後輩との会話
後輩「でも森さんあれ、差別じゃないと思うんですよ」
増田『なんで?』
後輩「たとえば、キチガイウオって魚がいたとして」
後輩「キチガイウオって魚がいたとしますよ?で、その魚を命名した人は差別していたかって話ですよ」
後輩「だからですよ、キチガイウオって今だと差別にあたる命名をした人は差別する意識があったのか、どうか」
後輩「ないなら、差別しているわけじゃないんですよ」
どんな理由でも違うだけで排斥されるべきじゃないんだよ。あなたも。
コンセンサスがとれてきて科学的にも明らかにされているのに差別されているものからなんとかしていこうとしているだけで、差別そのものをなんとかしていくのはその先にある
うんうん、わかるよ!
なんかこれ読んで自分思春期に自分の性別に違和感あったなー、ってことを思い出した。女性なんだけど、男性じゃないかという気がしてた。周りにも男っぽいとよく言われていたし。
もしあの頃に今のようなSNSがあって性同一性障害の人の話に触れられる環境だったら、自分もそうなんだ!って思い込んでいた気がするなぁ。
生きづらさはカジュアルに訴えるべきというツリーの人の話も分からんでもないけど、あんまりカジュアルすぎても間違えるものがあるだろう、というのが自分の経験からの意見。
量こそ正義。カロリーの大きさが旨さ。原価の高い食い物が最優先。
プリン食べ放題やパンケーキ食べ放題に出没しているワイと行動範囲がかぶっている。
しかし断じてワイは嘔吐しない。吸収してデブる。そして運動してカロリー発散する。
何より味覚がこいつら信用できないのだ。
野菜の入ってない肉カレーの方が野菜マシマシ肉ゴロゴロカレーよりも美味しいとほざくような輩だ。
バランス力が欠けている。
逆に言えば周りと見かけや考えや好きなものが違うだけでバカにし排斥するのがガキンチョであり、またガキンチョマインドをそのまま引きずった大多数の大人にしてもそうなのだ
上位16%とか、上位2%とかにした方がいいんでないの
偏差値60の大学です!!っていうより、私は上位16%です!!
っていう方が、ほぉー上位16%なのか!て思うじゃん
この月には日本ではなんと200回を超える地震が起こりました。
参考までに2019年は月平均で130回。多くても150回くらいしか地震は起こっていません。
その4月も緊急事態宣言のあった16日までは1日あたり5~6回で推移していたものが、その後23日を堺に突然20回を超える日が続きます。
これ、明らかに人の動きに相関があると思うのだけど。
それまでは人間が地上で活動するだけの運動エネルギーが大地にかかり続けていたのに、緊急事態宣言によって突然そのエネルギーが失われたわけでしょ。
そうなれば大地側からのエネルギーが反発することは必至だと思うのだけど、どなたか有識者さん、わかるように説明してください。
よくわかってない人がいるから補足。
例えば、大きな箱に土をたくさん入れて常に小さな振動を加え続けるとします。
これに対して、表面に土を固めるような一定の圧力をかけ続けます。
そうすると、表面の土はある程度の硬さをもったまま、ときに振動のいたずらによってひび割れたり崩れたりすることが考えられます。
もしここで、表面の土を固めるような一定の圧力を急になくしたとすると、土はしばらくの元の柔らかさに戻ろうとする運動が起こるはずです。
そうして土が柔らかくなろうとしている間は、地震が起こりやすくなるのではないかという仮説です。
その後一定まで土が柔らかくなると、それ以上は柔らかくはならないので、土に一定の圧力が加わっていた頃と大差ない頻度で地震が起こるものと思われます。
再び一定の圧力を加え始めると土が固まろうとするので変化が起こることが予想されますが、それが地震に置き換えて増えるのか減るのかはわかりません。
聞きたかったのは、こうしたエネルギーの状態変化が緊急事態宣言ほどの人の活動に影響を与える規模になれば地震にも十分に影響するのではないかという疑問です。
人がいなかった頃は地震が多かったはずだと言っている人は、人をバカにしている暇があるなら自らの無能さを嘆いてください。
そういうことじゃないです。
(浅学なもので条件が間違っている可能性に気が付きました。箱に土を入れて振動を与えたら、振動によって隙間がなくなることで固くなっていく一方かもしれません。地表以外に流動性を保てる実験条件が思いつきませんでした。)
ちなみに、2020年4月5月には、震度5弱以上の地震は発生していません。
回数が多かったのは震度1と2で、4も多かったですが指摘の通り確率のゆらぎである可能性は否定できません。
ノイズが減ったために微細な地震を拾いやすくなったということについては納得です。
ただ、それ一つの要因で片付けてしまうのは、感染源が蛇口だったと決定づけてしまうことと同じくらい愚かなことだと思っています。
例えば引き渡しのときに
みたいな話が出なかったし
開館してしばらく経って、本が焼けてきたときに
「紫外線遮るシートとか貼りませんか?」
みたいなこと考える人もいなかったわけでしょ
特に子供は中性的なものを嫌悪し枠から外れるとはやし立てて、自分が普通であり攻撃される側にならないよう回避する。攻撃される側でなくても見聞きはすると思うので、そんな中で自己認識を抑えつけるうちに忘れてしまい、なんとなく生きづらい人もいると思う。
何を選択するかに関わらず、抑圧されなければ自分が本当は何だったかを思い出すきっかけとして、身近なものへの思い(自分とは関係無いものか、あるいは興味を持ったことがあるか)を引き合いに出しているのかと。
きっと真剣に悩んだしたくさん辛い目にあったのだろうけれど、カジュアルさを厭わないで欲しい。本当は辛い目にあわなくても自分の普通を生きられる方が良かった。抑圧されて忘れてしまわない方が良かった。
抑圧されて別の性として生きられることが楽だということも無い。自分でも否定してしまった分、掘り起こすのは難しいし、時間が経った分、相応の痛みを伴う。無かったことにしてきた生活のすべてが自分への攻撃になる。
自分は本当で、ちょっと興味があった程度の人は本当ではない、そんなのは違う、自分とは違うものだ。もしかしたらそういう気持ちがあるのかもしれない(全然違うかもしれない、ごめん)
そもそも性別がグラデーションな以上、違和感の程度もグラデーションなのだと思う。身体的な治療が必要かどうかも人それぞれだ。程度が強くても治療しない人もいる。自分の性と戸籍上の性が違うことを認識した上で戸籍上の性として生きる人もいる。
そんな中で、社会的な圧力のせいで否定してきた自分がいたことに気付いて救いにいけること、そして違和感を解消して次世代に無理な性別観を押し付けずにいられることは、これからの世界にとって大事なことだと思う。
主張や疑問からは外れているかもしれない。でも、 MtF とは何か、 MtF じゃないものとは何かなんて基準、無いと思うし、無くてもみんな生きられる方が良い