はてなキーワード: 大サビとは
君がくれたInternet
現実の価値観が支配的になった Just A Overground
アンダーグラウンドのつもりだったOur Place
掘り返されて Under The Sun
(マーク・パンサー)「Hey, everyone! Get up and be fine!」
(サビ)
匿名性なんていらない って君は言うけれど
現実で言えないことどうしたらいいの
ネットでも言うななんて言わないで
わかりはじめた ボクたちのFuture
セカイは変わり始めた ボクたちを残して
(大サビ)
果てしないこの空に翼広げ 飛び立ちたいよ Fly Free
今なら言える気がするよ Say Good-Bye
死んだ、死んだ、死んだ
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
Hey メンヘラってきた
色々苦労をしすぎた
何でも御座れのニートだ
だけどなかなか死ねないんだ
まだまだ…忘れらんない
だけど、待って、それで、いいの?
自殺がしたい
昨日までの僕は死んでいる
絶望の淵にやっと立てれた]
鬱病だけど言えないことが
ひとつだけあるの
それは僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
明るい躁の君より
暗めが似合うと思うんだ
いやいやいや…深い意味はない
ただの幻覚なのかも
リストカットがしたい
生まれたのは偶然じゃない
運命と言うにゃ遅いけど
死ぬでしょうか?狂うでしょうか?
けれど伝えられず
今日も僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
よっしゃー死ぬぞー!
クビ(クビ)ツリ(ツリ)
トビ(トビ)オリ(オリ)
トビ(トビ)コミ(コミ)
生きる権利などないんだろう
でもね、鬱が、止まらなくて
千の風になりたい
[ ]内繰り返し
まるでただ死体のような僕は
死んだ、死んだ、死んだ
(\はぁ…死にたい…/)
死んだ、死んだ、死んだ
死 ん だ 方 が マ シ だ
https://www.youtube.com/embed/cBPOZS6bR0k
足元がぐらつくようで息を止めた午前5時
THAT WORLD has come
けして明けない夜も 降り続けてやまない雨も
このろくでもない自分にはあるんだよ
「少しも変ではないの
ひとり部屋に籠る
そこで思い描いたことまで恥じるのか
小さき警備員が奏でる 終わらせるドアの音
本当は死ねないんじゃないの?
踏み出すその一歩一歩が連れていけるさ
THAT WORLD has come
わかりあえない過去も
わかったふりしたような未来も
ここは地獄じゃなくて
まして煉獄のはずもなく
※くりかえし
この目で見たものだけ信じていたいけれど
陰口怯えては
悪い予感が本当に化ける
suiside suiside
果てしない SANDU RIVER
足は泥に嵌まる
忍び寄る MENTAL LIMIT
語るのはよき来世
THAT WORLD has come
ASKAの詞の特徴の一つは、複雑な比喩を折り重ねていくことにある。そうした複雑な比喩の解読については、「On Your Mark」の楽曲分析で先日書いたところである(http://anond.hatelabo.jp/20140924014048)。
しかしながら、私はCHAGE&ASKAの熱烈なファンであるけれども、「比喩」の観点から歌詞を見ればASKAよりも巧者は他にもいると思っている。例えば、スピッツ。「ロビンソン」の印象派の絵画を思わせる複雑な比喩を見るとASKAに少々分が悪い。では人生の機敏という観点から見ればどうか? 私の考えでは、ASKAは中島みゆきに遠く及ばない。しかしそれゆえにASKAの歌詞は二流であるわけではない。
ASKAの詞はJ-POP史上稀に見る「音楽性」を持っている、というのが私の意見だ。「言葉が音楽性を持っている」とはどういうことか? 分かりやすい例として、まず"YAH YAH YAH"をとりあげて、それを説明したい。
「YAH YAH YAH」のサビは、ご存じのように、ひたすらYAH YAH YAHが繰り返されるだけである。しかし「YAH YAH YAH」という発音には極めて綿密で、天才的な直観があると私は考えている。仮に、YAH YAH YAHの部分を「ウ」でも「エ」でもよいが、別の母音に置き換えたものを想像してみると、「YAH YAH YAH」という曲そのものが成立しなくなることが了解されるだろう。YAH YAH YAHの発音の秘密はそれだけにとどまらない。その前の歌詞に注目する必要がある。
この部分を読むと、「イ」の発音が異様に多いことに気がつく。「イ」は、歯を食いしばって発声される。怒りを耐え忍ぶかのような身振りを発音が要求している。そして、サビに入る時に「ア」の開放的な音に切り替わる(殴りにいこう「か」)。サビの一個手前に、このような母音のドラマが隠されている。この「イ」と「ア」の動きをYAH YAH YAHというサビで何度も何度も再現するのである。なお、「今から一緒に」の前にある「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい」では「イ」で終わっているので、まだ耐え忍ばなければならずYAH YAH YAHと叫ぶことができないように発声的にも規制されていることが分かる。こうして見てみると、一見単純に見えるYAH YAH YAHの歌詞には天才的な音楽的直観が働いていることが分かるだろう。
そうした作詞法はASKAの専売特許ではない。そうした作詞法を意識的に採用しているのは、ASKAも尊敬している井上陽水である。陽水は、「Tokyo」の冒頭部分「銀座へ鳩バスが走る」という歌詞の秘密を次のように語っている。
タモリ で、それを作りたいってことに、なんで銀座が浮かんできたわけ? しょっちゅう行ってるから?
陽水 いや、そういうことじゃなくてホラ…、東京でね、やっぱり一曲ね[作りたいと思ってたから]。で、「銀座へ~」っていうね、あのー、人によってね、いろいろ、発音でね、取り柄がある発音とあんま響かないのがある。「銀座へ~」っていうのが、この口にすごく合ってたの。「銀座へ~」、あ、響くなあ、って。
7:00-7:40頃 https://www.youtube.com/watch?v=szB9lhaX2XY
井上陽水の曲を聞いてみると、たしかに言葉の「音」に対する独特の"美意識"があることが分かる。これはこれで、余人には真似しがたい孤高の美をたたえている。「Tokyo」であれ「Make-up Shadow」であれ、言葉に対するきわめて繊細な美意識を私は感じる。
完全に余談だが、全世界的に流行した「Let It Go」の歌詞にも言葉の音に対するこだわりを強く感じるので紹介しておく。
My power flurries through the air into the ground
My soul is spiraling in frozen fractals all around
And one thought crystallizes like an icy blast
I'm never going back, the past is in the past
この部分は、一番の大サビに向かう、心躍る箇所だ。
歌い始めの「My power flurries through」の部分は、口をすぼめる内気な発音が多い。しかし、「the air」の所でやや反抗的な「エ」の発音がやってきて、「into the ground」で一回大きく開放的になるが、すぐに締められる。「My soul is spiraling in frozen」までは基本的にはやはり内気な発音が多い。「fractals」のところで「the air」とは別のしかたで(歌い方で)反抗的な様子を見せるが、これも「all around」の個所で一回開放的になるが閉じられる。こうした発音のドラマの最後に、「the past is in the past」の個所がやってくる。このようにして、まことに開放的で、ドラマチックな「ア」の発音がここに訪れるのである。
このように、言葉の音に対する意識は世界的に存在する。しかしながら、日本語は、世界の様々な言語と比べても「母音」の割合が非常に多いという特徴をもっている。日本のロックミュージシャンたちはこの母音に苦しめられてきたのだ、と言っても過言ではないだろう。そこで例えばサザンは子音に着目した。サザンは日本語における子音の可能性を大きく拡張したミュージシャンとして評価することができる。しかし、ASKAはあくまで「母音」の可能性にこだわったミュージシャンであると私は考えている。日本語の本来の特徴が「母音」にあるのだとしたら、その「母音」を徹底的に活用したのがASKAである。
こうやって私が言葉の音に対して敏感になったのは、チャゲアスの音楽を聴いてからだ。ASKAは、まず歌唱からして、母音を強調している。これは良くも悪くも「古さ」を感じる歌唱であろう。母音を強調する歌手として、例えば尾崎紀世彦や布施明を挙げることができる。彼らの歌唱には「昔ながらの情念」を感じる人が、とくに若い人になればなるほど多いのではないだろうか。一方、母音を強調しない歌手、小田和正の歌唱にはそうした「古さ」を感じることはないのではないか。母音は、本能的な部分に訴えかける、ほとんど呪術的と言える原始的な力をもっている。しかし、それを真に受け止めるためには現代人はいささかシャイなのだ、というのが私の持論だ。母音とは、一種の「ますらをぶり」である。ASKAは「ますらをぶり」のシンガーである。
私の見立てでは、ASKAが母音から歌詞を構成する方法を意識化したのは、だいたいシングル「WALK」以降である。「WALK」より前の曲には、母音に対する美意識を見出すことが難しかった。逆を言えば、WALK以降には母音に対する鋭敏な感覚をASKAの曲に感じる。国民的シンガーCHAGE&ASKAが出来上がったのは「SAY YES」であるが、「SAY YES」と同レベルの作品を量産できるようになったのはだいたいシングル「WALK」の時期からだ。一つ一つ楽曲分析をして証明をすることもできなくはないが、それをするとなると、ちょっと本格的にやらなくてはいけない。そこで、ASKAの曲の中でも、母音の使用がもっとも素晴らしいと思う楽曲を一つ見てみることにしよう。「はじまりはいつも雨」だ。
「はじまりはいつも雨」はASKAソロの曲だが、チャゲアスVer.も残されている。私の一番好きな音源である(https://www.youtube.com/watch?v=5mzj72QxrYo)。
「はじまりはいつも雨」は、メロディーと歌詞の二つが複雑なハーモニーを形成しており、決して不協和音をつくっていない。母音の使用法も極めて洗練されている。しかしながら、冒頭から母音の分析をはじめても感覚的に分かりづらいと思うので、もっとも分かりやすいところから見てみよう。それはサビの終わる所である。
失くした恋達の 足跡(あと)をつけて(二番)
まず気がつくのは、これら全ての終わりが「エ」で終わっているということである。仮にこれを「エ」以外の音だと考えてみよう。すると、この曲自体がぶち壊しになることが分かると思う。「ア」だと少々なさけない感じがするし、「イ」はやや幻想的になるかもしれないが悲痛な雰囲気も漂いそぐわず、「ウ」はそこで完結してしまい、「オ」では重すぎる。ここは「エ」でなければならない。暗い街中に消えていく複雑な余韻は、ここでは「エ」によってしかつくることができない(なお、似たような曲として井上陽水「帰れない二人」があることを指摘しておく。また、ASKAは「はじまりはいつも雨」を作る時にその曲を意識していると私は考えている)。
さて、この曲における母音でもっとも美しいと思うのはサビに入る前の「誰よりも 誰よりも」という箇所だ。J-POP広しといえども、このような「オ」の大胆な使い方をして、それが成功をおさめている例を私は他に知らない。この箇所は「ア」と「ウ」でも成り立たないことはない。しかし、「ア」だとあまりに開けっぴろげで楽観的すぎるし、「ウ」だと少しストーカーのようないやらしさを感じる。ここはやはり「オ」でなければならず、「オ」という少しくぐもった母音によっていささか内気な青年の、胸の奥底からやってくる高鳴る期待が的確に表現されていると私は考えている。言葉の「意味」ではなく「音」によってこんな複雑な操作をできるシンガーソングライターが今どこにいるだろうか? たいへん残念なことに私はASKA以外に知らない。
他にも「はじまりはいつも雨」には美しい母音が色々ある。例えば「今夜君のこと誘うから 空を見てた」の「と」の遠慮がちな「オ」とその後にメロディーとともに上を見た時にある開放の「ア」であったり(綺麗な夜空を見て嘆息つくような場景が思い浮かびます)。こういうことは言いすぎると野暮になることかもしれない。とりあえずは「はじまりはいつも雨」を聞いていただきたい。それから、「Say Yes」や「no no darlin'」などのチャゲアス名曲群から美しい母音たちを集めて、それぞれ言葉の音を解釈してみるのも一興だと思う。
チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDEは幸運なことに録音に恵まれています。1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKAは年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンをレビューしてみようと思います。
評価=8
CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間で発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえます。ASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます。
評価=9
声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかもサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。
ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっともエモーショナルなものかもしれません。
評価=9
あまり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。
評価=10
ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。
声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます。
この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。
評価=7
アンプラグド、さらに欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています。
やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。
評価=6
この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきます。ポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声と裏声を混ぜるってやつです。
艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法(オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。
評価=6
コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年。
やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります。
評価=5
2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。
この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます。
喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。
評価=9
声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います。2007年。
90年代のASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさらに金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます。
しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビのCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています。
あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます。
やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴはワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。
00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEのライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれます。しかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔なカトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます。
「アナと雪の女王」のテーマソング『レット・イット・ゴー〜ありのままで〜(Let it go)』、テレビや街でめちゃくちゃ流れていますよね。かっこいい。
まだ映画は見てないのですが、とにかく曲がかっこいい。映画みてないのに、きっと主人公のアナが背負った生い立ちを受け止めて、最後は自分らしく生きていく決心をする映画なんだろうな、と涙しています。
https://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw&list=FLF_clbmzwu_aTTbnVmXSsPg&index=2
早速、iTunesで松たか子さんの歌う日本語バージョン買いました。
https://itunes.apple.com/jp/album/anato-xueno-nu-wang-orijinaru/id834877950
色々バージョンがあるのですが、今回は日本語バージョンをとりあげます。やっぱりミュージカル映画ですから、ダイレクトにメッセージが伝わってくる日本語がいいですね。
それにしてもディズニーの曲って全部かっこいいですよね。私はアラジンのテーマソング「ホール・ニュー・ワールド」が好きでした。男性の方はピーボ・ブライソンという人なんですが、けっこういい曲をたくさん出していて、よくDJでかけてます。
このアルバムが最高です。スプレッドウィングが最高!4時半くらい、もうだんだん人がかえるかなあってくらいの最後の盛り上げにベスト。切ない。
https://itunes.apple.com/jp/album/crosswinds/id715936499
ということで本題に入っていきましょう。
最初にはったYOUTUBEで時間を指定していきますので参照ください。
再生もできるので便利です。
http://www.noteflight.com/scores/view/99eca90e7551876a3ec94a53a0ad00e5639fa1eb
例のごとくキーをCになおしてあります。原曲は、Abですので、原曲と一緒にプレイしたい人はM3下げて演奏して下さい。
日本語入力ができないようだったので歌詞はローマ字で。やり方分かる人はおしえてください。
で、楽譜の部分は大サビ、動画でいうと2:00からの場所ですね。一番盛り上がるところ。CMなんかで放送されているのはおそらくこれだと思います。
とても素晴らしい曲なんですが、それゆえ説明すべき場所がほとんどありません!笑
小手先の技でできている曲ではない。ただただシンプルにいい曲。
野球でいったらただのストレートなんだけど、速すぎて誰も打てない笑、みたいな。
コツとかない。ひたすら練習して投げれるようになった速い球、みたいな感じです。
https://www.youtube.com/watch?v=SV2hshsChlk
ということでボブ・マーリーの名曲『ノー・ウーマン・ノー・クライ』を引っ張り出してきました。最初のオルガンのリフ、鍵盤やってる人なら絶対練習したことがあります。かっこよすぎ。
で、なんでこれを出したかというと、レット・イット・ゴーのサビと、1:16ぐらいからの平歌部分、いんざがばめんとやーどいんとれんちたうんー、というところのコード、一緒なんですね。キーはもちろん違いますが。
ノー・ウーマン・ノー・クライではキーがDbなので、Db Ab Bbm Gbと演奏してます。
このコード進行と、レット・イット・ゴーのサビは全く同じ進行です。
好きな曲が同じコード進行ってやっぱり嬉しいじゃないですか。
コードが同じだとパクリだとか定番だとか、良くないことのようにいう人がいますが、そんなことはない。コード同じなのに全然違う良さがある。逆に音楽ってすごいなって思いませんか?同じ構造なのに感動が違うんですよ。すごいですよね。
C G Am F の繰り返しですね。
ここすごい好きです。個人的には切ない感じがする。ぐっとくる。
このブログでも何回も書いているんですが、FからCに戻る進行は、ソウルっぽいというか、ゴスペルっぽいんですよね。
書いてて思い出したんですが、絢香さんの i believe も多分同じコード進行ですね。サビ。レット・イット・ゴーと同じように、女の子が自分自身を受け止める歌ですよね。
https://www.youtube.com/watch?v=sJItuaykRRk
なんというかこう、自分と向かい合う、内向的な、しかし力強くまえに向かう。そんなテーマにあってるんでしょうか。このコード進行は。
ボブ・マーリーの歌も日常にある悲しさと、それでもやっていくしかない、っていう前を向くところがテーマとして似ています。
ここでいいたいのは、このコードを使えばいい曲が書けるとか、切ない雰囲気がだせる、といった小賢しいことじゃあないんです。
自分がいいなあと思う楽曲にたいして向き合い、なるべく多くのことを引き出そうとする営みなんです。より音楽を深く味わうための。
美味しい料理を食べたら、どうやって作るのかな、材料は?香辛料は?焼いているのかな?そういうことが気になるでしょう。
それで、例えばタイ料理好きだったら、そうか!!!私が好きなこの味は、パクチーだったのか!!って発見があったら嬉しい。スーパーに行って大量にパクチーを買ってなんにでもかけちゃう。みたいな。
好きなものがあれば調べて、どうなってるのかたくさん知りたいでしょう。音楽理論も同じです。対象を深く知るための行為だといえると思います。
なのに最近は、「タイ料理はパクチーがかかっているから美味しいんだ!」みたいな雑な人が多くて残念です…それは嘘ですよね。
今食べているこの味はパクチーだということはできても、パクチーを入れれば美味しくなる、ということはできない。
我々ができるのは、何が起きているのか、ということに向かい合うことだけだと思います。
話が長くなってしまいました。戻りましょう。
次はメロディを見て行きましょう。
やはり特徴的なのは、ありのーままでー、という部分ですよね。二回繰り返されています。
ラシドーという部分ですが、これ非常にマイナーキーっぽいサウンドですよね。
コードはFからCに帰る部分ですから、どちらもコードだけ見ると明るいサウンドだといえますが、メロディーはマイナーっぽい。いいですね。
ありのーのあと、Amを弾いてしまいそうになるくらい暗いメロディですが、実際のコードはCなので、この対比が面白いです。
ままでー、はG G D、完全にコードに含まれる音を使うことで力強い印象になっています。またGとDの完全五度の跳躍も力強い。ありのー、の繊細な雰囲気と、ままでー、の力強い雰囲気がうまく対比されています。
二回目の、ままでーは、G 「E」 D とほぼ繰り返しなのですが、「E」でグッとテンションを上げてきています。ここまでは「D」が一番高い音でしたので、さらに高い音「E」が初めて使われたことで、聞いているひとは注目します。
そしてそこから、飛び出してみるのさー、から一気に音高もテンションもあがります。「F」というこの曲中、二番目に高い音が出てきますし、メロディーのラインもぐねぐねと動くテンションの高いラインになっています。
そして最後の、二度と〜、部分です。
高々と「G」を唄い上げます。
「二度と涙は流さないわ。」
彼女の決意が曲中の最高音「G」と共に表明されるわけですね。
僕はいつもあまり歌詞については言及しないのですが、この曲は歌詞と曲の構造が完全に一致し、聞く人を引き込んでいきます。パーフェクト。
このシーンでこのうたを歌う必然性がしっかりとあり、メッセージの高まりと音高の高まりがリンクして、目の前でアナが地面を蹴りつけて氷面ができる。
すごい!
あと動画をみていて思ったのですが、アナは片方しか手袋してませんね。
全く映画をみていないので詳細はわからないのですが、くらい水色の手袋は、アナの心理的なガードの象徴なんでしょう。序盤は全く生身の手を見せずに、手袋しかみえません。
しかし、0:52ごろから、悩んでいたけれどそれももうやめよう、というあたりから左右の手をみせます。つまり生身の手袋をしていない自分自身を、しっかりと見せるのです。
すごいリンク具合。
あの…映画みてないので、もしからしたとんでもない誤解をしているかもしれませんが、許してください。そもそもこの人アナじゃない可能性もありますね笑
ではお疲れ様でした。