はてなキーワード: 教条とは
必死こいて生きて、なんとか独りで低収入で食いつないでる身として、めちゃくちゃ思い当たるものがある。
政治的な考えでいうと、共産党(というよりはアンチ資本家)に寄ってるが、共産党には絶対に投票したくない。他の政党は知らん、私が投票できる先で一番マトモな奴を選ぶ。スピってないやつとか。
今までの人生で一番嫌いだった人間群が「子供に愛がない親なんて居ない」教ミンナオナジ派キモチガダイジ会の信者で、近所の共産党系の奴らってそういうのかスピってるかで、そういう奴に徹底的な忌避感を抱いてるのが原因だ。やるなら徹底的に構造化してから口を開け、と思ってしまう。何が安倍政権にNOだ、お前が何するか言え、NOと言うだけなら無能でもできる。私は便器の下のションベンが乾いたような環境から、努力で便所のような環境まで来たのに、なんだお前ら今更なんも分かってないゴミのくせにペラペラ喋りやがって、という感情しかない。
一つ違うのは、日本すげーに対しては徹底して冷笑する側だってことくらい。さらに言えば、全世界の権力的なものへの冷笑具合なら負ける気がしない。欧米出羽守みたいなしょーもなダメ人間への見下し力ならそこらのネトウヨにも絶対負けない。デモはもっとやれって思ってるが、デモに付随する犯罪を民主主義だと唱えるバカとか脳味噌腐ってんのかってくらいには思ってる。
ダメだ、全然まとまらない。権力はクソ以外に教条がない。権力とか愛とかは全部クソだから、もっと徹底的に相対化して冷笑して、人のココロなど何一つ考えない、人権というシステムだけにガチガチ縛られた社会にしてくれ。法律を一回全廃して人権至上主義で作り直してくれる政党が出ない限り、なんかを支持できん。自分の利益になるのは、人権を至上とする社会を作る権力ではない何かだ。何かはわからん、頭いいやつが考えてくれ。何もわからんから全人類とにかく苦しんでくれ。全人類が苦しみ尽くせば、私は安心して死ねる。
コメントブクマありがとう。多分私は権力というものへの不信感と嫌悪感が有り余り、権力者・扇動者に有利な選挙のクソさに辟易してて、一番意味のない「1票分の興味しか持ってない底辺」であることを自覚してしまったがゆえの自暴自棄なんだと思う。
もちろんだけど、自民とか保守系がかなりスピってるのは把握してる。共産党系への忌避感もあって、あとはもう自分が投票できる先を選ぶためにダメなのを消して投票してる。今までの結果として、与党系に投票したのは地方の1回だけ。ほかがクソすぎた。比例は非与党にしか入れたことないよ。
全人類苦しめって書いたけど、多分本音は全人類幸せになってほしいんだと思う。全人類が幸せになるんだったら私も幸せになれるだろう。私は最後でいいから、全人類幸せに生きてくれ。スピリチュアル万歳。
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たとえば心理学でも未だにフロイトの言うことを全面的に支持してたらもはや宗教だけど(その手の宗教はたまに見るけど)、ああいうのをたたき台に理論を進めたのが現代の心理"学"という学問なわけだよね。批判と再構築を繰り返すことで少しずつ真実へと近づいていくのが学問。
フェミニズムも学問としては批判を受け入れているけど、まあ「現時点での結論」を教条として社会運動に関わったりするから宗教っぽさもあって、その辺複雑かも。フェミニストにうんざりすることは少なくないけど、ギリギリ学問としての体裁は保ってるんじゃないかな。
恋愛工学が学問と呼ばれるに足るためには、藤沢数希以外の(十分多くの)論客が批判的に引用したりして議論が発達してからじゃないのかな。そういう未来はあり得ると思うよ。でも現状はまだその域に達してないかな。
宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身の信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。
宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである。本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。
宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業を研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。
そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ(釈尊)に関して事実誤認をしている。史実の釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。
史実の釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。
それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国の信仰がごちゃまぜになっていて。つまり、儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教の教義と矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教と儒教が習合し、それが輸入された。ちなみに、中国の技術・文化を受容するためにも、神道も仏教と習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道も本来のものではない。
ともかく、史実の釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。
教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的に教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である。
かように日本とかいうものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造を優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。
http://possession.hatenablog.com/entry/2016/09/07/230124
「言ってることはわかるがお前のことが気に入らない」を軽視しすぎたらあかんのちゃうかな
↑の記事のメタブに、(たぶん)自分と同じこと考えてるコメントがあったので、その言葉をタイトルに拝借しつつ文章にしてみる。(展開したらコメントの人とは意見が分かれるかもしれないが)
↑の記事に賛同するような人が「アイヌ殺すなんて言っちゃいけない」という言葉について、「言ってることはわかる」とか「言ってる内容は正しい」って思うとき、ごく穏健に
「ツイッターはもはや公の場なんだから、文脈の理解を阻害するような過激な物言いにも非があるのでは」
というような意見ではないだろうか。
でも、今回攻撃を仕掛けた人は、たぶんその同じ言葉に対しての解釈が全然違うんだよ。
「どのような意図があろうとその言霊を発した時点で罪人であり、一切の弁明なく平身低頭懺悔しない限り赦免されない。本来全ての日本人はアイヌの差別問題については我等と同等の深い関心と全く同じ知識体系を頭に入れる義務があり、今の日本はの現状は誠に嘆かわしい。ましてやあえて拒む者などがいれば、それを敵と認定し撃滅する使命がある」
「いやー、状況よくみたら完全に早とちりでした。お騒がせしてすみません。でもせっかくの機会なので、こんな問題もあることを知って、少しでも関心もってくれて、配慮してくれると嬉しいです」
くらいの、ちょっとこっぱずかしい勘違いとやんわりとした要請で終わる場面で、ああいう常軌を逸した行動に走ってしまうことの説明がつかない。
実際、はてブのコメントにも、上記ほど露骨な言い方ではないけど、方向性としては同じことを言っているのが散見される。
つまり、問題についての関心や教条を自分たちが満足する水準や体系で持たないこと自体が人として劣っており、社会的に「是正」「啓蒙」されるべき、という宗教的原理主義だ。
こういう人の耳に、どんな文脈でも「正論だ」なんて言葉を入れてはいけない。それは「アイヌ殺す」と同様、言霊としてしか受け止められない。
ちゃんと「あなたの主張、正しくないです」て指摘しないとダメなのだ。
「態度が悪い」なんて彼らの正統性(正当性ではない)、信仰に一片の痛痒も与えない指摘ではなく、「なぜアイヌ殺すがいけないのか」の中身を掘り下げその異常な考えの言質を引き出し、そこを否定しないといけないのだ。
【参考増田】
http://synodos.jp/society/15869
について、まぁすこし前に流行った弱者男性と同形の議論だよね基本は、そして弱者男性議論と同様に根本的に間違えてる部分がある。
これに対してコメントを見てみると
それ以前に当事者の運動すらないのに、「被抑圧下で権利主張を行うマイノリティ」に対して自分たち以外の権利獲得・保護まで一方的に背負わせるのは無理筋だと思います
LGBTが包含しにくい勢力をLGBTと同等の勢力と多数派が認めればいいだけでは。少数者はひと固まりになるべきてのは押し付けに過ぎない
分かるけど「お前らの運動は思想的に無矛盾じゃないからニセモノ!」って足引っ張るのはやめような。オタクはオタクで頑張れ。共闘はできなくても互いに応援はできるはず
考えてみれば当たり前だ、そもそも論理を貫き通せばそれでOKなら、差別そのものがとっくの昔にこの世にないはずだ。となれば必然、運動は論理を超えた、つまり矛盾を含むことになる。
論理的には山口氏は正解だろう。「性的少数者は守られるべきか?」「多様性は擁護されるべきか?」という直截な疑問にLGBT側の多くの人間は留保を付けずに「YES」と答えられないのではないか。そして留保を付けた途端、この教条の絶対性は揺らぎ、次なる理由を求められることになる「では、なぜLGBTだけが?」「その理由は?」
理由など無い、たまたま自分かあるいは近しいところにその当事者がいたとか、そういう理由ならあるだろうが。論理的な説明は無い。
こうした運動にとってロジックは「根拠」ではなく「道具」に過ぎない、ってことをわかってない。まず第一に「ある特定の差別解消」という恣意的な目標があり、ロジックは都合のいいものだけ後付けされる。そんなことはわかった上で、なのかもしれないが。
なぜ矛盾してもいいのか?
それはそもそも第一の目的が「論理性の追求」などではなく「ある特定の差別解消」だからだ、この目的のもとに、手段の(特に論理的)正当性は言ってしまえばどうでもいい。そもそも論理的であるべき(矛盾すべきでない)とする論理的な理由は無い。それは常に(他の場面でも)戦略的なものだ。
そう、戦略だ。ここに山口氏の主張をベタに受け取る上記の反論の未熟さが伺える。彼らも分かってるはずだ、ここにはコンスタティヴではない、パフォーマティヴな意図が隠されていると。
被差別者は矛盾してもいい、そのことには論理的な正当性すらあるが、一方で戦略的にはよろしくない。大半の人間は馬鹿だから「矛盾してもいい」ことを理解できないし、となると論理的矛盾は論理的ではなく戦略的な足かせになる。
彼らがやるべきは「その言い分は戦略的にまずい」とコンスタティヴに言ってしまうことではなく、山口氏と同様にパフォーマティヴな意味を獲得する論理ゲームに参加することだ。
彼らは勘違いしている。これは「論理的正当性」という称号を賭けたただのゲームなのだ。これを獲得すると「説得力」という全然論理的には役に立たないが戦略的に役立つものが手に入り、逆に負ければ論理的には全く問題ないにもかかわらず戦略的には大きなリスクを負うことになる。
彼らは文章の表層に表れる論理ゲームしか見えていない、その上空で展開されるメタ称号争奪の戦略ゲームが見えていない。彼らは「論理より戦略を考慮しないと」と言うわりに自らの戦略的位置・意味には驚くほど鈍感だ。正しいことを言ってればいいわけじゃない。
論理ゲームの勝敗が戦略ゲームの戦況に影響を与えるということ、この簡単な事実を前提とした意見は残念ながら今のところあまり見られない。