はてなキーワード: 神経細胞とは
避妊せずにセックスをすれば必ず妊娠するとは限らないので、「こうなるとわかった上でそうした」という風に意図的な行為として扱うことは不適切なのでは。
他の記事で出ていたように、がんや肺気腫に罹患すると知っていながら喫煙した人間、あるいは身近な人間の喫煙を止めきれなかったために副流煙を浴びた人間に対して、全面的に自己責任とみなして医療補助は必要ないとするのに近い。
セックスをしなければ確実に妊娠しないことは分かっているので、それをするということは可能性を甘受すると言うこと。煙草が本来嗜好品であり、健康を害するのが目的ではなく、喫煙の頻度に対して健康を害する程度が小さいのに対して、性行為は妊娠する/させるのが本来の機能である。事故を意図的に引き起こせば過失致死ではなく殺人が適用されるのと同じ話である。
胎児については、意図的に意志を問う機会が奪われ無視されているのではなく単にその方法が無いだけ。中枢神経も完成していない胚のいかなる反応をもって「意志」とするかなど議論が待たれる。人間の価値判断は明らかに後天的に身につける価値観に左右される部分があるので、そもそも細胞の動きを生存意志の有無に結びつけて考えることは理にかなっていないという考え方もできる。
妊娠は両親によって意図的に引き起こされたものとすることは上で述べたように一律に適切とは言えない。婚姻関係にある男女が双方納得の上で性行為を行い妊娠に至ったというような場合以外はすべて意図した妊娠とは言えない。
単にその方法がないというのであれば、どのみち意思確認はされていない。されていないものをされているかのように扱うのは意図的なミスリード。人が自意識を持つに十分な神経細胞を発達させるには生後約2年がかかるが、生後2歳以下だからと言って乳児を殺害していいということにはならない。君が自我が芽生える前の乳児を殺害しても良いというならばそれはそれで論理的整合性があるが、そうでないならばただのためにする詭弁でしかない。これは生物上の実態を現実の法律にどう落とし込むかと言う話であって、生物と法律双方の理がそもそも異なっている以上、どこかで恣意的にならざるを得ず、発生へ至る最初の部分からを保護するのがより理屈に合うと言うだけの話である。
性交渉をコントロールすることは十分に可能であり、実際になされている。そのうえで妊娠という現象が発生しているので、強姦以外はすべて意図された妊娠である。
では言いなおそう。
会社に対する労働基準監督署の是正指導には強制力がなく、監督署へ相談した相談者は自ら刑事・民事告訴を行わねばならない。
また会社側は「妊娠・育休取得による解雇である」と明言しさえしなければ解雇自体は可能であるので、業績や勤務態度等から勘案したと主張すれば産前産後休業以外のタイミングでの解雇は正当化される。
また虚偽である。君は平気で嘘をつく人である。労基法は強行法規であり、是正勧告には期日指定の強制力がある。妊娠が実際には理由であるのに他の理由で解雇することはケース的にはあり得るが、表面上それが妥当とされるならば、それが妊娠が原因で解雇されたとは言えないはずである(言うとすればそれは主観的な判断でしかない)。そうした個別の違法措置に対して、事実認定において裁判を起こさなければ確定しないのは罪刑法定主義とその運用上当然のことであって、これに限ったことではない。実際には裁判になれば、妊娠の事実があれば仮に本当に他の要因によって解雇したのだとしても、妊娠を理由としての解雇と見なされるので、コンプライアンスに留意している大半の大企業では解雇はあり得ない。
「堕胎罪を厳罰化することで、出産をあきらめざるを得ない妊婦を追い込むべきではない」- これがあなたの結論であって、すべて、この結論から論がなされている。ただしくポジショントークである。仮にそういう人がいるとしても、ヒトとなり得る胎児の生存権をすべて否定して守るだけの公共的な利益があるかどうか疑問であるし、実際にはその前段階で幾つもの過程で選択肢が与えられている。また、本来の法設計の思想上も、そうなっている。
根拠は?
性行為が複数名でしかなし得ず、強姦で無い以上、合意のうえと見るのが妥当であるというか、そういうしかないのだが。一方的に女性のみが被害者というのは思い込みに過ぎない。
1 :考える名無しさん:2012/02/08(水) 16:54:38.50 0
しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居ます。
分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけです。
分子生物学と生理学の対象分野「分子レベルの現象」が全てです。
「この宇宙」で人間の脳だけが「特殊な物質」であるとする科学的根拠は
全くありません。人間の脳も地球上における「物質の進化」の一過程に
すぎず、人間の脳が造り出す『意識』も何ら「特別」ではありません。
「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ物理・化学法則により
決定されております。自由(意志)感は文字通り『感じ』にすぎません。
量子論の「不確定性」は意識には何の関係もない「単なる観測問題」です。
以上が「超・大統一理論」=量子論と相対性理論の統一後に残存し得る
誰かに決定論を論破してほしい。
本当は意味や価値の世界で生きていきたいのに、私の意志は力なく因果の海に漂うだけ。
死にたい。
以前パニックの件ではないけど、憂鬱が度を過ぎて仕事に支障が出たことがあってちょびっと相談はしたんだよね。
でも薬は出なかった。だからそういうレベルなんだろう。ということにしている。
親の背を追えないっていうのは能力とか時間が限られてるってのもあるんだけど、どっちかというと適性とか意志の問題って感じだ。
時間を巻き戻して親の背を追えそうなところに戻ったとして、俺は追わないし追えない。
専業主夫悪くないけどw 難しいだろうな。他人となにかを共有するっていうことがとにかく難しいと感じる。
神経細胞を共有しているわけじゃないんだから根本的に無理って意味でもそうだし、そもそも人と共有するようなことなんか無いって意味でもそう。
上を目指す女性に対して炊事とか掃除を提供することはできても、たぶん女性の方はそれで「応援されてる」とは思わないだろう。
マンガでわかる心療内科〜とかでよく「本人が困らなければ病気ではない」って言うじゃん。
そしてトリイ・ヘイデンの本によれば「誰もあたしを痛めつけることはできないんだよ。あたしが泣かなければ、あたしが痛がってることはわからないでしょ。だからあたしを痛めつけることにはならないんだよ」。
あれ頭いいよね。発想が。頭いいっていうか、よくできてる。
可能性の話をすればそりゃ「あるかもしれない」でしょう。でも同様に、影響を与えるかもしれない因子は無数にあるんで、「どのくらい影響があるか」っていう量的な話を抜きにして「あるかもしれない」とだけ言うのは無意味なんですな。
とりあえず「性格」という大雑把な括りで言えば、色々基準を変えて試してもあるのかないのかわからんくらい弱い相関しかなさそう、ってあたりに落ち着いてるってことでは。
将来、例えば神経細胞の微細構造に血液型に依存する違いが見つかった、って話が出てくる可能性はゼロではないけれど(血液型を決めるのと同じ染色体に載ってる別の遺伝子の変異が…とかいうこともあるだろうし)、そうだとしてもじゃあその構造の違いが何にどのくらい影響してるのかって話が重要で、やっぱり性格のような高次で総合的な形質については今と同じ判断基準で見る限りはっきりした影響はないでしょう。今見えてないものが基準を変えずに突然見えるようになるわけがない。今気づかれていない、何かすごく特殊な能力について実は差があったりするのかもしれないけれど。よしんばそういうものが見つかったとしても、限定的なものだってことですよ。
突然だけど、いろいろ考えていたことをメモしていきたいとおもいます。
人はよく、なぜ生きるのか、死ぬのか、人を愛するのか。そういう問題にぶつかっては悩みますが、それに関する私の考えです。
といっても私はしがない18歳の高校生です、なので文章に至らない点がたくさんあります。
人類が生まれた時から、自然現象ではありえない物質がどんどん生み出され、地球は壊滅の一途を辿っていくが、それにくよくよしても仕方がないっていうのが私の持論だ。
なので、人類がやり残したことが無いようにどんどん便利な世の中を追求していけばいいと思う。
また、綺麗な自然を守りたい人がいたなら思いっきり守ればいい。
ただ、現在の自然環境を守る技術だって、技術発展ありきのものがたくさんある。それでもし私たちが生きれる時間が延びたとしたら、それに感謝することもあるだろう。
しかし人々はその生きた時代における最先端を探して、結果として後世に残されていくんだ。
そういうことを考えるうちに、法治国家ってなんなんだと考え出す。
人類の技術、技能の発展ならどんどんしていけばいいけど、社会性ってなんだろう?
考える。
考えた末に、法がある最大の理由は人間の幸福のためだと気付いた。
すべての人間を縛り付けることによって、すべての人間が自由になれることを目指す、それが法だ。
だから、本来は大量虐殺なんてあってはいけないし、強者が弱者から必要以上に搾取するのもあってはいけないこと。それをなくすために法があるんだ。
言わずもがなでしたね。
社会の教科書を読めばもっと簡潔かつ分かりやすく法律のことが書いてあるのだと思います。
そう結論にたどり着いたら、今度は人間の本当の幸せってなんだろう?という壁にぶちあたる。
それは愛なんじゃないかなって思う。
いろんなものに向ける愛だ。
それは異性であったり、家族であったり、自然や、文学かもしれない。
一般的に人には好まれないものを愛する人だって多くいるはずだ。でもマイノリティって超大事、今日の当たり前が明日のそれとは限らない。
その愛の対象も一つじゃなきゃいけないってことは無い。大きな愛を持っている人は素敵なのである。
そうして、そんな愛に満ちた世の中がなぜ出来上がったのかなって考える。
どうして人は愛が無ければダメなのだろう。
それで思い出すのがこれだ。
http://www.brain-book.com/report/cell-brain.html - 脳の神経細胞は宇宙と似ている?
別にこの記事の真偽はどうだっていい。
これで、私という一人の人間が生きやすくなったという事実が重要なのである。
自分の生きる意味とかを常にゴネゴネ考えて「死にたい」っていつも思ってた私がこれを見て、
「自分が、自分にしか無い世界を毎日つくっていけるんだ、素敵。」
と、思えた。
と気付いたのだ。もしかしたら私は、凄く楽観的でめでたい性格なのかもしれない。
同時に、自分は誰かの想像でしかなくて、とてもちっぽけな存在だと思ったら楽になれた。
失敗したって、一時つらいだけだ。
そして、大好きな人たちを想うと無数の星たちが互いに煌めくんだ。頭のなかで。
脳内でたくさんの人々が、出会い結ばれるのである。頭の中が愛で満ちているのはどれほど楽しいことだろう。
そうやってたくさんの人たちが無限につながっているのが世の中だとしたら、何てすばらしいんだろうって思ったんだ。
家から一歩外に出れば、みんなが友達だ。
こうやってインターネットが普及したことによって、簡単に自分のことを誰かに伝えることができる。
本来はつながるはずのなかった人達と、出会える。技術の発展がなければ成し得なかったことだ。
人間ってすばらしい。憎い面も愛すべき面もたくさん持ち合わせているのだ。
人は支えあうべきだし多少のわがままもゆるされる。
こういう結論です。
悲しい時は、周りに助けを求めるべき。周りもそれを欲している。
そして嬉しいことがあったら、周りの人におすそわけしてあげるべきなのだ。
「そんなの、きれいごとだ」
そう言って笑われても、全然かまわないのだ。
こうやって、素敵な世の中に住んでいる、そう考えられることが私の幸せなのだから。
だから今、だれかにおすそわけしたくなったのだ。
思うんだけど、現在は、個人という「神経細胞」から、「ネット」というシナプスを
伸ばしている段階なんじゃないだろうか。
個人と個人を、意味のある結びつきをするための経路を延ばしつつあって、
それが多くなれば、それこそ集合智=脳化した社会が出来るのではないか?
個人という神経が繋がることで、全社会が脳になるのではないか?
・・・とすると、不完全なシナプスが、もっとよく繋がるための、個人向けネットサービスは、これからもいろんな形で商売になると。
で、現在の問題点は、ラストワンマイル・・・個人からネットまでのインターフェイスが
これも、ブレインマシンインターフェイスの発達で、近いうちに解決するのではないか。
「大人になっても頭を良くするためにはどうしたら良いか?」が特集され、
脳に良い習慣 脳に悪い習慣 などが色々紹介されていた興味深かったです。
もちろん脳に良い習慣や生活を続ける前提での話のようですが、
専門家の話によると、脳の神経細胞同士を繋ぐ神経線維は発達し、
神経線維の成長は70歳でも80歳でも止まらず一生涯成長し続けるのだとか!
1: 1日の予定を書く
3: 食事の際、目隠しをする
5: 部屋の模様替えをする
6: 月に1回思い切って高い買い物をする
7: 喧騒の中で他人の話に聞き耳を立てる
9: 知らない人と会話をする
10: 行った場所までの地図を描いてみる
●脳に悪い習慣
1: 愚痴を言う
2: 趣味がない
3: 終わりが見えると安心してしまう
Explorer | Science of Babies | National Geographic Channel
http://channel.nationalgeographic.com/series/explorer/3090/Overview
ヒトは他の動物と比べて、遥かに無防備で無力な状態で産まれてくる。それにも関わらず、そこから最初の一歩を踏み出すまでに、赤ちゃんは劇的な成長を遂げる。産まれる瞬間から二本足で立って歩き出すまでの約一年間、赤ちゃんに起きる様々な変化を、発達の経過に沿って検証した番組。
ヒトは一生の間におよそ6億回(一分間に10回として、一日で1440回。100歳まで約36,000日として計算した物と推測)の呼吸をする。その中で最も重要で、しかし最も危険な、初めての呼吸。母親のお腹の中に居たときには母体から酸素が供給されていたけれども、一度産まれてしまったら、そこから先は自分で酸素を供給しなければならない。ほんの数分酸素が断たれただけでも、ヒトの身体は回復不能な障害を受ける。産まれた瞬間の赤ちゃんの肺は、羊水で満たされ溺れている状態。だから、産まれて初めての呼吸は、通常の呼吸の10倍から15倍の労力が必要となる。肺胞の隅々まで空気をみたしてやらなければならないのだ。この最初の呼吸によって、肺の中の水は血流に吸収されていく。
産まれるまでは母親の体温で暖められていた身体も、自分のカロリーを消費して体温を保つように切り替えなければならない。その体制が整うまでの期間、充分に体が熱を作れるように、新生児は熱に変換しやすい褐色脂肪を豊富に蓄えて産まれてくる。冬眠中の熊のように。
赤ちゃんが、今現在の成熟度と大きさで生まれてくるようになったのは、今から約800万年ほど前。他の動物と比べると、ヒトの新生児の頭は(身体との対比で相対的に)大きい。赤ちゃんが産まれてくるタイミングは、母親の骨盤の広さと新生児の頭部の成長との兼ね合いで、ぎりぎりくぐりぬけられる大きさになったときである。真っ直ぐには出て来れず、一度頭を90度回転して骨盤をくぐり、さらにまた90度回転して出口の骨を避けるようにして生まれてくる。
ヒトの赤ちゃんはとても無防備な、無力な状態で産まれてくる。他の動物、例えばサルと比べても、自立するまでに長い時間がかかる。ヒトに最も近縁のチンパンジーでも六ヶ月くらいで歩き始めている。そのようにかなり未熟な状態で産まれてくるにも関わらず、ヒトの新生児も生まれながらにある種の動物的な本能を備えている。それは生存の為に重要な反射運動であり、またある種、進化を裏付けるような原始的な反応でもある。
まだ歩くこともできない生まれたての新生児は、抱き上げて支えながらかかとを地面につけてやると、両足を交互に繰り出し、まるで歩き方を知っているような反応を示す。でも、その反射は六週間後には消えてしまっている。ところが、不思議なことに、水の中ではその反応が蘇り、そうして反応を誘導してやると、それ以降は消えることがなくなる(番組では、透明な浴槽の中に赤ちゃんを抱きかかえて下半身をつけてやっていた)。
他によく知られている生まれながらの反射運動には、次のような反応がある。
これらは、どれも動物の生存本能に共通する原始的な反応といえる。
赤ちゃんの考えていることを知るのは難しい。しかし、赤ちゃんの認知力の一端を覗く、いくつかの方法がある。ある研究者は、赤ちゃんが何か違和感を覚えた時に、対象物を凝視する時間が長くなるという現象に目をつけた。この時間を計測することで、赤ちゃんが何に気付き何を認識しているのかを探ることができる。その研究者は、新生児が数を認識する(簡単な足し算引き算の)能力を持っていると考えている。行われた実験はこうだ。まず、一つだけ置かれている人形を赤ちゃんに見せる。そこをついたてで隠して人形を見えなくしてから、そのついたての裏にもう一体の人形が入っていく様子を見せる。そして、見えない位置からこっそりその人形を取り去った後で、ついたてをおろす。赤ちゃんから見れば、そこには二つ人形があるはずなのに、一つしか無いという状況。そのような矛盾がある場合、なにもトリックを使わない場合と比べて、人形を凝視する時間が長くなる。二つの人形を見せて、そのうちの一体がついたての後ろから出て行くところをみせたのに、ついたてをよけてみると人形が二体に残っているという引き算の矛盾にも、その反応が観察されることから、赤ちゃんは生まれながらに数の認識を持っているに違いないという話。
まだ自分で動くことのできない赤ちゃんにとって、飛び込んでくる外界の刺激はもっぱら光と音ということになる。聴覚は視覚よりも先に発達していて、お腹の中に居ても母親の声を聞き分けられるけれど、視覚は産まれてから外部の刺激を受けながら、徐々に発達していくもので、この段階ではまだぼんやりと対象物を捉えているにすぎない。
とはいえ、母体の中と比べて外界は刺激に溢れている。流れ込んでくる大量の情報を処理していく体勢を整えていく必要がある。ヒトの体には、約10億の脳細胞、神経細胞、ニューロンと呼ばれる情報処理に携わる細胞が存在する。これらが、外部から飛び込んでくる刺激を情報として捉え、ネットワークを構築していく。一つ一つのニューロンは、個別の電話機のようなもの。細胞間の情報は、シナプスと呼ばれるリンクを介してやりとりされる。最初は外界のあらゆる刺激がネットワークをフルに刺激していて、あちこちの電話機が絶え間なくなり続けているような混線状態。その中から、必要な連絡網だけが残るように、ニューロン同士が互いにリンクし合う相手を求めて競合している。この過程を可視化して映像に捉えた研究が紹介された。最初は筋繊維に複数のニューロンが繋がっているが、黄色と青色、色違いで染められた二つのニューロンがある筋繊維に連結しようとしている。最初はどちらも繋がっているように見えるが、この二つのニューロンは互いに競合し合って、最終的に一方の色に染められたニューロンだけが残るまでの過程が観察される。ニューロンネットワークが形成される様子が見て取れる。
未完成ながらも、ニューロンネットワークが成熟するに伴って、運動神経がやや発達してくる。頭を持ち上げたり、寝返りを打ったり、ものを掴んだりすることができるようになる。
野生の動物や鳥、昆虫などは、生まれながらに餌の捕まえ方や身の守り方を知っている。数を数えることさえ生得の本能だ。それが発揮できず、他者のケアが無ければ生きられない、ヒトの新生児は非常に未熟な状態と言える。そのような状態で産まれてくることは不利なことなのか、いやそうではない。生まれついての本能はそれ以上発展することがない。しかし、未完成な状態で産まれてくるヒトは、環境や経験から、より高次元の習性を構築することができる。これが学習する能力の特徴である。
学習して能力を獲得するのには適切な時期があり、その時期にきちんとした情報の入力とニューロンへの連結が行われないと、その能力は形成されない。使われない機能は失われていく。三ヶ月くらいの新生児は、各国の言語で微妙に異なるトーンを聞き分ける能力を持っているが、その後六ヶ月を過ぎてしまうと、一番身近な言語の発音を聞き取る能力だけが大きく発達していく(マルチリンガルに育てるためには、六ヶ月までにいろいろな言語を聞かせておけという理論の根拠はここにあるようだ)。
需要のない能力が失われていく話題に関連して。三ヶ月あたりで、目のレンズと視神経との連絡が完成する。この時期に、適度な情報が目を通して与えられることで視神経を構築する。ある赤ちゃんが片方の目のレンズに問題があることがわかった。このままだとその眼球からの情報入力がないために、ニューロンの連結に不備が生じてしまうということで、レンズの機能回復手術を行った。手術そのものは一時間ほどで無事に終わったが、その後の検査で、もう一方の健常な側の目に眼帯をした、なぜか。回復させた眼球を強制的に機能させ、視神経を発達させるため。
運動機能はさらに発達して、座ることができるようになる。つかまり立ちや、立ち上がるまでには至らなくても、ハイハイをして動き回れるようになり、行動範囲が広がる。ハイハイのスタイルには個性がでる。これは新生児それぞれの運動機能の発達状況は環境に依存するもので、成長に関してあまり重要ではない。この時期に最も重要な発達は、学習したことの再構築ができる柔軟性を得ること。自分から動き回れるようになって、取り巻く環境が劇的に変化する。外界からの刺激もさらに複雑なものになる。遭遇する危険も増える。座れるということは、バランスを崩して転ぶことができるということ。自分で動けるということは、溝に落ちたり、何かにぶつかったりできるということ。それなのに赤ちゃんには、届く/届かない、バランスが崩れる/保てるといった認識がまだ無いので、無鉄砲で失敗を繰り返すことになる。目標物以外に注意を払うことや、体バランスの取り方など、失敗の経験から、環境に適応していく脳の柔軟さが求められる。この時期の赤ちゃんの運動機能の発達を研究している様子の映像。何かを見つけてそれを取りにいくという動機で動き回るようになる。その間に溝などの障害があっても殆ど認知されていないで突き進む赤ちゃん。その過程で失敗を繰り返し、危険を回避するという学習の過程が認められる。
ニューロンネットワーク発達中の情報処理の取捨選択の別の例として、顔や表情の認識がある。ヒトやサルの顔写真を見せ、新生児の脳波の変化を測定することで、どのような違いを認識しているかを観察した。二ヶ月くらいまでは、人の顔のパーツの配置が乱れていても識別できない、三ヶ月くらいで、顔を顔として認識するようになる。この段階では、サルの顔写真一つ一つの個体の違いを区別している。しかし、六ヶ月くらいになると、サルの個体を区別しなくなっている。必要の無い情報処理の能力が失われている。代わりに、ヒトの表情の違い(喜怒哀楽)に敏感に反応するようになっている。
この時期の発達過程は、自閉症と関連づけて注目される。孤児をケアする施設で研究されている内容。一般的な家庭環境と比べて、この時期に人の表情に接する機会が少ないと、表情を識別する能力の発達に影響が出る。他者の感情を表情から読み取ることが難しいという自閉症の特徴に関わっているかもしれない。
運動機能の成熟、ニューロンネットワークの成熟、言語の獲得とそれに伴って起きる変化。
言語の獲得には多大なリソースを割くので、使われない能力はより顕著に消失していく。生後十二ヶ月で約40個の言葉を認識し、さらにその一ヶ月後には100個まで増えている。
ある新生児の言語獲得の記録。全ての部屋にマイクと天井から見下ろす魚眼カメラを設置して、起きている間の赤ちゃんの行動と言葉を発していくまでの過程を観察した映像。馴染みのあるモノや身近な者を通して、言葉やフレーズと対象物やイベントとをリンクさせようとする。新生児がある対象物を認識してBa、 buh、Dahといった発声をするようになる。それに対して親がDad、Ballなど、はっきりとした言葉でリピートしたり、Blue ballという形で発展させたり、あるいは動作や行動と組み合わせてフレーズで返したりする。フィジカルなイベントとソーシャルなイベントの関連づけが、言葉を学習していくプロセスである。
新生児が言葉を学習する過程を分析して、学習するロボットの開発に取り組む人たちの紹介。ロボットに「赤色」の「ボール」を取ってと指示するがロボットには対応できない。絶えず変化する状況にも対応できる学習する能力の柔軟性をいかに獲得させるかが鍵。
運動機能だけでなく、骨格も充分に発達して、肩幅も広がり、足も伸びて、筋力もついてくる時期。ここに至って、頭を持ち上げての二足歩行、つまり歩き始める準備が整う。
四本足で歩く動物はその移動の為にカロリー(消費カロリー全体の?/摂取カロリーの?)の約50%を消費する。その観点でみると、二足歩行は移動に関して非常にエネルギー効率が良い。さらに、両手をフリーにすること、より大きな容量の脳を支えることができるという利点もある。このような点に二足歩行の意味がある。
赤ちゃんすげえ。という完全に私的な興奮から、自分が理解した内容の備忘録としてここを利用させていただきました。理解のあやふやな箇所がたくさんあるので、誤った記述が含まれている可能性はかなり高いです。特に言語獲得のプロセスに関する部分は未消化だという自覚があります。何ヶ月〜何ヶ月というのは、整理のための大凡の目安として個人的に捕捉したもので、これを一般化して赤ちゃんの成長を評価するものではないです。水中で歩行する話だとか、数を数えられるよという映像は、ちょっと観察手法の正当性に注意が必要な気がしました。赤ちゃんのリアクションが周囲の観察者の期待に影響を受けていたりはしないだろうかと(昔、計算が出来る馬の話のトリックについて聞いたことがあるので)。
ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP 赤ちゃんの不思議
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