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はてなキーワード: 非常階段とは

2024-04-21

刺青がモロに入った反社丸出しのヤカラ系男子は清楚系美人学生とどんどんSEXしてほしい

ただし、絶対強姦ダメ


相手の心を落とさないとダメ


そのうえでヤカラ諸君にはその子のことを単なる肉便器として侮っていてほしい。


”清潔でとにかく無口でテンション低いのが平常運転だけど、自分価値をわかりきってる美人

合意の上でそういう男に股を開いて、ハメ撮りや乱交も喜んで受け入れる・・・・・・

そんなシチュエーションに何よりも興奮するんです私は。

多分、中学時代経験がこういう性癖に影響を与えているのだと思います

メガネ黒髪無口なのにもかかわらず学年No.1人気があった憂いのある美人同級生が、学校最凶と悪名高かったヤンキー同級生と付き合っていたんです。

非常階段の踊り場でバックでヤったw」とヤンキー君が男連中に自慢してたらしいのを小耳にはさんでほんと最高だったし感謝感激だったんですよ。

贅沢いえば……

反社・ヤカラにいいように肉便器にされそのことを喜んでいたのにもかかわらず、

就職した瞬間にそういう過去黒歴史として葬り去り、

大企業勤めの同年代とシレッと結婚し落ち着いた聡明美人の家庭人として豊洲二子玉や品川小杉のタワマンに住む」

そんな締めくくりであってほしいものです。

小生、手使わないで射精しかねないほど興奮します。

とにかくですよ?

一見すると関東連合区別つかないようなヤカラの皆さん(できれば学歴弱者前科持ちであってほしい)は、どんどんこういう女性アプローチしていってほしいんです。

そうしてくれると私、ドピュッドピュッと良く精子を出すことができるのでありますはい



余談ですけどねえ。

「この手の女子は才女、育ちが良さそうに見えるだけで実は反社情婦がお似合いのアッパラパー」

なんて吐き捨てる人、結構ます

でもこれ東京育ちに関しては本当に全然違うんですよ。

しろ彼女女子校で学年生徒数少ないのに例年東大何人も受かるような中高一貫校中学受験で入ってたりして、私立専願ながらちゃんとお馴染みの難関大出てたりするんですよ。

受験生時代から英語世界史が妙に得意だったりしちゃってね!!


それなのに、それなのに……

大学進学後、男なんかに影響されて腹や尻にタトゥー入れてみたり、乱交(反社様やヤリサ幹部様、複数の強き者から求められる悦び)に忌避意識なかったりしてもう最高。

なんのための実家暮しだあ!笑

2024-03-28

https://anond.hatelabo.jp/20240328204343

   石村

   永谷正男 消防次長 消防署長   びっくりして3人で非常階段に出て来る

     どういう風に仲がいいかというと消防長が布団に行けという指令を出して、布団の中で、 だまれクソハゲなどと言い合ってイチャイチャしている。

   富澤佳代子    平成30年3月29日~令和4年2月28日まで、主催シェアハウスに居ついた。

    1階の禿でがなり立てる消防士とは完全に仲が悪い

2024-03-23

anond:20240322000014

自分平成に元年に通った公立中学は不良が廊下で唾はいたり、廊下自転車で走ったり、三階から机を窓の外に投げ捨てたり、体育館裏はたむろするウンコ座りとタバコの煙まみれだったり、教師が首絞められるからネクタイやめたり、非常階段でよく先輩が後輩締め上げてたり、ブラスバンドの先輩にトイレで囲まれ女の子ナイフで威嚇したり、男不良グループ女の子一人相手竹刀リンチして一生物の傷を残したり、不良が授業中に長渕剛熱唱したり、他校の不良が殴り込みに来たりした。

特別荒れた学年だったらしくて卒業式では校長が嬉し泣きしていた。

2024-03-18

anond:20240318215805

男女別トイレの例えは非常階段ですらないよ。要が足せればいいんだから階段の例えは便器とかだろ

2024-03-11

  ざーちゃんはみたことあるけど、おぺちはみたことないから。 びっくりして3人で非常階段に出てきた時代もあったけどあれがそうかと思う。消防長で、年寄り

2024-02-03

婚活パーティに行って現実を知った36歳の冬

当方36歳エンジニア年収600身長172cmPairsいいね数100ほどの戦闘力ダッシャーーー!!

4分で、4分で何がわかると言うのか。顔面年収だけっっだしゅ"!!!

明らかなスペっっくの暴力に蹴落とされた私は、敗者は、えレベータァすら使わず非常階段から帰るのが敗者仕草なりいいぃぃ

俺の何が悪かったのかというと、そうすべて!!すべてである!!!

自己存在を、全てを否定を突きけられるという暴力!!!これが人権が整備された21世紀において許されるシステムなのか!!!

だが受け入れなければあるまいよ

俺にはこれしか出会いがない。

スペッっくを殴り合う場でしか出会いがない。

クソみたいな東京、1人ぼっっち東京だコラァぁ!!

一度で良いから手を繋いでみたいなぁぁぁアああ

またセフレの彼のところに出戻り今日節分手巻き寿司嬉しいな♪

2024-01-06

息子が自分の子供だったから可愛くなった

妻とは高校時代から付き合っている。

大学生の時には「イケメン!抱かれたい!」といつも言っていた同じ高校の先輩の部屋で2人で朝まで宅飲みしていたことを後から俺が知って喧嘩になったり、共通友達と行ったスキー旅行ではゲレンデで仲良くなった他の大学生グループの男と非常階段イチャイチャしてる所を女友達に見つかってみんなで怒ったり、バイト先でバイト仲間と「淫らな行為」を行ってクビになったことを後から友達から知らされて大喧嘩になった。

社会人になって落ち着いたかと思ったら入籍直前に泥酔して朝帰りして、「着替えさせて〜」とヘロヘロになって言うので着替えを手伝ったら全身キスマ塗れで親族を巻き込んで破談しかたこともある。

それでも今まで続いているのは妻の見ていてヒヤヒヤハハラする「放っておけない」と思わせるところ、そして毎回の喧嘩時に見せる逆ギレの怒り顔としおらしい泣き顔のギャップと可愛さに最終的にはやられてしまってきたからだ。

今、俺と妻の間には一人息子がいる。

子供を作った時はタイミングを合わせて連日子作りを行った。発覚時から遡って時期的にも正しい。

ただ、過去のあれこれから子供父親については疑念があった。

子供幸せそうな顔で抱っこする妻を見て「まあ、いいか」となってしまって自分を誤魔化してきたが、ここ最近我慢ならなくなってついに妻の目を盗みDNA鑑定を行った。

お金もかかったし、依頼先全ての結果が出揃うまで精神的に疲弊した。

全ての所の結果が来てから全ての封を開いた。

結論としては俺の子供で間違いなかった。

その瞬間から息子が物凄く愛おしく思えて、それと同時に「この子のために何としてでも頑張らなければ」という責任感と「この子のためなら何でもできる」という勇気が湧いた。

頑張ります

2023-12-30

20年以上前の性被害の話

連日、超有名お笑い芸人さんの8年前の性加害疑惑話題を目にする。

真偽については現状定かでないためお笑い芸人さんにも被害者とされている方々にも肩入れする気はないし、正直自分とは無関係ことなので当事者同士で納得のいく結末になればいいね、悪いことをした人がいるならそれ相応の罰が下るべきだね、とそれくらいの気持ち

ただ、旧ジャニーズの時も今回も「●年も前の話をなぜ今になって」という第三者の声が聞こえる。

それについて思うところがあって、でもそれを友達家族には話せないので、この日記を書くことにする。

私は、30歳をとうに超えた独身女。

同級生たちはみな結婚して子育てに忙しい。

そんな中、私はいまだに独身で、結婚願望もあんまりない。というか、自分には結婚は無理だと思ってる。

私は、いまだに20年前の性被害を引きずっている。

いや、「性被害」なんて大仰に言うべきではない。

レイプされたわけではない、なんなら、身体を触られたわけでもない。

小学校4年生だった私は、当時同じマンションに住んでいた高校生のお兄さんに非常階段に連れ込まれ、四つん這いになってお兄さんにお尻を向けるように命じられた。お兄さんは私のワンピースを捲り上げた。私は怖くなってその場から走って逃げた。文章にすると、それだけ。

たったそれだけのことを、いまだに私は、家族にも友達にも誰にも言えずにいる。

大人になったいま、カウンセリングに行ってみようかなと思うこともある。

だけど実際に自分の口からそのことを話す勇気が出ない。

勇気というか、なんだろう、なぜかわからないけどいざ言葉にしようとすると、何も言えなくなる気がする。

「性被害」と言うにはあまりしょうもない

20年以上も前の話だし、ただスカートを捲られただけ。

他人からすれば「たったそれだけのこと」だし「なんで今更?」と思うようなこと。

自分だって、心のどこかでずっとそう思ってる。

なんでたったそれだけのことを引きずってるの?なんで今更そんな話するの?って。

からずっと、誰にも言えなかった。

だけど、「たったそれだけのこと」を、私は今でも昨日のことのように思い出す。

あの日着ていたワンピースが何色でどんなデザインだったか、膝をついたコンクリートの冷たさや駆け降りた階段の情景まで鮮明に。

それ以来も男の子友達はいたし、今でもいる。

いいなと思って付き合った人も何人かいた。

だけど性行為想像すると途端に嫌になって、せっかく想いが通じ合って交際が始まっても、すぐに自分から別れを切り出してしまう。

最初はなんでなのか自分でもよく分からなかった。付き合う前はあんなに好きだったのにどうして?って。

いわゆる蛙化現象みたいなものなのかなと思ってた。

だけどある時「男の人に性欲を向けられることがたまらなく怖い」のだと気づいた。

はいまだに独身で、いまだに処女だ。

家族にも友達にも言えない。

20年以上も前のことなのに。高校生のお兄さんにスカートを捲られただけなのに。

30年以上生きてきて、今更ようやく、こんな匿名日記で初めてやっと話せた。

そういう人もいる。

あの時の高校生のお兄さんは、あの日以降も同じマンションに住んでいたはずだけど、一度も顔を合わせていない。

私はもう関係のない場所に住んでいるし、実家も違う場所にある。

きっと私がいまだにあの時のことを思い出して苦しくなっているなんて、あのお兄さんは思いもしないだろう。

それどころか、私のことなど、私にしたことなど、とっくの昔にすっかり忘れてしまっているだろう。

だけど私は、きっとこれから先も忘れられない。

「●年も前の話」なんて、当事者以外が簡単言ってはいけないと思う。

そう言えるのはきっと本人だけだし、本当に苦しんできた人はきっと誰より「●年も前の話なのにこんなこと今更言うべきなのだろうか」と散々自問自答した挙句、ようやく言えたのかもしれないから。

2023-11-06

君たちは本当の弱者男性を知っているか

私の容姿スポーンクラウンに似ている。

あのバイオレーターのクラウンである

昨日、深夜2時、近所の自販機で買った飲料水を袋に詰めてマンション玄関前に立っていた私を見て、

一人の女性の住人がギョッとした顔でこちらを眺めていた。

うちのマンションオートロックである

私はオートロックの内側の人間である

まり、正当な住人である

にも関わらずである嫌悪侮蔑の形相でこちらに向かってくるのである

私は慌ててドアを開け、マンションに入った。

エレベーターで一緒になるのもあれなので、非常階段を登った。

俺が非常階段目的の階に着いたとき、そこにはエレベーターから降りた彼女がいた。

なんてことだ!同じ階の住人?だったのである

俺は小声でひたすら「すみませんすみません…」と繰り返しながら、そそくさと自分の部屋へと戻っていった。

当然、バイオレーターになんかならなかった…。

2023-08-01

臭い

三日くらい前にうっすらと、昨晩は濃厚な生ゴミと古い油を混ぜ込んだような臭い玄関前まで漂ってきた。

マンションに住んでいる。で、玄関開けて廊下を右に行くと非常階段。左に行くとエレベーター階段がある袋小路

自分の部屋は玄関開けると外が見えるんだが、左の部屋はエレベーターがあるので外が見えない。てことはウチの左へ行くと換気がなく、空気はその場所に滞積する。

説明が下手で申し訳ないが、そんな感じの設計になってる。

話を戻す。昼間買い物に出ようと玄関を開けた瞬間、これまでよりもキツイ、強烈な臭いが鼻を突いた。もとより臭いに弱いのでえづいてしまった。

ゴミ屋敷?そんなことあるか?異常だ。管理人に伝えようとエントランスに出たらウチの隣に住むおばさんと別フロアに住む男性がいた。

住人の多くは顔見知りで、人によっちちょっと話し込むことも珍しくない。古いマンションだと住民の多くは長く住んでおり、そんな風土になる。

「ちょうど臭いの話をしてたのよー!」

臭い、ひどいですよね」

「そうそう!おかしいよねー!!」

「なのでいま管理人さんに相談しようと思って」

「それがいいよねー!」

管理人室が目の前に、なんなら小窓もあるというのに直接相談しないで何話してたんだろう?

そんなことはどうでもいいが小窓を叩き、管理人相談してみた。

エレベーター前があまりにも臭い。突き当りなので臭いが流れず漂っているので確認してほしい。

で、管理人、おばさん、男性自分の四人で問題フロアまで行ってみた。

いつもは通り過ぎる際に「臭い」と思っていたがその場に留まってみるとより強烈な臭いだとわかる。

何度もえづく。嫌な気分。

臭いの元はどこなのか。廊下の突き当り左右に玄関がある。そのどちらかから臭ってきているのは確実だ。

管理人がそれぞれの玄関に顔を近づけ臭いを嗅ぎ、インターホンを押し、ノックをした。

どちらの部屋も反応はない。ただ管理人住民生活サイクル、昼間在宅しているメンツを把握しているらしく、右部屋住人は昼間働いているので平日は不在だろうとのこと。

左の住民はというと老婆らしい。週一で介護訪問する以外ほぼ外出はしない状態だそうだ。

真夏。気温は連日37℃近く。それでも「クーラーは体に悪いから」と暑い最中扇風機で済ませてしまう老人はまだまだいるらしい。

そんなことを思い浮かべながら最悪を想定する。

管理人は老婆の部屋の玄関を激しくノックしたが反応はない。

ここまで見届けた。自分用事がある。

管理人に報告した」というミッションを済ませたのでその場を辞した。

用事を済ませ帰宅。イヤな臭いは相変わらず。何もしないで放置されるのも困るな。

と思いつつ一杯やりつながらテレビを見ていたらノックが。もう夜の9時を回り、宅配を頼んだ覚えもない。

不審。チェーンをかけ最小限に扉を開けたら救急隊員が立っていた。

「夜分すみません。奥の部屋の様子を見たいのですがベランダを使わせてもらえませんか?」

最悪の可能性が高まる。つかほぼ確定だな。二つ返事で迎え入れる。ドカドカと数人の救急隊員が入室してくる。真っ先にベランダへ。

そこからはただの傍観者になるだけだった。

「入れるか?」

「あー、窓のカギ空いてますね」

「様子どうだ?」

「…………」

そんなやり取りをしていた。

確定だ。最悪だ。もう耐えられない。とりあえず外へ。この空気から少しでも離れたい。あの臭いはやはり死臭だったのだ。

外出する準備を整え玄関を開けると救急隊員と警官トータルで10はいただろうか。それとおそらく知らせを受けた老婆の子夫婦。

目は合わせられない。逃げるようにエレベーター飛び込み、馴染みの飲み屋へ。マスターに頭から塩を振ってもらう。

痛飲、暴飲。どちらでもいいが酒をがぶ飲みして酔いたかった。

3時間も飲んだだろうか。もう色々な処理は終わっているだろうとフラフラと帰路に。

エレベーターに乗り自分フロアについた。扉が開く。臭いはどうだろう?

かすかに漂うがほぼ無臭に近くなっていた。ような気がする。

気がする、というのはもうあの臭いを覚えてしまたからだ。死臭。鼻につく。

これを書いている時点で昨晩の出来事臭いの元である遺体は運び出されてもまだ部屋の掃除が始まっていないのかもしれない。

本当に漂っているんだろうか?それとも臭いを覚えてしまった脳が思い出させてるんだろうか?判断できない。それがとても嫌だ。

自分の部屋は締め切って、外部から臭いなど侵入してこないはずが、鼻が覚えてるんだろうか。

ふとあの臭いがこみあげてくる。最悪だけれど老婆が末期この世に残した記録、記憶なのかもしれないと思うとそのこと自体嫌悪感はない。

人は死んでもどうしようもなく記録をのこし、人の記憶に無理やり潜り込んでくる。そんなもんなんだろう。これまで経験したことのない不思議感覚

ただ自分だけで抱えるにはキツく辛い。かといってSNSで共有する話でもない。ということではてな匿名ダイアリー

読んでしまった人には謝罪感謝を。この経験を共有してくれ。

冥福を祈る。

2023-06-27

タバコ休憩は悪か

Twitter話題になってるね。

ウチのヤニカスは1時間10分15分近く路上喫煙しに行くからゴミカスだと思ってる。

前は社内に喫煙所が有ったんだけど、維持費がハンパねぇって言うんで(会社経費で維持したら非喫煙者にも負担が行ってる事になるし)

利用する喫煙から徴収するって話にしたら、誰も払わなくて喫煙廃止

尚、廃止が決まった途端やれコミュニケーションがとかなんとかゴチャゴチャ言い出しててゴミカスだった。

挙句廃止になったら借りてるビル非常階段喫煙する様になって賃貸破棄されるレベルの大問題になった。

で、会社前の路上でガキみたいにスパスパ吸いだした。

当然またビル管理会社から苦情。

次にターゲットになったのが近所のセブンイレブン

当然路上喫煙禁止されてる区画なのでセブンから会社に苦情が来る。

ゴミカス共、いよいよ始末書を書かされる。

それでも懲りずに(というか役員が主導して)裏手の他人駐車場で吸い始めた。

先日警察沙汰になってまた会社に苦情が来た。

役員必死にもみ消してるけど、本社にチクられてるっぽくて草。

結局タバコ休憩を欲しがる奴らの人間性なんて総じてカス

ヤニ切れでメンタルイライラする程度の人間性廃人

休憩はすべきだが、タバコ休憩は要らんだろ。という結論

2023-05-01

苦手なものが多い

辛抱が足りないと思ってる節もある。

実名で書き綴る自信がないので、いっそのことここでまとめてみる。


熱いもの

猫舌ならぬ猫肌と呼ぶくらいには熱いものに弱い。

器が持てない、布越しでも鍋の蓋を持てない、極めつけは熱い湯に入れない。

器が持てないだけで、おしぼりで包んで持った飲み物普通に飲めたりするので、猫舌の気はあるけれど容器の熱さに比べるとそうでもないのかもしれない。

アトピー持ちなので昔から肌に良い温泉に連れて行かれたのだが、本人は湯が熱すぎるとミリも入れないので親には苦労をさせた。

ある時は先に入ってるおばちゃんたちが「今日はぬるめなのに」と言いながら蛇口をひねって水を入れてくれたこともあって、とても申し訳なく思ってる。

今も苦手なので、複数湯があるところは、熱くないところを探して入ってる。

感覚過敏という言葉を知って、それに該当するのかもしれないと思ったけど、知ったところで世の中のものが冷え冷えになるわけでもないのであった!



乗り物

乗り物酔いをすごくする。

助手席でもする。

昔はすごく吐いてた。

免許を取ってから運転席を譲りたくないが、運転スキルはさほどでもないため、人を乗せると高確率悲鳴が聞こえる。

何かで縦揺れで酔うとか見たので、たしか座席が横向きの電車はあまり酔わないなあと思った。

寝不足などの体調不良だと、電車だろうが飛行機だろうが何でも酔う。

酷いときは車を運転しながら酔ったこともあり、本人としても信じられなかったので睡眠ちゃんと取るようにしている。


苦くて飲めない。

〇〇とか甘いよーと言われても苦い。

社会人なりたてのとき礼儀と思ってカルアミルクだかカシスオレンジだかのアルコールを頼んでたけど、頼んでも半分以上残すくらいならと思ってソフトドリンクを頼むようにした。

場所によっては今日車なので……が使えるので断りやすい。

自分限界を知る、とか言うのをやってみたかったけど、飲めないもんだから知りようがない。

アルコールパッチテストは赤くならなかったので弱くはないんだと思う。



辛いもの

人が辛くないと言うものを辛いということで有名。

味噌ラーメンとかの辛さはそういうもんだと認識してるので、ちょっと辛いのは食べられる。

ただし、これ辛くないよ、って言われたものが辛いことはよくある(2回目)

最近だと無印の辛くないカレー

唐辛子も入っていないので、本当になんでだろうと思って、考えながら食べたところ、おそらく生姜を辛いと認識していたのかなあという結論に辿り着いた。

頑張れば食べられるけど、頑張らなきゃ食べられないので食べたくないというのが本音です。

ハヤシライスはおいしいね

あれって実質ハッシュドビーフなんだってね。



わさび/から

辛いもの苦手なら言うまでもないかもしれないけども。

寿司はサビ抜き、納豆からし抜き……。

納豆からしに関して言えばよくよくかき回せば風味消えるんじゃないのと思いつつも、不安でいつも抜いてしまってる。

最近回転寿司チェーン店オールサビ抜きで嬉しいけど、スーパーかに売ってるお寿司はサビありだったりするので、わさびが舌に直撃しないように食べて、直撃してアーーッしてる。

大人になればサビ抜き食べれるなんてウソだった。

情けない。



炭酸

きっかけはよく覚えていないが、苦手。

小6くらいに「そろそろ飲めるんじゃね?」と言われたので、たしかにー!と思ってコーラを飲んだら辛い!と感じてそれっきり飲んでいない。

パチパチするお菓子も食べてないが、口に入れたらどうなるか目に浮かぶので食べてない。

おそらくは刺激が苦手なのだと思う。

セルフドリンクバーソフトドリンク入れて飲んだとき炭酸ないはずの飲み物がびりってきて飲めなくなったときがある。

おそらく前の人が炭酸頼んでいた場合、それの残りがちょっと垂れて微炭酸になったのだろうと思って、今では念の為ちょっとだけ自分の飲むドリンクを出してからコップに入れるようにしている。

お店の人には申し訳ないと思ってる……。



コーヒー/紅茶

コーヒーは味がしない……ように感じる。

ものによって酸っぱいとかは分かるけど、コク?とかそういうのはまるで分からない。

紅茶は変な味の水という認識

紅茶好きな人ごめんなさい)

緑茶は好きなので、おそらくは西洋飲み物が舌に合わないだけなのだろうとおもっている。

でも、なんとかランチがある店に行くと、「食後はコーヒー紅茶どっちになさいますか」と聞かれる。

世の中の人間、どちらも飲めると思わないで欲しい。

一時期、いっそのこと頼まなきゃいいのではと考えて断ったら気を利かせてアッツアツのほうじ茶を出された。

が、そもそも熱い器が持てないので飲むに飲めず、時間差し迫っていたので残してしまった申し訳ない。

結局、頼むとしたら紅茶で、砂糖ミルクをたくさん入れて味をごまかして飲むしかないのである



果物

リンゴミカン以外ほとんど苦手。

柔らかい食感が苦手だったり、ぶちぶちした種が苦手だったりと言うのがほとんど。

ミカン柔らかくね?って思うけどなんで食べれるんだろう)

食べ慣れてないのもあるかもしれないけれど、たいていの果物って柔らかくてうにゃうにゃしててあまったるくて、吐きそうになる。

産地のモモパリッとしていると聞いたので気になる。

口にしたことのあるモモは水で流し込まないと食べられない。

なので、旅館デザート果物の盛り合わせが出ると水攻め死ぬ

苦手だからか、イチゴを食べたとき他のひとはあまーい!と言っていたのにすごくすっぱかった。

当たり外れがあったのかもしれないけど……。

ちなみにイチゴジャムかぶどうジュースは飲めるので、加工品は大丈夫

要するに食感が苦手なんだろなあと思ってる。



高いところ

俗に言う高所恐怖症である

非常階段のような階段は手すりがあっても半泣きで登る。

酷いとき劇場の二階席がナナメってる構造?で、二階についた途端、言い表せない恐怖で泣きだしてしまった。

あれは建物設計が悪いと思っている……なにがベストなんとか賞だよ!!

名前覚えてないけど。

昔は普通階段でも怖かったので、今はそれなりにマシになった……と思いたい。

たぶん安全場所を通っているだけで、マシになってないというオチな気がする。



グロテスクもの

突然抽象的になったぞ!?

生物資料集直視出来ず、物理を履修しましたが、テストの成績はさっぱりでした。

最近で言うとシン仮面ライダーの冒頭。

あんケチャップシーンあるとは知らずに見てしまって半べそかいてたが、リサーチ不足の自業自得だよバーロー

なので、世間で絶賛されている各種作品進撃の巨人東京喰種チェンソーマンなど)が見れなくて歯がゆい思いをすることもある。

でも怖いので無理。

つらい。

ダレン・シャンデモナータを読んでてぐええってしてたのはどう考えてもおかしい。



ーーー



思いついたのはこのへん。

なんかこの人生きづらそうって思う。

2023-04-03

眠れない夜を乗り越えて

ある人の徒然なる、日記



今日は久しぶりに泣いた、いつぶりだろうか。

泣いた理由は大切にしていた相手とすれ違ってしまたかである、すごく悲しかった。

「私はあなたを大切にしていたのに、私をあなたは大切にしてくれなかった」

そんな言葉で始まった最後階段での話し合い。いつも議論するのは決まって4階の非常階段

僕と彼女特別関係名前のない関係。もしかしたらそれを付き合っているって言えたかもしれないし、言えなかったかもしれない。

さよなら

最後は僕のそんなあっけない言葉だったけど、それでも彼女もおそらく納得しただろう。




最初些細なすれ違いだった。

彼女がよくあるじゃじゃ馬くん(以下じゃじゃ)と会うようになった。彼女と日程も似ているし、階も同じの彼に。

僕は不信がった、僕への「好き」って言葉は嘯いた彼女の口癖なんだろうか。

そんな軋轢は、僕らの口論へと繋がった。

ー君はどうしてあんな奴といるの?

彼女

距離を取るね、この前好きって言われたから。」

距離は結局、僕の気持ちを満たすほど広がらなかった。それはまるで月と地球のように。物事には全て引き合う力がある。

彼女は僕への態度が冷たくなってきた。彼と会う時間が増えた。

僕はさらに辛くなって、辛くあたった。負のサイクルだった。





ある日、僕の部屋で彼女からこう言われた

「〇〇との関係見直したい。」

もし誰かと付き合ったことがある人ならわかると思うけど、彼女の目は完全に冷めきっていた。絶対僕のことは好きではないだろう。

ー話し合って今後を決めたい

そんなことをひとまず呟いて僕はその場を終わりにした。

でも不信感っていうのは自然と大きくなるものでーまるでみたくないのにのぞいてしまう期待みたいにー膨らんでしまった。

僕は勝手確信した、あ、もう付き合ったんだな、彼と。

体が勝手に動いて、Lineブロックして削除してしまっていた。アカウントがなくなった。通知も来ないかもしれない。

僕はその日から胃が痛くなった。初めてだった。ストレスだろう。




それでも界隈は近いので彼女とはイベントで一緒に運営することになっていたので、僕はラインでの出来事を忘れたみたいに。

着物似合っているね

言ってから気づいた。ああ、もう戻れないんだった。悲しかった。胃が痛かった。

そうして、やっぱり僕との関係がある時から付き合っているような話を聞いた。確信があったわけではないので、ああそっかと思うと共に怒りが込み上げてきた。

ちょっとあいつ呼んでくんない?

僕は咄嗟に友人に声をかけ、いつもの非常階段に呼び出した。

まず僕は二つ質問した

ー付き合っているの、そしてそれはいから

彼女はこういった

「付き合ってる、あなたブロックして削除した後に」

「私はあなたを大切にしていたのに、私をあなたは大切にしてくれなかった」

「彼は私が辛い時に支えてくれていたし、私に優しくしてくれていた」

すれ違っていたのだ、しかも致命的に。髪をかき揚げ、動揺を抑えられない僕は

ーえ、でも、、

ちょっと待って、まず聞いて」「あなたは私が嫌っていってもすることがあったよね、それも嫌だった」「私は本当に嫌だったのに変えなかった」

ー僕は変えたかったけど、話し合いの場所がなかったじゃん。しかもそれに比例して僕らには同じ時間を過ごすことが消えてった。全部あいつのせいじゃないか

ー僕は怖かったんだ、世界で一番大切なあなたを失うのが。あのくそのせいであなたは僕とは一緒になる時間が消えてった。

ーいつだってあなたが一番大切だった。

ーそして結局、君はあっち側にいるじゃないか

僕は一通り話した後、泣きたかった。でも泣けなかった。彼女は泣いてた。

「私はあなたのことを大切にしたよ?いろんなことにあなたを誘ったし、それでいろんなとこに行く予定を立てたよね、」

「今回だってあなたが嫌いだっていって部署を変えたりしたよ」

「私はあなたが大切だったの」

「でもあなたは逃げたでしょ、私から。」

ーでも君が付き合っていると思ったから、、、、ばからしいじゃないか、誰かを好きな誰かを大切にするなんて

あなたが削除してから、私は彼に相談したの。彼はそんな私を受け止めてくれて、しかも思いを伝えてくれた。」「私は彼の気持ちを受け止めたの」「1人になりたくなかったの」

「まだ彼についてはあまりきじゃないけど、それでもこれから好きになっていくって決めたの」

ーでも、俺は自分が一番あなた理解しているって思うー僕は正直言って、、、、、

僕は階段を見上げた、赤い配管がある。どうにか2人を元に戻してくれよ、魔法の力で。そう思いながら、言葉を続けた。

ー愛していた

少しの沈黙の後、僕らは目を合わせた。

「そうかもね、でもね、あなたは逃げたの」

涙を流す彼女をみて、僕はああ、泣かせちゃったと思った。正直嬉しかった、多分僕を大切にしてくれているんだなって思った。本心は複雑すぎて泣いているんだろうけど、僕はそうとりたかった。

ー泣かないで、私はあなたが笑うところが好きなの

彼女の髪を撫でてそういった、そういつもみたいに。前に戻ったみたいだった。髪サラサラなところ、好きなんだよなって。

「もう戻れないの?なんか私がしてあげるから、それで埋め合わせたい」

ー付き合いたかった、それが全て。

「付き合ったばかりなのそれは今はできない」

涙を流しながら。彼女は泣いていた、泣いてほしくないな。

ーそっか、じゃあ幸せになって。

そう言って、僕は額にキスをした。私にとっての最後I love youだった。

あなたもね」

そういって話し合いは終わった。

僕はブロックを解除して、友達に追加した。そしてチャット最後言葉を連ねた。

ありがとう幸せになってほしい、僕が今日言ったことが全てだよ、他の人が何をいようとそれを気にしないでほしい、ありがとう

もう少しして、ラインが来た

「もし、〇〇の留学が終わったら会えるといいな。」「あなたには本当になんでも話せた初めての人なんだ。だからあなたとの思い出は忘れない。」

彼女は、中高時代いじめられていた、リスカをしていたことも拒食気味なこともあった。彼女は大切な友人を事故で亡くなくしていた。だから自分は周りを不幸せにしているといった。そんな彼女に僕は、もう二度とそんなことをしてはいけないよって伝えながら、リスカしていた腕をさすったのが僕たちの出会いだった。神田の小さな飲み屋さん。その後2人で汚いベット爆睡したんだっけ。僕は彼女あなた幸せになれるって言い続けた。初めてだったのにいろんなことを話せる人に会えたって嬉しがってたっけね。

あなた幸せになって」

「たくさん怒ったりいったりしてごめんね」

少しして、僕は溢れ出す言葉を終わらせるために本当の最後を連ねた。

ありがとう、もうやめたいけど、言葉が溢れてくる、なぜなら涙が止まらないんだ。

本当は泣いてなかった、でも泣くと思っていた。涙はそこまで来ていたからだ。図書館で、そんなことをチャットして、そして僕の大好きでーそして今の僕にぴったりなー曲を添付した。 Out of Time by the Weeknd

さよなら

まりはいだって曖昧で、終わりはいだって明確だ。



僕は部屋に戻ってOut of Timeをずっとベットの中でリピートし続けた、自分に言い聞かせるように。聞きながら彼女との思い出を全て消した、それで終わりなんだ。気づいたら涙が流れていた。

親友に連絡した、自然と僕は落ち着いていた。気づいた時には胃が痛くなくなっていた。

人生やな

眠れない夜を乗り越えて。

2023-04-02

医者を辞めることにした

初期研修医です。3年目になりますが初期研修が終わりませんでした。

ずっと親の敷いたレールの上を必死で走ってきました。わりと(物理的に)叩かれて育ち、幼少期、物心ついた頃から医学部に行って医師免許を取りなさい、手に職をつけなさいと言われてきました。それ以外の選択肢はないものだと思っていました。

本を読んだり、海外ドラマを観ることが好きだったので、語学文学勉強したいなあとふと気づいたのは高3の秋。でも高校の理数科に所属していて、馬鹿なりに頑張っていたので成績はまあまあ良い方でした。気づいてしまたことに蓋をして、地元国立医学部に現役合格しました。

学生時代はそれなりに楽しかった。部活一生懸命になって、自分がやりたいことがなんだったのかを考えることはしませんでした。友達もできました。

問題卒業してからでした。

初期研修は市中病院で始めました。でも1年目の6月に、消化器内科をローテートしていたとき、あまりにも臨床が自分性格に合わず体調を崩し、休職しました。わたしは自他の境界線曖昧で、入院患者さんが訴える苦しみや、患者さんが亡くなることに耐えきれなかったのでした。それでもなんとか休職明け頑張って仕事を続けていたけれど、その間何度死にたいと思って泣いたかからない。気づいたらわたしうつ病と診断されていました。自殺未遂を繰り返しました。

3月30日わたしはこれで最後にしようと思ってマンション非常階段から飛び降りようとしました。幼少期の辛い記憶も、普通に医学部卒業して初期研修を終えて専門に進むというレールに乗れなかった自分も、全部終わらせようと思いました。でも、死ねなかった。結局わたし死ぬのが怖かったんです。幸せになりたいと思った。死ぬことを選んだのは自分だったのに、死にたいんじゃなくて生きたかったのだった。

もったいないと思われるかもしれない。医者を辞めます普通に縛られて生きるのはつらいから。

勉強して、もう一度大学に入り、好きなことを学び、自分人生を、親に言われたままではなく、生き直そうと思います

2023-04-01

築50年都内マンション様相 身寄りのない高齢者の補足

身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。

 

 コメントで、築50年、1970年代に作られたマンション様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。

 

 このマンション1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取り3LDK私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。

 小学校入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれ班長レストランせがれが副班長スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋社長理工系技術者保育士共産党員福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋おやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油砂糖がないときは借りに行ったりというつあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域情報を過剰に共有していた。マンション商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったか情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。

 おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者ほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり住民がいぶかしがるような時代だった。独身者アパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民マンションに住むという構造だったのだと思う。商店街コンビニレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しか資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京未来を信じていた時代だったのだと思う。

 その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由暮らし謳歌していた。文化的地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。

 そんな2000年代。わが地元マンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化たからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンション世帯四方にあり、衛星放送アンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたときマンション理事会が開かれるという。私は屋上衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話インターネットに繋いでいた時代の話だ。

 「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンション構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下であるエレベーターマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段けが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人住み込み管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心いたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦住民とは打ち解けている。数年前、管理会社方針住み込みでの雇用は打ち切るとなったときマンション自治会自治会費で管理人室を買い取り、管理人雇用することになったとのことだ。そのとき声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込み管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠管理人介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人裁量判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。

 

 とりとめなくなってしまった。地域先生の話をひとつ

 マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球サッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭大人行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師夫人が、先生師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき野球サッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。

 たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生最近どうなのという話題は常にあがる。先生スーパー下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。

2022-11-24

タトゥーガッツリ入った反社丸出しのヤカラ系男子は清楚系美人女学生とどんどんSEXしてほしい

ただし、絶対強姦ダメ

相手の心を落とさないとダメ

そのうえでヤカラ諸君にはその子のことを単なる肉便器として侮っていてほしい。

”清潔でとにかく無口でテンション低いのが平常運転だけど、自分価値をわかりきってる美人

合意の上でそういう男に股を開いて、ハメ撮りや乱交も喜んで受け入れる・・・・・・

そんなシチュエーションに何よりも興奮するんです私は。


多分、中学時代経験がこういう性癖に影響を与えているのだと思います

メガネ黒髪無口なのにもかかわらず学年No.1人気があった憂いのある美人同級生が、学校最凶と悪名高かったヤンキー同級生と付き合っていたんです。

非常階段の踊り場でバックでヤったw」とヤンキー君が男連中に自慢してたらしいのを小耳にはさんでほんと最高だったし感謝感激だったんですよ。

贅沢いえば……

反社・ヤカラにいいように肉便器にされそのことを喜んでいたのにもかかわらず、

就職した瞬間にそういう過去黒歴史として葬り去り、

大企業勤めの同年代とシレッと結婚し落ち着いた聡明美人の家庭人として豊洲二子玉や品川小杉のタワマンに住む」

そんな締めくくりであってほしいものです。

小生、手使わないで射精しかねないほど興奮します。

とにかくですよ?

一見すると関東連合区別つかないようなヤカラの皆さん(できれば学歴弱者前科持ちであってほしい)は、どんどんこういう女性アプローチしていってほしいんです。

そうしてくれると私、ドピュッドピュッとおチンポ練乳を出すことができるのであります

はい

2022-08-29

ぼったくりバー店員だったことがある 其の一

かに話したくなってきた。

まだ二十歳ほどの頃、地元広島特に定職に就くこともなくアパート暮らしをしていた俺は、昔からの繋がりの先輩に誘われて、客から高い金を踏んだくる店で働いていた。

福山駅付近にある繁華街だった。福山といったら知名度ほとんどないが、桃太郎電鉄の青マスとして出てくる程度には良いまちのようだ。当時の俺は、そのへんのアパート暮らしながら、昼はコンビニアルバイトで、夜はそのバーで働いて、それで明け方に自宅に帰って昼過ぎまで寝る。そんな毎日だった。

地元が懐かしい。もう6年は帰っていない。来年には帰ってみようか。増田民で、もしお勧めスーパー銭湯とかラーメン屋とか焼肉屋とかあったら教えてくれよ。

すまないが推敲はほぼしていない。変な字があったらごめんよ。

ちょっと自分語りをさせてほしい。滅多にない機会なんだ。いいだろ?

正直、あまりいい門地の生まれじゃない。大きい河川沿いで生まれた。加茂、という地域だ。歴史のある地域に付けられる名前らしい。

幼稚園の頃は、今頃の時期になると数日に一度は木造の家が床下浸水していた思い出がある。江戸時代はいわゆる部落というやつだったらしい。小学校の頃から家の近くにある集会所に近所の子どもらと一緒に夜集まっていた。学校先生が来て普通に勉強を教えてもらうこともあれば、平和活動やら差別糾弾やら総括やら、物騒な単語が飛び交う学びを体験することもあった。

官公庁の前に100名くらいで出かけていって、平和活動(という名のデモ)をしたこともあったっけ。市役所や県の事業所の前で大きい横断幕を持って、大声でシュプレヒコールをやっていた。

それで、くだんの集会所には、たまに偉い雰囲気の人が来て「昔は食べる物にも遊ぶ場所にもトイレにも困る環境でしたが……君たちは我々を含んだ先人のおかげで……君たちも皆のために必要あらば社会と戦って、これからもいい時代を作りましょう」みたいな話をしていた。

なんでも、その先人が高校生の頃、県立府中高等学校先生が授業中に被差別部落のある辺りを指さして、「あそこにのう、四つが住んどる!」と大きい声で生徒に注意を促したことがあったらしい。それで、キレたその先人は、その先生に何度も何度も何度も挑んで、巧緻を尽くして作戦を練り、仕舞いには証拠を突き付けて皆で糾弾して転勤させてやった、というのがその偉い人(当時国会議員。故人だけど一応伏せる)の話だった。

当時の自分は目ヤニを擦って話を聞いていた。自分達が隣保館に通っていた最後世代だ。中学生になる頃には学習活動はすっかり無くなっていた。今ではただの地域集会所になっている。

親は、あんまりよくなかったかもしれない。言うことを聞かなかったら暴力暴言は当たり前だった。内容的には、農業の手伝いや畑の草刈り洗濯物を畳むなどのまっとうな義務もあれば、親の張りぼて見栄を張るためのアイテムになることも多かった。要するに、母親の親戚や友達の前では『優等生』でなくてはならなかった。

ちょっとでも問題発言をすると、家に帰ってからボコボコに殴られ蹴られする。あれは今でも覚えている。小学校5年の時、叔母にからかわれてキレてしまった時、母が木刀で俺の後頭部を強打したのだ。今でも頭を触ると分かる。あの時殴られた箇所が凹んでいる。あれは痛かった。



というわけで、そんな環境で育った人間がまともになるはずもなく。中学校に入る頃には、すっかりと暴力癖のあるキッズへと成長していた。

当時の地元中学校は、荒れに荒れていた。原動機付自転車で通学する者や、青い髪で授業を受ける者や、卒業式特攻服を着る者や……。学校トイレは○○の場になっていた。月一くらいの頻度で、女子中学生が体を売っているか、無理やり犯られているかのどっちかだ。オリジナル制服としてセーターを作って着用する女子生徒もいた。けっこう可愛かった記憶がある。

先日、母校のホームページを見てみたが、当時とはまったく違った様子で驚いた。無邪気に笑って学校活動をする中学生達が映っていた。平成10年代の当時は、あん中学生は少なかった。ヤクザみたいな見た目の男子だとか、娼婦みたいな目つきの女や、死んだ魚の目をしたような(≒いじめを受けている)雑魚どもや、無敵の人の予備軍みたいに無気力になってる奴とか、そんなのばっかりだった。

それで、ついにある時、新築に近い状態体育館タバコの不始末が原因で全焼してしまう。いやあ、あれには参ったね。体育館での授業や部活動、好きだったんだが。

グーグルマップ。クチコミを参照

中学生がごく普通に喫煙していた。あの日、俺が4時間目に体育の授業でバレーをしていた(※だらしない恰好をして髪も染めていたけど、授業はちゃんと受ける方だった)ところ、3年連中がステージ上の柔道場でタバコにしけ込んでいた。先生に止める様子はない。当時の中学校では、校内でタバコを吸うのは暗黙に認められていた。

休みチャイムが鳴った後、俺も先輩方にタバコに誘われた。生意気な1年坊主だったと思うが、可愛がってくれる先輩がいた。が、当時は鬼のように厳しい暴力教師しか部活顧問)がいて、そいつが苦手だったので、見つかるような嫌な直感がして断った。あの時の俺はツイていた。

荒れ放題の中学校だったけど、それでも何とかなっていたから、教師も生徒も油断してたんだろうな。その3年連中の吸ってたタバコのうち、柔道場の畳に押し付けて消し忘れたやつが段々と燃え広がって、昼休憩になると「ジリリリリ……」と自動火災報知器が反応した。

しかし、それでも誰も何もしなかった。なぜなら、週に一度は誰かが校内にある自火報をイタズラで鳴らしていたからだ。感覚がマヒしていた。

昼休憩の中頃、体育館ステージ後ろの屋根から煙が出始めてようやく、教師連中が消火器を持って体育館突入したが遅かった。昼休憩が終わる頃には生徒は全員校庭に避難していた。体育館を見ると、2階部分の廊下に何十枚と並んだガラスが熱で一斉に割れていく光景があった。なんかもう、凄かった。同じく窓ガラス沿いのカーテンも50m分は並んでいたと思うが、最初カーテン燃えたと思ったら、僅か3,4秒ほどで全てのカーテンに火が付いた。

担任先生が、「いつかは起こると思っとったわ。馬鹿じゃのう」なんて呟いていた。それで、消防車が到着したのを確認すると、校舎への延焼の危険がないとのことか、またみんな教室に戻って、何十分か待たされて、先生が来て、その日は非常階段を通って裏口から下校となった。マスコミが押しかけていたのを覚えている。下駄箱まで進入していた朝日新聞記者を、先生らが怒号とともに追い払っていた。

なんか、ここまで書いただけで精神力ほとんどを使ってしまった。拙い文章力で恥ずかしい。ほかの長文増田は、明らかにもっといい文を書いてる。

火事があった次の日には、あの3年連中は全員しょっぴかれていた。家庭裁判所審判を受けて、ほぼ全員が少年院にぶち込まれた。ほかに、彼らと交流があったり、間接要因になったと思われる生徒は裁判所に出向いて証人として発言することになった。俺もその一人だ。最低でも二回はいたか

その次の年度は確か、校長ほか数名が異動になって、最強に厳しい先生方が教委から強権を委任されて当中学校に赴任し、不良どもを善悪あらゆる手段で抑え込んで、俺が高校生になる頃には不良は全くいなくなっていた。

俺の下の代には、強面の奴とか異常体格の奴がいなかったという事情もある。教師暴力を働くような狂犬タイプもいなかった。東京リベンジャーズの1巻で喩えると、当時はキヨマサ君みたいな中学生が最低5,6人はいた。一方で、俺の下の代のヤンキー(予備軍を含む)は、タケミチみたいな標準体型の子が多かった。

当時の俺ですら、何となくわかってたんだ。背伸びしてタバコを吸ったり、チャンスがあったら酒とか飲んだり、女子モテたくて喧嘩をしたり、セブンイレブンの前で駄弁ってたりしたけど、本当はわかっていた。勉強するのが一番いいんだって。最善なんだって

俺の父親会社経営者だった。祖父地元市役所の偉い人で、曾祖父町長だった。親戚だって職業はそれぞれ違ったけど、みんな金持ちだった。親戚同士の集まりには、うちの家の駐車場に高そうな黒塗りや真っ白の乗用車が並んでいた。

彼らに共通していたのは、社会が認めるであろう分野で相当な努力を積み重ねていることだ。俺みたいに、学校先生にとりあえず反抗してるだけじゃなくて。信念があって、そのために動いてる。

法律も慣習も、常識非常識も、論理的思考人間関係の機微も、曲がったこともまっすぐなことも、とにかく何でもかんでも現実をまっすぐに見て、あの人達が何が正しいかをいつも考え抜いていたって、今ではちゃんとわかる。

あの当時の俺も、今の俺も、これらのことができていない。だからこんなに落ちぶれた。血筋はいいのに。俺はくずになってしまった。

そろそろ筆を休める。いい文が書ける気がしない。また明日投稿してリンクを貼っておく。

https://anond.hatelabo.jp/20220830220250

2022-08-07

マンション危機管理不安を感じた話

近所のマンション侵入しようとして非常階段のドアノブを回したら鍵がかかっていたのだが、これは防災的な観点から問題があるのではないだろうか

この状態だと例えば正面玄関火災が起こって正面から内部に入ることができなくなった場合消防士非常階段から内部に入って消火活動や救助活動を行うことができなくなってしま

もちろん内部からであれば住人が解錠できる仕組みになっているだろうが、これは言い換えれば内部から解錠されない限りは外部から解錠することはできないということだ

住人が火災に気づかなければ消防士マンション内部に入れず、スピーカーなどを使って避難を呼びかける手間と時間が生じて安全性の欠陥となるだろう

もし住人が火災の初期段階で正面玄関から避難していた場合解錠を行う人が内部にいなくなり、やはり消防士が内部に入ることができなくなってしま

そのときに本当に住人がみんな避難していればまだいいのだが、小さい子どもや体の不自由な人などが内部に取り残されている可能性が否定できず安全性問題が残る

非常階段に設置された安全のための鉄の扉が、消防士を阻む障壁となってしまっているのが現状なのだ

事故事件など物騒な話が増えた昨今、マンション非常階段というごく身近な場所でこのような重大な危機管理の欠陥が放置されているとは呆れてしま

一刻も早い改善を求める

2022-07-26

anond:20220721164130

見えたことあるな。

男子生徒フロアが上階だったんだが、大人数で館内階段を使うと迷惑という理屈で、一部の部屋は屋外の非常階段使うことになってた。

非常階段降りてたら、女風呂の開けられた天窓から洗い場が見えて、背中側は直接、腹側は鏡経由で丸見えだった。

同級生の裸だ。

え? って困惑しながら、数人でしばらく見てしまった。

普段使わない階段からな、ホテル側も認識無かったんじゃないかな。


似たようなので風呂以外。

別のホテルで、クソボロいホテル男子が下のフロアだった。

押入れに入ると、上の部屋のトイレの音が丸聞こえだった。

上のフロア女子な。

すぐに直上の部屋のメンバー確認してしまった。

2022-06-23

anond:20220623163504

地震エレベーターが止まった時は、非常階段上り下りしてたよ。

非常扉は、中から自由に空けられるけど、外からは鍵を使う必要があった。

非常階段って基本的に降りることにしか使わないのではないかという気付き

しか屋上ヘリポートがあるとかだと登ることもあるか

救急隊員が現場直行するために使うとか……いや、非常階段って外からは中に入るためのドアが開かないようなビルもあったはず

じゃあやっぱり非常階段って基本的に降りるためにしか使われない階段なんだなあ

2022-04-15

anond:20220415065434

非常階段出入り禁止はそれで理由つくけど給湯器自体を使わせなくするのはわけわからんくない?

サボるなって理由なら短時間なら給湯器使ってもいいじゃん

anond:20220415064646

給湯室や非常階段毎日のようにサボってたんだろ

トイレの個室の長時間占有もやってただろうし

派遣時間を売る商品なんだから、決められた時間は決められた場所にいないと返品されても文句言えない

派遣所詮部外者から

その日を快適に過ごすことを心がけてたたら

給湯器テプラ社員専用って書かれたり

非常階段に鍵がかけられたりして

ついには出禁になったな

2022-03-21

anond:20220321184208

3日分ぐらいの食料の備蓄はやってるな。

カロリーメイトならぬライトミールをたくさん買い起きてる。たまに食べて消費してるね。

水はポットぐらいしかないんだよね。

昔はペットボトル飲料を大量に箱買いして飲水代わりにしてたけど、最近値上がりが辛い。

それと抗生物質風邪薬とかも少し備蓄してる。

東欧のどっかで半年ぐらい戦争無政府になった時に、必要だったもの武器抗生物質というレポートがあったので。

残念ながら、武器銃刀法規制されてるから、薬の方をおいておくようにしてる、病気がちなのもあってね。

地震津波にも備えているつもりで、常に大きなマンションの4-7Fぐらいに住むようにしてる。

この高さな津波は来ないだろうし、これだけ丈夫な建物なら津波にも地震にも耐えると思う。

そして火災が起きても徒歩で余裕で非常階段から逃げられる高さだと思ってる。

ただ、核戦争は想定していなかったので困ってる。

ヨウ素を買うべきか?アメリカ人は大量に買っているらしいが・・・

攻撃されたら地下シェルター以外なら、建物の一番奥が一番安全らしいけど該当する部屋はトイレぐらいしかないので辛い。

仮に核攻撃を生き延びても持病あるから、処方薬がなければぼろぼろになって死んでいくだろうなと思ってる。

コロナのおかげで処方薬を出してくれる日数が延びたけど、防災考えれば半年分ぐらいほしいよなあ。

プレッパーとかは脱出方法かにも備えているんだろうけど、そこまではできてないな。

小型飛行機船舶は維持に金がかかりすぎるし。

まあとりあえず、個人的な備えはこんなところかなあ。

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