はてなキーワード: 戦時体制とは
戦後日本の経済を牽引したのは「とにかく奴隷を低賃金で雇って、物を作りまくって売れば勝てる」というスキームだった。これは「とにかくガムシャラに働く」という昭和の価値観そのもので、何しろ頭脳労働でなく、体を動かせばいいだけだった労働者たちはとにかく働いた。昭和の労働者たちは、家族のために、未来のために、バカ丸出しの精神論を振りかざしてガムシャラに働いたんだ。しかしそれはうまくいった。考えてこのやり方を選んだのか、それともただ“今まで通り”やっていただけなのか。このやり方というのは「欲しがりません勝つまでは」という戦時体制をそっくりそのまま引き継いだだけだった。しかし偶然にしろ何にしろ、これがその時代の勝ちパターンだったので、うまくいったんだ。日本は高度経済成長を迎えた。そしてこの黄金の勝ちパターンに乗っかって世界を席巻した最も代表的な企業といえばTOYOTAだろう。自動車産業はずっと日本の花形だった。今までは。
今、2017年になってまで、ほとんど同じやり方しかできない日本に本当にヤバさを感じる。製造業からサービス業に至るまで、戦時体制をそのまま引き継いだかのような奴隷労働の名残りが未だに色濃く残っている。いわゆるブラック企業だ。“それしか知らない”んだ。日本人はそれしかできない。
もはや物を作って売れば良い時代は終わった。より品質の良い“物”を、より安い値段で大量に売ればよかった時代は、終わった。ではこれから先「価値」となるものとは一体何だろうか。
一つ例を挙げよう。今、googleなど世界有数の企業が自動運転カーの開発をしている。自動で動く車は世界を変えるだろう。都市計画を丸ごとひっくり返し、遊びから仕事まで個々人の生活スタイルに重大な変革をもたらす。電話の登場のように、ラジオの登場のように、スマートフォンの登場のように。自動運転カーは世界を変えるだろう。
これから先、人類の間で求められる「価値」とはこのようなものだ。物を情報化できれば、今まで以上に圧倒的な活用ができる。ここにはまだまだ開拓の余地がある。ほとんど全てのものはインターネットに接続させることができる(が、まだされていない)。ここに伸びしろがある。付加価値を与える余地がある。機械学習が有効な分野であれば、それによって大変な革新が得られるかも知れない。ただ物を作って売れば良い時代は終わった。しかしただネットに繋げば良いというわけでもない。物を“どのように”情報化できるか、だ。或いは有形物でなくとも、コミュニケーションや、異性との出会いや、他人からの承認など、元々無形物であるものを、どのように高度に情報化し活用できるか、だと思う。これから先、求められる価値とはこのようなものだ。
TOYOTAは車を作れる。しかしその車に(これからの時代それが当然になるであろう“自動運転”という)付加価値を加えることは、できない。これが先進国であった日本の象徴的かつ決定的な終わりとなるだろう。
ブラック企業の組織構造・組織体質は「ただ物を作れば良かった時代」には最適なものだった。憎まれようが嫌われようが、昭和の時代にはあれが最適解だった、という事実は認めなければならない。しかしこれからの時代はそうではない、ということだ。俺は日本人をとりわけ優秀だとも無能だとも思わない。問題は組織の体質、社会の構造にある。これを変えるのにあと何十年かかるだろうか。それまでに一体、どれほど落ちぶれるだろうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/100500021/070700013/
エリトリアの現状は、非常に驚きをもって読ませていただきました。
国際社会は、規律のない原理的な利害関係で成り立っているので、他国の力を当てにするのであれば見返りが必要なのでしょう。
ハドク氏の境遇には絶句せざるをえませんが、どうすることもできません。援助することや武力で制圧することはできるかもしれませんが、アフガニスタン・ソマリア・イラク・スーダンなどを見てもそれで状況を良くすることができるとはとても言えないでしょう。
北朝鮮あるいはアフガニスタンのように、他国に迷惑をかけて国際的に問題視される状況でなければ関わるべきではないのかも知れません。
ただ乾燥としては、民族虐殺が起きる状況とはまた違った、国内部で自殺が遂行されつつあるような恐ろしい感じがします。
いずれにせよ将来的にもどうなっていくのかは国民次第としか言えないように思います。
ところで、最後のページのみ毛色の違う話に移っていて少し戸惑います。
筆者は日本の政治に疑問を感じているようですが、私には逆にメディアによる寡頭専制が日本では起きているように思えてなりません。
日本のメディアの特徴として、クロスオーナーシップなどで媒体間での相互監視機能を失っており、メディアコングロマリットとして国民の情報収集を意図的に操作しうる権力と化していることです。
それは、新聞の押し紙問題やテレビの電波使用料、また虚報や誤報などで時折表面化しますが、世間的には無視されていることでもよく分かります。
かつての雪印乳業の事件で、不良製品を出した社長が記者会見で吊るし上げられていましたが、新聞の誤報、つまりは報道の不良品で社長が吊るし上げられる場面は見たことがありません。また、かつてのテレビ朝日椿事件などのように、扇動によって世論を操作できていること自体が大問題ですが、実質的に問題自体が抹殺されてなかったかのようにされています。
洗脳を受けた人間は、自身では洗脳されていることに気づくことができません。同様に、扇動されている最中には扇動されているか否かを判断することは非常に困難でしょう。
報道機関は国家権力を監視して民主主義を守ると考えているかもしれませんが、その報道機関の正当性は誰が担保してくれるのでしょうか。エリトリアの大統領は選挙もなしにエリトリアを支配しているそうですが、日本の報道機関は国民による信託もなしに絶対権力をふるっているように見えます。
選挙などで国民の選択が報道の論調とそぐわない場合にはポピュリズムと揶揄し、自分たちの論調に沿うものならば国民の審判が下ったと正当化するではありませんか。いずれの場合も自分たちの正義を絶対視していることに変わりはありません。自分たちの正義が疑われるような都合の悪い情報は、報道されなければ広く知られることはなく、なかったことと同然にできます。それは、旧日本帝国の大本営発表そのものです。先の戦争から学んでいないのは、日本の報道機関も然りです。さらに言えば、現在の寡占体制の元になった新聞の統合は戦時体制によって生み出されたものであり、この寡占体制自体が国民の知る権利にとって大きな不利益となっています。
概して、支配している側が支配を自覚することは少なく、支配されている側が支配を感じることは多いように思います。報道機関に関わる人たちには、特に「報道の自由」に関しては犠牲者然として振る舞いますが、同時に加害者でもありうることを忘れるべきではありません。自らの正義におごることなく、他人を尊重した報道をしていただきたく思います。
特に、筆者は日本の報道を客観視しうる経歴をお持ちのようですので、報道された情報を鵜呑みにするのではなく、より多角的に判断していただけたらと思います。