出てきて嬉しい」「ポジション的に応援したい」と好意的で宇野さんも「どちらかと言ったら僕は東派なんですよね」と転向宣言とも取れる発言。ギャラリーから「なに仲良くなってんの?」と呆れられます。
しかし、2008年4月。つまり今ですね。宇野さんの「“ナンパ師”でも“ギャルゲーマー”でもない、第三の道を!――『小さな成熟』をめぐって」を発表します。それに対して東さんはブログでこういう風に反応します。
・批評や現代思想の読者の中心が性愛コンプレックスで動員されている連中だ、という状況認識がおかしい。
ここにきてまた東VS宇野の対立が強くなってきました! 今後、この構造はどうなっていくんでしょうか? 非常に楽しみです。個人的には宇野さんと同年代でまったく正反対の「生きる『動物化するポストモダン』」とまで言われる佐藤心さん(現在行方不明)と対決すると面白いんじゃないかなぁ、と思うのですが……。佐藤さんのカムバックはないんですかね。
千葉市長はバカフェミを今までもたくさん見てきてウンザリしてるわけですよ。
そんで「まーたバカフェミか」と、バカフェミカテゴリに放り込んで同じ対応をしてるだけです。個人として見てないと思うんだよね。
インタビューへの回答も含めて考えると、千葉市長の「あなたは普通ではない」発言は、バカフェミ界隈全体に対するものと捕らえるのが妥当でしょう。
バカフェミへの辟易・不信の現れです。バカフェミ界隈は自己批判と反省が必要ってことですよ。バカだから自覚も反省もしないだろうけどね。
あなたは1:1かも知れないが、こっちは市長1:千葉市民96万なんだよ。お前のバカ意見を聞いて96万人を蔑ろにできるわけねーだろ。
http://anond.hatelabo.jp/20120106102638
物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと
独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。
宇野氏が語ることを許されて、老人たちは語ることを許されないの?
宇野氏の妄想も偏った体験とセンスでしかなくて、全く根拠が無いわけじゃん。
閉じたコミュニティからの偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。
正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。
ポモコミュニティってホント閉鎖的で独善的だよね。自分のコミュニティを正当化するために必死過ぎ。
って言わせたいだけの釣りか。
ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/237067
この人達勘違いしてるよ。宇野氏はポストモダニスト。歴史実証主義への深刻な懐疑が
思想形成の根底にある。
何故彼がこんな挑発的な主張をしたかといったら、歴史実証主義が現代ではもう「無力」だからだよね。
ポストモダン・フェミニストの上野千鶴子は、従軍慰安婦・南京大虐殺論争に加わった時、
なんとウヨク修正主義者を実証的に批判する吉見義明らを批判した。
上野曰く「南京大虐殺はなかった」と主張するウヨクも、あったとするサヨクも、実証主義を使って
そんな土俵でウヨク批判に実証主義者は無力すぎる。それを第三者が見たら、
「ウヨクもサヨクも同様に確からしくない」という印象を持つでしょう。
重要なのは、過去を生きた人の身になって想像しようとする気持ちと、物言わぬ「痕跡」の声に
戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、
宇野氏も70~90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。
ARBを聴いて「いかにもな90年代Jロック」「いかにもな「虚構の時代(by大澤真幸)」のロック」と感じた
彼の感想は、1個の体験的事実であって、この印象を他人が抹消することはできない。
物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと
独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。
個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう。
相対主義の世界で、ロックやアニメといった個々のコミュニティを正当化せずに、
色んなコミュニティを見て周り、その上でニュートラルであろうとする誠実な意思が必要でしょう。
閉じたコミュニティからの偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。
正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。
ももクロは今より売れる可能性はあっても、アイドルにおいて覇権を握る、今で言うAKBのポジションに着くことは到底有り得ない。その理由を記述する。
(1)ファンが批評系
もう、これでここで言いたいことの8割は言ったのだが、今のところ”ファン”を自称する人間のその多くが批評的な人間であるということだ。
AKBもかつてはサブカルだった。どサブカルだった。秋葉原に劇場を持ち毎日公演を行い、謎の選挙システムを有する。いかにもである。しかし、このAKBの流れを汲み取り切れなかったのが2000年代後半のサブカルチャー批評だった。かつて文芸批評家の宇野常寛氏は、ニコ生の番組において「2011年に入るまでAKBに注目できなかったのは失態」と語ったことがある。
AKBは上記にあるように、サブカルを代表させるにはうってつけのシステムを持っていた。これを批評的に分析できたとしたら、どれだけ楽しかったことか。そして今の流行を先見の明を持って解き明かせたら、どれだけどや顔できたことか。しかし、その間もなくAKBはサブカルとは呼べないレベルの現象になってしまった。
今更AKBを語るのは、サブカル的には”カッコ悪い”。(前述の宇野氏は、現在ではAKBの批評的分析を、同じく批評家の濱野智史氏と共に行なっている。このあたりは、ポップカルチャーを批評対象とする宇野氏のスタンスに適っている。)
しかし、AKBには一個弱点がある。それはデカくなりすぎたことだ。デカくなればそれの粗探しも容易である。後は、「じゃあ何だったらいいんだよ」と返されたときに持ちだしてこれるモノがあれば良い。
ももクロ以外のモノではダメな理由がある。それは、現在ももクロ以外の各レーベルが売り出すアイドルグループは、方法論やコンセプトがあまりに凡庸、古典的なのだ。
「◯万人の中から選ばれた◯名」「毎日長時間のレッスンを重ね、△△より上手い、歌とダンス」
こんな売り文句に飛びつけるわけがない。
そして、ももクロでなければならない理由もある。
そもそも、AKBのコンセプトとは何だったか。それは「会いに行けるアイドル」である。
対してももクロのコンセプトは。そう、「いま、会いに行けるアイドル」である。
ももクロの結成は2008年。この時、既にAKBは前年に紅白出場を達成、またCDの販売方法が独禁法に触れる恐れがあるとして販売中止、回収騒ぎになった年でもある。
当然ももクロ側にも、メジャー化して「会いに行ける」というコンセプトの維持が難しくなったAKBへの対抗意識があったことは間違いない。
この、売り出し側の「アンチ・AKB」的方法と、買い手側の「アンチ・AKB」的精神の癒着により、現在のももクロ人気は成立している。
そして、この一点のみで自称ももクロ”ファン”は、ももクロ”ファン”を公言している。AKBによって市場規模の大きくなった「アイドル業界」において、敢えての選択としてAKBではないグループを応援するという、サブカル的精神にとって心地よい味を提供してくれるのがももクロというわけである。
そして、この手の”ファン”は、小規模な経済活動である間は良いが、規模の拡大に寄与しない(大量購入などのオタク的消費は行わず、あくまで必要最低限のモノしか買わない)うえに、そもそも規模が拡大していくことを嫌う。
小規模の間は、勝手に”ファン”がももクロのいちいちの行為について言説的補強を行なってくれるので、界隈の巻き込み力がある。しかし、その界隈も一定数を超えると限界が出る。しかもオタク的消費を好まないから、数の飽和イコール売上の飽和ともなる。(ここでは、大量に購入させるような商法(いわゆるAKB商法)が倫理的にどうであるかとの問については答えない。簡単に私見を述べれば、独禁法に触れるようなもの、つまり付録のバリエーションを増やし購買意欲を煽るようなものは問題であると思うが、握手券や投票権を求める購買行動については売り手側の責任は無いと思われる。)
以上が、批評系”ファン”が多数を占めることによる弊害と言える。
(2)可愛くもないし、一生懸命でもない
というのは流石に言いすぎだが、他と比べてそこが際立つわけではないということである。
よく、”ファン”はこの2点を強調する。そして、「だからこそAKBより良いのだ」という。
ただ、言いたいことはわかる。
例えばAKBのファンも「◯◯が可愛い」と言う。この◯◯には、例えば高橋みなみとかが入るわけだが、はっきり言って可愛くはない。「前田敦子が1位である意味が分からない」という声もある。
こういう場合、その対象がAKBであろうとももクロだろうとなんだろうと、ファンたち何も容姿の美しさ単体で「可愛い」という形容詞を付けているわけではない。そこには、それぞれ固有の物語、コンテクストを見出して「可愛い」と言っている。それがAKBで言えば、「エケペディア」に象徴されるデータベースから個人個人のエピソードを上手く消費するという行為であって、そしてそのパブリックなコンテクストに加えて握手会というプライベートなコンテクストを加えることで、ファンのメンバーに対する<愛>は蓄積される。
だから、オタク層以外には「AKBで前田敦子が1位である理由」なんて分かるはずがない。というか必要がない。そのコンテクストを共有していない人間に理解される必要などないからだ。
貴方達は皆、ミス・ユニバースの選考に100%納得しているのか。ミス・ユニバースは、ミス・ユニバース内部のコンセプトに基づいてミス・ユニバースを決定するのである。そこにおいて、容姿というのは評価の1項目に過ぎない。その点を理解している人間がどれだけいるか。
この理解で言えば、「ももクロのメンバーが可愛い」というのも同じ文脈で捉えることは可能である。しかし、ここに一点だけ差異がある。
前田敦子が可愛くないとみんなは言う。なるほど、確かに私もそう思う。(ただ、たまに奇跡的な瞬間があることも知っている)
では、テレビでそれを言ったらどうなるだろうか。本人の目の前で「可愛くないねー」と前田敦子に言ったらどうなるだろうか。Mステでタモさんが前田敦子に「顔のパーツ中心に寄ってるよね」と言った時のスタジオの空気を知らないのか。
著名人のAKBに関する批判的コメントは多数ある。ただし当人がいない所で、である。このことが結構大事であって、それは「そんなに可愛くなくても可愛いものとして扱われること」が究極的なアイドル性だと考えるからだ。
前田敦子はその点で究極的である。一方でコンテクストを持つオタク達による支持を受けAKBのトップとして君臨し、もう一方ではそのコンテクストを持たない一般メディアにおいて「AKBのトップ」であるということを理由に支持される。この時、両者は同じように前田敦子に接しているように見えるが、その内実は異なる。
前者は本当に可愛いと思っており(何故ならコンテクストがあるから)、後者は可愛いことになってるから可愛いとしているだけである。(何故ならコンテクストがないから)
そしてその内に、そのコンテクストを持たない者の間にも「可愛い」という意識は一部に伝染する。あくまでも一部ではある。板野友美が女子高生に人気があるというのが都市伝説かどうかは、私には接点が無い存在である故確認できないが、そういう可能性がありうるのがこのような状況である。
可愛い人に可愛いというのは当たり前だし、ブスにブスというのも当然である。そこを転倒させることができてこそ、真のアイドルではないのか。(筒井康隆「薬菜飯店」収録の「イチゴの日」という短編を見よ)
翻ってももクロを鑑みるに、この点が厳しい。コンテクストを共有する者の間で「可愛い」は流通するかもしれないが、コンテクスト外のメディアにおいては厳しい。(「ゴッドタン」をはじめとするバラエティ番組での扱いが顕著である。ただし自らの冠番組においてMCの芸人にどう弄られようと、それはファンにのみ流通するパブリックなコンテクストを補強するイベントに過ぎないので全く問題はない。)
つまり、ももクロはアイドル性を保つのが困難なほどバラエティ性を現時点で持ってしまっているので、コンテクストを持たない者に「可愛い」が流通しにくい状態となっている。
だから「可愛い」と認識させるためにはコンテクストを持たなければならないわけだが、ここでももクロ”ファン”が批評系であることが弊害になる。
彼らは口うるさい。見る前からあれがいい、これがいいとこれ見よがしに自らの批評眼をアピールする。そしておそらく、この手のももクロ”ファン”はAKBオタクなどよりも、音楽偏差値(というものがあれば)は高いし、現代思想にも詳しく普通の意味での偏差値も平均すると高い。
皮肉にも、このことがももクロを好きと公言するのに、もしくは積極的に見ようとする心に障害となる。
彼らは知りすぎている。目が肥えている。そんな彼らが「良い」と言うのだから、「良い」に違いない。しかし見てもよくわからない。可愛いような気はしないし、踊りもなんだか凄いがとりあえず可愛くはない。けど「良い」らしい。なぜ僕はわからないのか。
対してAKBはどうか。オタクはキモい。なんかオタ芸してるし、CDはめっちゃ買うし。だからあんなものを理解しなくて構わない。仮に少しでも引っかかることがあれば、とりあえずそのままその波に飲まれてしまえばいい。どうせ彼らオタクは周りに新しいファンが増えようがどうでもいい。どうせならもっと売れなくなればチケットも取りやすいのにくらい思ってる。
私は、このコントラストが大雑把にはあると思われる。そしてこのことが、「可愛い」というお札が流通しない/する要因となっている。
もう一つ、「一生懸命」について言えば、この言葉はかなり頻繁にももクロを持ち上げるものとして使われるが、端的に言おう。
そんなのみんな頑張っている。ただそれだけだ。
ダンスや歌のレッスンは、皆どのアイドルグループも一生懸命やっているのだ。所詮、「アイドルなのに顔芸をやる」という点においてのみ「一生懸命の差異」を見出してるにすぎない。
私がここで「自称」とか「ファン」を” ”で括るのは、彼らが本心からの好意ではなく、「AKBというサブカルの隆盛を見抜くことができなかったコンプレックスの解消手段」としてももクロを利用しているように見えるからである。
結局のところ、ももクロを今以上に流行らせ、AKBに取って代わりたいのであれば、自称ももクロ”ファン”達がそれを名乗るのを辞める他ない。
早見あかり頑張れ。