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2011-09-02

おっとい嫁じょ事件の舞台鹿児島県肝属郡串良町(現 鹿児島県鹿屋市)

おっとい嫁じょとはいわゆる略奪婚の慣習であり、「婚姻同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する」習慣のこと。

なぜか都市伝説扱いされることもあるが、実在した風習であり、昭和34年(1959年)に強姦致傷で男性逮捕、有罪となったことから全国的に有名になった。

事件を契機に、おっとい嫁じょの習慣の存在、村を挙げて男性無罪にすべく署名が集められたこと、弁護人違法性の認識を欠き無罪である旨主張したことなどが大きく新聞等で報道されたためである

昭和34年というと大昔のように思う人もいるかと思うが、同風習が昭和34年に廃れたとしても、これににより夫婦となった者はいまだ十分存命であると考えられる(若ければ70程度か)。

両親がおっとい嫁じょにより結ばれたという人も、50代40代にはいることだろう。

判旨を引用する。太線、■は増田鹿児島地判昭和34年6月19日。

       主   文

 被告人懲役三年に処する。

 未決勾留日数中三十日を右本刑に算入する。

 訴訟費用は全部被告人負担とする。

       理   由

(罪となるべき事実

 被告人は、昭和三十四年一月十五日頃、その義兄である■■■から早く婚姻するように勧められたので、被告人もその気になつて南に年頃の娘の紹介を依頼したところ、南の計らいで同月十九日鹿児島県肝属郡串良町細山田■千■百■十番地乙野次郎方において、同人の長女A子(当二十年)と会う機会を得たが、被告人は忽ち同女に想いを寄せるに至り、その場で同女に婚姻の申込をなしその後二回にわたつて同じ申込を繰り返えしたが、同月三十日には同女の兄B男を通じて右申込を拒絶された。然し、被告人はどうしても同女との婚姻を断念できないので、同女を強いて姦淫したうえ同女をして止むなく婚姻同意させようと考え、同年二月五日■方において■、ならびに■■こと■■■■■と相談の末、翌六日同女が鹿屋市所在鹿屋職業安定所に行くのでその帰途を三名で待伏せて無理にでもハイヤーに乗せてどこかに連れて行き、更に婚姻同意を求め、それでも応じないときは夜になつてどこか知人の家に連行し、被告人において同女を強いて姦淫することに計画を決め、翌六日午後零時過ぎ頃、被告人等三名は前記安定所附近において同女を待伏せ、同女を附近の食堂に連れ込んだうえ、再び婚姻同意するように説得したが、同女に拒絶されたので、ここに、被告人等三名は前記計画を実行に移すべく意思を通じ、同日午後三時頃同市向江町■■医院路上において被告人は前方より同女の手を引き、■、■■■等は後方より同女を押す等して同女を無理に前もつて被告人が誘導して来ていたタクシーに乗せたうえ囎唹郡大崎町方面に連行し、同町所在の食堂において時間をつぶした後、同女をその自宅に連れて帰ると欺いて再び同女をタクシーに乗せ、途中下車させてくれと懇願するにもかかわらず、タクシーの戸を押えて脱出を不能ならしめたうえ同日午後六時過頃、同女を肝属郡串良町有里■千■百■十■番■■■■■方に連れ込み同日午後十時頃、被告人は前記連行により極度に畏怖している右A子を同所四畳半の間において仰向けに押倒し右手で同女の両手を同女の頭の上方に押えつけ、足で同女の股を蹴る等の暴行を加えて完全に同女の反抗を抑圧したうえ二回にわたり強いて同女を姦淫したがその際同女に対し治療五日間を要する処女膜裂傷を負わせたものである。(証拡の標目)《略》(法令適用

 被告人の判示所為は刑法第百八十一条第百七十七条第六十条に該当するので所定刑のうち有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人懲役三年に処し、同法第二十一条を適用して未決勾留日数中三十日を右本刑に算入し、訴訟費用刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により全部被告人負担させることとする。(弁護人の主張に対する判断)

 弁護人は「被告人の住居地である串良町地方には婚姻同意しない婦女をして婚姻を止むなく承諾させるため相手の婦女を強いて姦淫する「おつとい嫁じよ」という慣習があり、右姦淫行為は一般に適法視されている。被告人も右慣習の存在により本件姦淫行為を適法行為確信し、その違法性の認識を欠いていたから本件行為は、その故意を欠くものである。」旨主張するが、少なくとも本件の如き自然犯にあつては違法性の認識故意の成立要件ではないと解せられるのみならず被告人の当公廷における供述同じく検察官に対する供述調書によれば、被告人が右の如き慣習が反社会性を帯びるものであることの認識を有していたことが明らかであるから被告人違法性の認識を有していたものと認むべきであり、弁護人の右主張は採用しがたい。

 よつて主文のとおり判決する。

昭和三十四年六月十九日

鹿児島地方裁判所刑事第二部

裁判長裁判官 古庄良男 裁判官 西川太郎 裁判官 龍岡稔

昭和34年集団強姦罪はなく、強姦致傷罪の法定刑も今より軽い。なお、処女膜裂傷が強姦致傷に当たることは現在では確定判例(最決昭和34年10月28日刑集13巻11号3051項)である

弁護人の主張、「自然犯にあつては違法性の認識故意の成立要件ではない」との判示については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E6%84%8Fhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%95%E6%B3%95%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%AD%98など。現在では自然犯、法定犯の区別はぴんとこないかもしれないが。

 

上記判例より、おっとい嫁じょの慣習のあった地域鹿児島県肝属郡串良町地方であることがわかる。

現在では、平成の大合併により、鹿児島県肝属郡串良町は鹿児島県鹿屋市の一部となっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B1%8B%E5%B8%82#.E6.9D.B1.E9.83.A8.EF.BC.88.E4.B8.B2.E8.89.AF.E7.94.BA.EF.BC.89

しかしながらこの文章を書いているいま、私が検索したところでは、串良町地方とおっとい嫁じょを関連づける文献がインターネット上には存在しない。

なるほどおっとい嫁じょは現行刑法下では犯罪となるべき行為である

しかしながら、我が国日本古来より伝わる文化ひとつでもあり、これをなかったものとし徒に無視することはひとつ文化の損失であるといえる。

そこで、差し出がましいかと思ったが、串良町とおっとい嫁じょを関連づけるべく、本記事を書いた次第である

失われゆく日本の文化が何らかの形で保存されることを切に願う。

2011-07-16

渡邉美樹ブログサイト紹介-1-

このごろ渡邉美樹氏の活動が活発化し、それに伴い様々なメディア雑誌サイトブログなどで拝見することが多くなった。

そんな中、サイトブログで触れられているものピックアップして、一覧したいと思います

簡単ですが、プロフィール。生年月日:1959年10月5日血液型A型、出身:神奈川県横浜市

大学卒業後、経理会社に約半年間勤務。その後運送会社で働き資本金300万円を1年間で貯める。1984年ワタミを創業した。

http://news.livedoor.com/article/detail/5364257/

東京都知事選立候補を表明した渡邉美樹氏をゲストに迎え、3月3日Ustream生中継された対談。『東京の”経営者”になる~私が出馬する理由~』をテーマに、

http://www.nippon-shacho.com/search/result.html?did=13 生い立ちが一覧できるのでおススメ。

渡邉野球が大好きなごく普通スポーツ少年だった。そのごく普通の恵まれた生活が一変したのは、渡邉小学校5年生の時。最愛の母が慢性腎炎で36歳の若さで急逝したのだ。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2152

皆さんご存知だと思いますが、ご紹介します。ワタミ株式会社会長渡邉美樹さんです

渡邉: はい。1週間前に会長をやめました。

長谷川: 渡邉さんは、外食グループワタミの他、介護医療農業教育などを手がけ、カンボジアネパールでも小中学校140校、さらに孤児院まで手広く活躍しています渡邉さんの著書『東京経営する』も読みました。今日はまず、どうして東京都知事選立候補されたのかを聞かせてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/moviefun777

渡邉さんのブログが濃くなってきましたね^^私は昔、書籍を読んでから何か学びを得ることができないか社長渡邉美樹を追ってきたのですが、最近ブログなどのネットから情報を手に入れることができ、とても便利になったものだと感慨深く思っているところです

私も企業務めから脱却し、渡邉さんから学んだことを少しずつではありますが、反映できていることを実感しています

http://blogs.yahoo.co.jp/izakaya_lab/750621.html

まり知られてないかもしれませんが、渡邉美樹.netオリジナルビデオで取り組みなどを伝えるブログがあります

これが意外と面白い!飾りのない生の渡邉さんを知ることができるし、非常に勉強になること内容の動画がいろいろと公開されています

まだ、見たことのない方は見てみる価値ありです

http://blogs.yahoo.co.jp/izakaya_lab

こちらは上記ページのメインサイトです。自らも居酒屋経営し、渡邉美樹氏に傾注している方が運営。ブログツイッターからの話題を中心にブログを展開しています

最近は、更新がないようですが、同業者として客観的に渡邉さんを見ている内容なので、いろいろな情報を発信して欲しいと思っています

その他、渡邉氏関連サイト

http://booksdiary.seesaa.net/

http://blog.livedoor.jp/five_products/archives/cat_50091124.html

http://blog.livedoor.jp/sandstor/

http://watanabedangi.blog.fc2.com/

2010-12-16

何で石原がでかい顔をして青少年有害から規制とか言えるのか解らない

石原小説は実際に青少年有害だった、でも規制はされない。

「完全なる遊戯」って小説のあらすじを調べてみて欲しい

と金を持てあました金持ちボンボン達が白痴女性監禁レイプし友達も連れて来て暴行させ、娼婦として売り払おうとしたが上手くいかず、最後は殺して崖から捨てて「今度の遊びは安く上がったな」

全年齢向け作品である

石原作品はブームになり石原小説に憧れ、作品のように生きようとする太陽族を生み出し、「処刑の部屋」はウィキペディアによると、作品の影響で強姦拉致監禁事件を多発させた。

>19歳の無職少年5人らによって強姦目的女性監禁事件が起こっている。また中学3年生が隣りの家に忍び込んで砂糖壷に睡眠薬を仕込んだことによって、主婦が誤って飲み昏睡状態に陥る事件が起こった[1]。他にも16歳の高校生7人によってカルモチン入りのジュースを飲ませ昏睡状態にさせた強姦事件が起こっている[2][3]。1959年には高校3年生5人が女子高校生5人とコーヒーを飲んでいる時に、隙を見て1人の女生徒コーヒー睡眠薬を入れて飲ませ、近くの旅館に連れ去るという暴行未遂事件が起こっている[4]。

東京都小説を読む人間には判断力があるから暴行などのシーンがあっても影響を受けないよ、漫画より有害はならない大丈夫と判断して、この小説達は有害図書扱いされていない。

「可決は当たり前だ。てめえらが自分子供あんなもの見せられるのかね」

逆に聞きたいあなた自分子供にこんな鬼畜エロ小説を見せられるのか?

2010-03-03

[][][]tameniikiru関連

http://anond.hatelabo.jp/20100221123714の続きです。

 

現在統一協会信者はてなダイアリー他のはてなサービスを使用しています。そのうちの一人である、id:ucnow(http://k.hatena.ne.jp/ucnow/)が協会に都合の悪い箇所を隠蔽しようと必死です。

統一協会

2010/03/03 10:45:08にキーワードの内容の大部分を削除しています。

編集時刻:
    2010/03/03 10:45:08
編集者:
    ucnow
編集内容:
    6,26d5
    -**教祖
    -教祖戦前朝鮮日本からの独立させる抗日活動をしていた[文鮮明]。
    - 文鮮明はこれまでに6度投獄されたことがあり、また女性関係では女性信者を清めるという名目で性関係を持つ“[血分け]”をして来たという根強い噂があるが、教団はそのような事実は一切ないと否定している。朝鮮戦争以前に韓国の興南(フンナム)収容所に投獄されたのはその現行犯逮捕されたという説もある。
    -1980年代にはアメリカ脱税の罪で懲役刑を受けて以来、1年 以上の懲役あるいは禁固刑を受けた外国人は入国できないとした入国管理法の規定により、日本への入国ができなくなっている。
    -**教団の特色
    -★独自の聖書解釈
    - この教団は、聖書に再び来ると預言された[キリスト]とはイエスそのものではなく、文鮮明であると教えている。統一教会では、文鮮明を「真のお父様」、その妻の[韓鶴子]を「真のお母様」と呼び、夫妻を「真の父母」(真のご父母様)と呼ばせている。
    -教団は独自の聖書解釈をしているために、一般のキリスト教会からは[異端]もしくは「異端ですらない」とみなされており、[エキュメニカル](教会一致促進運動)の対象にもなっていない。
    -★独自の活動
    - キリスト教でいう[原罪]を清算できる唯一の道だとされる「[合同結婚式]」を数年毎に行ってきた。また独自の経済活動として、偽霊能者を使って、壷や多宝塔、[高麗人参]エキスなどを法外な値段で売る「[霊感商法]」や福祉などの名目で行うニセの募金活動、さらに日本人女性に日韓関係の問題を韓国側の立場から説き伏せて罪悪感を持たせることで洗脳し、韓国農村部男性結婚させていることなどに対し、社会的批判が強い。
    - このような霊感商法による被害や、教会名や宗教であることをひた隠しにして、サークルや関連団体を通しての伝道(「[青春を返せ裁判]」)や、合同結婚式による婚姻の無効性などに関して、被害者や元信者らによって多くの訴訟が提訴されてきており、統一教会自体に信者不法行為に対する「[使用者責任]」があるとされた判決が多数出ている。
    -また、多数の関連企業武器製造、高麗人参の販売など)を世界各地に持っており、『ワシントンタイムズ』(米国)や『世界日報』(韓国日本)を通じたメディア活動および政治工作なども行っている。自由民主党との癒着も指摘されている((安倍晋三総理大臣自民党議員統一教会関連組織へ祝電を送った事実からも推測される。))。
    -  彼らは様々な団体を隠れ蓑にして様々な活動を行っていり。宗教団体学校病院企業をもつケースは珍しくないが、統一教会の場合は一見すると“まったくの無関係”を装って世間の目を欺いている(ただし実際は、その独特の名称センスのために非常にわかりやすい)ところが他の教団ともっとも異なる。
    -霊感商法等の経済行為や政治的工作等に加え、近年は北朝鮮に対する莫大な経済援助をしていることなどによって、公安警察の監視対象になっている。

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1151719

統一教会

内容の書き換えが明らかに協会の都合のよいものとなっています。ところで「一部のキリスト教関係者左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、」と書き直していますが、この認識は正しいのでしょうか。カルトと思っている人はほかにも多数見られますが、何か?

編集時刻:
    2010/03/03 10:41:28
編集者:
    ucnow
編集内容:
    edit
    -「[[世界基督教統一神霊協会]]」の一般的な略称。統一協会側は「統一協会」ではなく「統一教会」を正式な略称として主張しているが、統一協会の対策にあたる人々や統一協会に反対する人々の多くは「統一協会」の略称を用いる。
    + 「宗教法人世界基督教統一神霊協会」の一般的な略称。統一教会側は「神と人間理想である地上天国を実現するために、神からそのみ旨を託された創始者・文鮮明師によって、1954年5月1日韓国ソウルで創立された」と説明する。日本統一教会は、1959年10月2日に創立され、1964年7月15日宗教法人として認可。2009年に創立50周年を迎えた。
    -統一協会とその関連団体による霊感商法などで知られており、手口や被害の多さから、カルト認識する者が多い(([http://www1k.mesh.ne.jp/reikan/japanese/index-j.htm:title]など。))。
    +伝統的なキリスト教との教義の違い、平和運動勝共運動社会的影響力などから、一部のキリスト教関係者左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、様々な批判を受け、呼称も「統一協会」を使用されている。 

http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1151738

2010-01-31

朝鮮進駐軍

朝鮮進駐軍Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー

http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D

概要

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人韓国人)、もしくは現在日本帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後日本ポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物不法占拠鉄道飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民朝鮮進駐軍犠牲となり殺害されたとされている。

朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について

服装・武器及び組織について

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍パイロット軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日朝鮮人連盟。更にこれが在日大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在民団朝鮮総連となる。

時代背景

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感犯罪者といったイメージ日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。

朝鮮人による犯罪

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎大阪神戸都心等当時朝鮮人比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。

略奪・窃盗密売土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地建物の収奪も相次いだ。

1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。

第八軍司令官ロバートアイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。

主な事件一覧

朝鮮進駐軍及びその後の在日朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

阿仁村事件(1945年10月22日

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日1946年1月9日

直江津リンチ殺人事件(1945年12月29日

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日

坂町事件(1946年9月22日

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)

首相官邸デモ事件(1946年12月20日

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日

阪神教育事件(1948年4月23日~25日)

評定河原事件(1948年10月11日~12日)

宇部事件(1948年12月9日

益田事件(1949年1月25日

枝川事件(1949年4月6~13日)

高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)

本郷村事件(1949年6月2日~11日)

下関事件(1949年8月20日

台東会館事件(1950年3月20日

連島町事件(1950年8月15日

第二神戸事件(1950年11月20~27日)

四日市事件(1951年1月23日

王子事件(1951年3月7日

神奈川事件(1951年6月13日

下里村役場事件(1951年10月22日

福岡事件(1951年11月21日

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日

半田一宮事件(1951年12月3日~11日)

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日

日野事件(1951年12月18日

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)

姫路事件(1952年2月28日

八坂神社事件(1952年3月1日

宇治事件(1952年3月13日

多奈川町事件(1952年3月26日~30日)

田川事件(1952年4月19日

岡山事件(1952年4月24日5月30日

血のメーデー事件(1952年5月1日

上郡事件(1952年5月8日

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)

広島地裁事件(1952年5月13日

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日

万来町事件(1952年5月31日6月5日

島津三条工場事件(1952年6月10日

醒ヶ井村事件(1952年6月13日

葺合*長田事件(1952年6月24日

吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日)

新宿駅事件(1952年6月25日

大須事件(1952年7月7日

舞鶴事件(1952年7月8日

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)

参考文献

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年

横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田枚方事件について』1954年

篠崎平治『在日朝鮮人運動1955年

大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年

新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年

名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年

瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年

山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年

宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年

大阪府警察編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年

警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年

兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年

愛知県警察編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年

青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年

坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年

警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年

思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年

仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年

長崎県警察編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年

李瑜煥『日本の中の三十八度線民団・朝総連歴史現実―』1980年

福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年

山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年

警察文化協会編『戦後事件史』1982年

日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年

講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年

朴慶植解放在日朝鮮人運動史』1989年

百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年

金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年

荒敬『日本占領研究序説』1994年

百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年

竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

秋田魁新報1945年

神奈川新聞1951年

西日本新聞1951年

『中部日本新聞1951年1952年

大阪新聞1952年

京都新聞1952年

神戸新聞1952年

山陽新聞1952年

中国新聞1952年

コピー終わり。

2010-01-15

またもν速大勝利、スネーク小沢マンション中国人女子留学生入れ替わり制を突き止める。朱朱季季

ttp://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1263475685/651

651 : 硯(西日本):2010/01/15(金) 05:59:20.52 ID:bUC2ikHi

295:名無しさん:2010/01/11(月) 08:54:02

何で王将マンセー番組が増えているのかと思ったら、

民主京セラ-稲盛ラインの親族が関係していたんだね。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB

稲盛和夫

来歴・人物 [編集]

鹿児島県生まれ鹿児島市鹿児島玉龍高等学校を経て、1955年鹿児島大学工学部卒業、がいしメーカー

松風(しょうふう)工業を経て、1959年社員8人で京都セラミツク(現・京セラ)を設立し、10年後、株式上場

ファインセラミックスの技術世界的な企業に成長させた。1984年には第二電電DDI、現・KDDI)を設立した。

グループ全体で売上高が1兆2000億円と成長を遂げた。1984年財団法人稲盛財団を設立し、京都賞

創設した。また、若手経営者向けの経営塾「盛和塾」を非営利にて主宰し、若手経営者の育成も行っている。

独特な経営管理手法「アメーバ経営」が有名である。1997年には臨済宗妙心寺派円福寺で得度を受けた。

また民主党幹事長小沢一郎と旧知の仲であり、大企業実業家ながらも熱心な民主党支持者として

知られている。とりわけ京都市地盤とする前原誠司の有力な後援者である。小沢一郎2008年9月21日

民主党代表として再選された際には来賓として挨拶も行っている。 2005年立命館小学校こども顧

問委員に就任。母校の鹿児島大学に寄附し、稲盛会館を寄贈した他、稲盛アカデミーへの援助を行なうなど、

鹿児島大学研究教育支援の為に積極的に貢献している。

親族 [編集]

朝子夫人は、「韓国農業の父」として知られる禹長春の四女である。 実弟の稲盛実氏は、鹿児島県

餃子の王将」の名で展開する鹿児島王将株式会社常務取締役である、1973年京都王将社長

掛け合って鹿児島に、王将店舗を運営することが出来た。

2009-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20090316222610

横だけど戦前のことは「岩波講座 世界歴史19 移動と移民 水野直樹・他 1999年 岩波書店」に

「1930 年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。」

戦後のことは

朝日新聞 1955年8月18日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)

65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。

朝日新聞 1959年6月16日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)

密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。

朝日新聞 天声人語 1959年12月15日

韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。

コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社

「逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。

済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ』」

在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房

日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈済州島人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。」

↑この辺に書いてあるみたいよ。図書館へゴー。

2009-02-01

淀川長治の年間ベスト

淀川長治キネマ旬報年間ベスト10で最高点をつけた洋画リスト

1949年 大いなる幻影ジャン・ルノワール

1950年 自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ

1952年 巴里アメリカ人ヴィンセント・ミネリ

1954年 嘆きのテレーズ(マルセル・カルネ)

1958年 白夜(ルキノ・ヴィスコンティ

1959年 恋人たちルイ・マル

1960年 太陽がいっぱいルネ・クレマン

1961年 素晴らしい風船旅行アルベール・ラモリス

1962年 野いちごイングマール・ベルイマン

1963年 アラビアのロレンスデヴィッド・リーン

1964年 突然炎のごとくフランソワ・トリュフォー

1965年 81/2(フェデリコ・フェリーニ

1966年 マドモアゼルトニー・リチャードソン

1967年 欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ

1968年 2001年宇宙の旅スタンリー・キューブリック

1969年 アポロン地獄ピエル・パオロ・パゾリーニ

1970年 サテリコンフェデリコ・フェリーニ

1971年 ベニスに死すルキノ・ヴィスコンティ

1972年 フェリーニのローマフェデリコ・フェリーニ

1973年 スケアクロウジェリー・シャッツバーグ)

1974年 フェリーニのアマルコルドフェデリコ・フェリーニ

1975年 ザッツエンターテインメントジャックヘイリーJr

1976年 トリュフォー思春期フランソワ・トリュフォー

1977年 ロッキー(ジョン・G・アビルドセン)

1978年 家族の肖像(ルキノ・ヴィスコンティ

1979年 木靴の樹(エルマンノ・オルミ

1980年 ルードウィヒ/神々の黄昏ルキノ・ヴィスコンティ

1981年 ブリキの太鼓フォルカー・シュレンドルフ

1982年 ゲームの規則ジャン・ルノワール

1983年 ディーバ(ジャン=ジャック・ベネックス)

1984年 カルメンカルロス・サウラ)

1985年 田舎日曜日ベルトラン・タヴェルニエ)

1986年 シテール島への船出(テオ・アンゲロプロス

1987年 グッドモーニングバビロン!(タヴィアーニ兄弟)

1988年 ザ・デッド(ジョン・ヒューストン

1989年 生きるべきか死ぬべきか(エルンスト・ルビッチ

1990年 フィールド・オブ・ドリームスフィル・アルデン・ロビンソン

1991年 シェルタリング・スカイベルナルド・ベルトルッチ

1992年 ヒア・マイ・ソング(ピーター・チェルソム)

1993年 マルメロの陽光(ヴィクトル・エリセ

1994年 オリーブの林をぬけて(アッバス・キアロスタミ

1995年 スモークウェイン・ワン

1996年 ケロッグ博士アラン・パーカー

1997年 世界中アイラブユー(ウディ・アレン

2008-11-02

anond:20081102004225

すいません、作者年上でした。

(1959年生まれ…49歳…)

2008-03-17

コピペ保存

1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中

1950年 大躍進文化大革命3000万人大虐殺開始

1950年 朝鮮戦争参戦

1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中

1959年 インド侵略(中印戦争アクサチン地方を占領

1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突

1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射

1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領

1976年 カンボジアクメール・ルージュによる大虐殺を強力支援

1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明

1988年 スプラトリー諸島南沙諸島)を軍事侵略、占領

1989年 天安門事件

1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言

1995年 フィリピンミスチーフ環礁を軍事侵略、占領

1996年 台湾総統選挙恫喝台湾沖にミサイル攻撃

1997年 フィリピンスカーボロ環礁の領有を宣言

1997年 日本尖閣諸島の領有を宣言

2003年 スーダンダルフール大虐殺を強力支援

2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘

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