なんなのあなた
昔とちっとも変わらないじゃん
人の言うことばっかりコピーして
人の言うことばっかり実行して
それも
なんだろうけど
でもそれでもさ
あなたの考えはどこにあるの
自立したあなたの考えは
今のままだと
からっぽじゃん
子供の頃から肌というか皮膚が荒れている。ガサガサというかブツブツ。
別に命にかかわるわけでもないし他人に伝染するわけでもない。
単にあまり見た目がよろしくないというだけで、病気ですらない。体質の問題らしい。
特に腕と足が顕著で見るからに汚い。顔の部分も目立たないけれど触れてみるとなんとなくわかる。
それがすごく嫌で仕方なくて、学生の頃に皮膚科を訪れたりもしたけど体質の問題だということで解決しなかった。
そこで医師が言った台詞が「大人になったら直りますよ」だった。
さて、もう二十歳を既に過ぎて数年経ったが治る気配がない。
今考えるとあの「大人になったら」っていうのは「セックスをしてホルモンバランスに変化が起きたら」って意味だったんじゃなかろうか。
大人、うん、大人になったら、かぁ…。
俺、英語とか他国語知らないから分からないけど、こういう言い回しって日本語特有のものじゃないの?つまり、文章の並べ方によって違った感じ方をするって言うのは。
ブログや掲示板見てると、日本人って「褒めて貶す」ってパターンだよな。
例)「アイドルの○○は可愛いけど、性格悪そうだなっと思った」
この言い方だと、「性格が悪い」が強調されて言われた本人は傷つくだろうし、言った奴にも悪意を感じてしまう。
しかし、この文体を逆にすれば随分印象が変わる。
例)「アイドルの○○は性格悪そうだけど、可愛いなっと思った」
同じ事を言ってるのに、後者の言い方をすればダメージも少ない。むしろ好意的にさえ感じる。
みんなこういう言い方をすればいいのに、ついつい前者の方法取ってるよね。
小学生の時に一度見たことがあったが、体中を包帯でまかれた母親の姿がトラウマになり、それ以来怖くて見るのを避けてきた。だから私にとっては、実に数10年ぶりという事になる。
世間一般では蛍の墓は「反戦映画」と言う事になっている。空襲で母を無くし、残された兄と妹二人が、戦争という環境下で必死に生きる姿を描く壮絶なドラマ。劇中、栄養失調で妹の節子が死に、駅の隅で兄の清太が野垂れ死ぬ時、だれしもが涙し戦争の愚かさへの痛切なメッセージを受け取る、と言う事になっている。
しかし、今日改めて見たら全然印象が違った。私は「蛍の墓」という映画について根本的な誤解をしていた。たしかに戦争は舞台装置として使われているが、これは「反戦映画」なんかじゃ全くない。もっといえば、「戦争」という時代は「蛍の墓」の話の本筋には、ほぼ何もつけ加えていない。兄と妹が息絶えるという悲劇的なラストも、戦争のせいではなく、単に彼らが「俺たちに明日はない」のような放蕩生活を送っていたからに過ぎない。
親を無くし、空襲で家を焼かれた彼らはおばさんの家に厄介になるが、やがて「働きもせず飯を食べてばっかりいる」彼らに、おばさんは苛立ちを募らせてゆく。兄と妹は居心地の悪さを感じるようになる。我慢の限界に達した兄の清太は妹を連れ出し、おばさんの家を離れる。いわゆる、逆ギレという奴である。家を追い出されたわけではない。清太自ら「居心地のいい場所」を求めて無計画に家を飛び出すのである。やがて、小さな洞穴を新しい我が家とし、外界との接触を一切断ち、二人だけの生活を始める兄と妹。兄は、そこら辺にある蛙をとったり、畑から作物を盗んだりして、食いつなぎながら穏やかに暮らすが、そんな生活に幼い妹が耐えられるわけなく、やがて妹は、栄養失調で死にいたる。
重要なのは、彼らの命の選択権は「戦争」にあったのではなく、彼ら自身にあったということだ。言い換えれば、二人は「死」という結末にならなくてすむ選択肢も取りえた。たとえば清太は、終戦まで我慢しておばさんの家に留まることもできたし、別に働き場所を見つける事は可能だった。途中でリンチされる清太を助けてくれた警察官に理由を言って救いを求めたら、違う結果にもなったはずだ。唯一、「戦争」そのものがストーリーを動かしている所といえば、空襲で母親が被爆し不条理に命を奪われる冒頭の約10分だけで、その後ストーリーの牽引役は完全に兄の清太の(自己破壊的な)行動にある。
そうならば、妹の節子を殺したのは実質的に、兄の清太だといっていい。しかし清太自身は、自分の身勝手さに妹は巻き込まれたのかもしれない、という可能性には全く気付いていない。少なくとも、燃え盛る妹の死体を見つめる兄の視線からは微塵の「自責」の意識も見られない。そこには、ただ、自分の道なんかを信じちゃって進まんと決意しちゃうまっすぐな瞳がある。私は、このまなざしをみた時、吐き気がした。それは、小学校の時感じた戦争のグロシーンに対してのそれとは全くちがうタイプの、この映画による2回目の吐き気だった。
繰り返すが、これは戦争映画ではない。戦争それ以前に、社会において人と折り合っていくことを拒み、自分が他と独立な法則にしたがっていると信じ、完全な自足の道を求めようとした若者がたどってしまう足跡の映画である。実際、この映画を手がけた高畑監督自身も、口すっぱく「これは戦争反対の映画ではない」といっていたようだ。それが”戦争の悲しさを伝える映画”として流布されたのはおそらく、プロモーションサイドの暴走であろう。
確かに、「蛍の墓」は悲劇だ。ただ、この映画において結果的に悲劇をもたらしたのは戦争ではなく、この頑なで、近視眼的な若さのようなものである。泣けるっちゃあ、そこで泣ける。
すなわち、問われるのは「戦争」ではなく、「道徳」であろう。少なくとも、私が戦争被害者ならこれを反戦映画と認めないだろうし、私が教師なら上記の文脈において教え子の小学生に見せて伝える。
http://twitter.com/#!/zaway
これ読んで思ったのは、子供って、「相手が納得してくれるまで、なぜ嫌なのかを説明しないといけない」って思ってしまうのかなぁってこと。もう最初に声かけられた時点で、何も言わずに逃げてしまって良い場面なのにね。
もしこの男が、子供を言いくるめるのが上手い男だったら、理屈で反論できなくなった子供は、内心「おかしいな」「乗りたくないな」と思っていても、乗ってしまう子供もいるんじゃないかって思う。ていうか、元増田の話ってそうだよね。
ついに私は勇気を出して声を上げた。
「おしり触ったでしょー」
「触ってないよ」
「触った!」
幼なじみは私よりもさらに世知に疎く、幼かった。彼女には年の離れたいとこがたくさんいたから、お兄さんに遊んでもらうのに警戒がなかったのだろう。
今ならそんな言葉に言いくるめられるわけがないが、幼なじみの援護もあって当時の私は納得した。これ以上抗議するのも大人ぶっているようで恥ずかしかった。
相手に納得してもらうことよりも、「この車に乗りたくない」「触られるのは嫌だ」という、純粋でシンプルな自分の気持ちのほうが大事だと、子供に教えないといけないんだろう。
でも普段大人たちは、子供に自分の気持ちを優先しても良いのだということを、あんまり教えていないんじゃないだろうか。大人が普段子供に言うことは、「空気を読んで」「大人の言うことをきいて」「相手の気持ちを考えて」ばかりで、「自分の気持ちを大事にして」「嫌だと思ったら嫌だと言って」とは、あんまり言ってないんじゃないだろうか。
で、ここまで書いていて気がついたけど、これって大人も同じだよね。大人を言いくるめる言葉は、もっと巧妙でわかりにくいというだけで。自分の感情が納得していなくても、理屈で反論できなくなったら、感情を押し込めてしまうことって、よくある。自分が悪い、自分がおかしいと思い込まされて。
http://togetter.com/li/173853 を読んで。
結論から先に言う。彼らがCDを売るのは、コミケに自分のスペースを確保する名目である。本当の頒布物は、「偶像化された自分自身」である。要は「アイドル」になりたくて来ているのだ。
よって、サークルの周りに溜まったり、写真撮影したり、握手会をしたりといった、アイドル化に必要な行為を画一的に禁止しては、サークル参加者本人の最大の目的が果たされない。コミケは彼らの承認欲求を満たし、「すべてを受け入れるコミケ」でありつづけるか、古い秩序を強制し、従わない者を排除するかの岐路に立たされている。
コミケの伝統である「大手もピコ手も買専もみんな同じ。例のアレが好きな同志」という意識が、歌い手クラスタには存在し得ない。もちろんサークルと一般参加者の意識に格差がある状況はよくある話だ。が、このジャンルに於いてはそもそも構造的に「同志」になり得ないのだ。
サークル参加者が好きなのは自分自身であり、一般参加者が好きなのはサークル参加者本人である。すなわち、サークル参加者は一般参加者の欲求を一身に背負った「神」であり、一般参加者はひたすらおこぼれをもらうだけの、只のしがない取り巻きに過ぎない。
こんな構造では同じ意識を共有しろというほうが無茶である。サークル参加者は「施しをする者」として振る舞うのが自然であり、当然のごとく一般参加者は「お客さん」化していく。
こういう構造を理解せず、あるいは無視し、単純にみんなの問題として黙殺しようとするのは、今あるコミケを守るための最善手であるのかもしれない。が、あまりに保守的ではなかろうか。見なかったことにしたい範囲が大きすぎはしないだろうか。現在進行形の問題として、あるいは将来再びあり得る危機へのたたき台として、議論すべきだと考える。
本当の独り言なら、こんな全世界に公開される増田にわざわざ書かず、自分のPCや携帯のメモ帳、もしくは自分以外が見れないように設定したブログに書けばいい。
そういった選択肢があるにもかかわらず、増田に書くということは、
「誰かに読んでもらいたい」
「誰かに反応してもらいたい」
自分では気づいてないだけで。
みんな寂しがり屋なんだよね?
ああ、性交ね。やっとわかった。
そうやって歳くって誰にも相手されなくなって俺の人生なんだったんだろうって思うんだろうね。
確実だし、その場でベタな性病の薬出してくれるし、保険で安いしw
女の身としては読んでて腹立つ文章だけど当たってるわ。