はてなキーワード: 疑似科学とは
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20110220/1298191592
藻谷浩介『デフレの正体』を「疑似科学」「トンデモ」と決めつけてるけど、それってリフレ派が言ってるだけじゃね? 本当にそうなの?
http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2011/02/post-c69b.html
って意見だってあるんだからさ、本当に「疑似科学」「トンデモ」なのか、きちんと議論すべきじゃね? 本当に「疑似科学」「トンデモ」なら、それを誉めそやす大竹教授は悔い改めてもらわなきゃいけないわけで。
そもそもリフレ派って、素人の論説ばっかり叩いていて、経済学者同士での論争をほとんどしないよね。やたらと「専門知」を振りかざして「世間知」をくさしてるけどさ、だったらまず、きちんと「専門知」としての地位を確立してみろ、っての。え、アメリカではみんなそうだって? じゃあ客観的に証明してみろよ。少なくともクルーグマンが何度も批判しなきゃいけないぐらいには、反対派がいるわけだけど、リフレ派ってそういうことには触れないし、主観的な主張だけじゃ信頼するに足りないね。
そういう考え方を疑似科学という。
通常、生物学者は適応的な形質を「○○のための形質」と呼ぶ。このために、しばしば進化には意図や方向性がある、または目的論を含意していると誤解される。
進化という概念は、日常生活でも頻繁に使用されるためか、誤った形で理解されている事が多い。よく見られるものは、次の三点である。ひとつは進化が目的を持っておこなわれている、という誤解。もうひとつは人間という種が進化の最終ゴールである、また、だから人間になれなかった他の生物よりもわれわれは立派な存在である、といったタイプの誤解。そして最後のひとつは、進化と進歩を混同している誤解。この三つである。
また、生物の究極的な運命や、生物がどうであると言う言明と、人間がどうであるべきと言う主張は全く別であるとも述べている(「である-べきである議論」も参照)。
ホメオパシーだの代替医療だのといった、いわゆる疑似科学についてはあらかた意見が出されていて、もう議論の余地はないと思われるのだが、そうした問題について考えるとき、どうしてか疑似科学それ自体、もしくは推し進める当事者のことばかりクローズアップして、疑似科学を支持する利用者のことがあまり注目されないのはちょっと妙な話であり、この偏りはマズいのではないかと思う。
科学というのもつまるところ美術や文学と同じであり、考案者と追実験者のコラボ、それを追いかけて信憑性や科学性を視認する研究者、そうして知識として蓄積された学問を後追いで学ぶ学生といった階層性が歴然として存在する。確からしさや権威は独創的な「表現者」が単独であれこれと試行錯誤するだけでは付随してこず、「鑑賞者」が群がってあれこれと議論することで科学体系は形成されるのだ。
とすると疑似科学もそれと同じことで、それが科学の衣をまとっていられるのは、「表現者」の誤謬だけではなく「鑑賞者」の支持も多大な要因としてあることが推測されるだろう。ところが件のホメオパシー議論では、「表現者」にばかり気を取られて「鑑賞者」側の心理を分析していくアプローチがあまり見られない。それどころか、医学と一対一対応させて医学に軍配を上げ、だからホメオパシーは誤りである、といったお決まりじみたストーリーで反駁する主張ばかりで、ホメオパシーという体系がなぜ批判されねばならないのか、という根源的な問題への解答を避けているものが少なからず多い。そうした偏向はつまるところ科学の絶対的真理性や反証可能性、さらにはアプリオリな真理の存在といった諸々の難解なテーマになんら疑問をもつことなく、権威の安楽さにフリーライドしていることの裏返しであり、彼らもまた科学という教条に絡め取られているのではないのかと危惧するに到る。
もはや焦点は「なぜそれが正しいのか」ではない。「なぜそれを信じるのか」である。「科学は正しいから美術や文学とは違う」と言い張る人間がいる。そのくせ地球が丸いことを実地で確かめたこともないのだからおかしいものだ。正しさの担保が分からないなら、それは正しいのではなく信じているのである。ならば、「科学者ならそれ(=科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という反論は一見成立しそうだ。だが、それは同時に「疑似科学者ならそれ(疑似科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という主張となんら変わりないように思える。なぜなら、正しさの担保は今現在明確な形で示されていないからである。
ポパーにしろクワインにしろ、ある点で建設的な、もしくは過激な条件づけで科学の特徴を言語化しようとしたが、どれも一長一短で、条件づけした途端にそれまでれっきとした科学の一部であった知見が科学でなくなってしまう。幸い、ホメオパシーについては科学でないということはテストによって容易に示されるかもしれないが、知識の欠けた「鑑賞者」に関しては全く問題が別である。それがありがたい体系で身体の健康に役立つと感じられるなら、ホメオパシーもまた利用者にとって十分に医学でありうる。この認識論的な事情は科学全般に延長できてしまうものなのだ。
今一度、問題点を問おう。科学というものは、証明能力を有する人間と利用する人間とで「正当」の意味内容が著しく異なり、しかも当の科学者であれ「正当」の普遍的な根拠が未決定の状態である。こう表現するとホメオパシー擁護論にも思われるかもしれないが、それは誤解だ。ここで言いたいことは、たとえホメオパシー支持者が科学的思考の持ち主でないとしても、ホメオパシーという体系それ自体が非科学的であることを決して意味しはしないこと、そして現代医学の科学性がホメオパシーの非科学性を意味しもしないことだ。後者の指摘については、免疫学が謎めいた「自然治癒能力」を反駁することが(今現在)できていないという一例でも分かるだろう。必ずしも、ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではないのである。また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。
治療に関して、被治療者にはいかなる治療を受けるか選択できる権利がある。このことをしっかり認めた上で、ホメオパシーに傾倒する被治療者を理性的に説得することは、果たして可能なのだろうか。
子供が小学校にあがるまでにまともな社会生活ができる程度の社会性も身につけさせることのできなかった親に疑似科学を批判する資格なんかないよね。
「小生が今週の生き物係としてカエルのケロッピくんならびにテナガエビのナガトちゃんの餌やりを担当することに異議を挟むつもりはない。しかし小生がA型乙女座であることを以て担当すべきとするのは明らかに不当であり、容認しがたい」
「だがちょっと待ってほしい。小生は職責を果たすに吝かでないが、A型は細かいことに気が付き乙女座は優しいから生き物係に適するとの主張はもはや疑似科学の域に踏み込んではいるのではないか。学校教育として問題があるものと考える。猛省を促したい」
「いーけないんだいけないんだ!先生、男子が占いを信じてませーん!男子はK2レメディを飲まないといけないと思います!」
反知性主義の始まりである。
太字強調までして熱心な批判ご苦労さん。しかし何か勘違いしてるだろ。
そんな論理、ホメオの人たちの思う壺っていうかむしろホメオの人の主張を肯定してるようなもんだぞ。
相手の主張を批判・否定するなら、「相手が何を言っているか」をきちんと理解してからにしないとだめだよ。
なんでわざわざ厚労省がトンデモさんにディベートで勝たないといかんの?
厚労省がやるべきことは、有効であることが科学的に立証された治療法に対して保険適用などの制度を整備することであって、しかしホメオパシーに根拠がないことは科学的には論ずるまでもないはずだ、という話だろ。
「パターン情報」だかなんだか知らないが、そんな科学的現象は他のところで観察されたことがないわけで、もしそんなものの有効性が確認されるのならばそれは医学に留まらず物理学・化学をも巻き込む超ノーベル賞級の大発見だからきちんとした実験・検証の手続きを取ってきちんとした形にまとめられるはず。そしてそれをやる責任は言い出した側にあるというのが科学界にとどまらず世の中のルール。それを守らない相手なんてそもそも門前払いに付すべきなのであって、むしろ厚労省はそういうことをしてはいけない。
考えてもみろ。そんな後づけの仮説もどきの土俵に乗ってやらないといけないのなら「創造説」には絶対に反証不可能だぞ。なにしろ、向こうは「地球は4000年前に、『あたかも地球が50億年前から存在したような状態で』創造された」というのが言い分なんだからな。化石を持ち出して放射線年代測定がとかやってみても、「その化石自体が4000年前に、放射性同位体の含有率が低い状態で創造されたものだ」とか無限に後出しじゃんけんを続けられるんだからどうしようもない。
君に限ったことではないが、頼むからニセ科学に「これはひどい」タグを付けて喜んでる半可通のはてな民は黙ってくれないか。そういうつけ込む隙を見せられるとトンデモさんが喜んでこっちが迷惑するだけなんだから。せめて高校レベルの物理と化学と生物のうちの2つぐらいはマスターした上で伊勢田哲治「科学と疑似科学の哲学」とかその程度の入門書ぐらいは読んでから来てくれ。だいたい「自分でも論破できる馬鹿をわざわざ探しに行って攻撃する」なんて加虐趣味は控えめに言って悪趣味なんだよ。
結局、問題は「いかに(比較的)健全な逃げ道を用意してやるか」に尽きるんじゃねーのと思ってる。ただホメオパシー叩いてりゃいいってもんじゃない。はてな村民にはそこが足りない。
ホメオパシーとか今すぐ地球上から滅びればいいと思ってやまないんだけど、でもそういうのに縋る人の気持ちもわかんないでもないんだよね。
自分の家族がそうで、タイムリーなことについ最近ホメオパシー関連の団体に入会した(ついでに入会書に勝手に俺の名前書いてたので死ねと思った)んだけど、その直接的な理由がどうも、妹のアトピーが皮膚科でくれる薬を塗ってもちっともよくならない、それどころか数年来悪化する一方(であるように本人たちの目には見える)なのが原因らしい。
その話を聞いて正直アホかと思ったんだけど、同時にその心理はわからなくはないわけで。
一般化すれば末期ガンの患者が拝み屋だの黒酢だのに手を出すような。
はてな村民なんかはバリバリの科学的世界観に生きていて、俺も今のところはそうなんだけど、だから疑似科学をボッコボコにしてもなんともないわけですよ。新大陸行ったら現地人がわけのわからん偶像拝んでた、みたいなもんで、打ち滅ぼすべき悪と確信してやまず、あまつさえ教化の使命に身を震わせてたり。
でも日本人のほとんどはまだまだ呪術的世界観に生きてるわけで(この前どっかの大学の社会学の先生がブログでそんなこと書いてた)、彼らが病院でもうダメだ、となったときにどうするのか。縋るものが必要なわけでしょ。
終末医療におけるホスピスのように、そういう適度な精神安定剤は当然必要なわけ(このへん、日本では宗教がうまく役目を果たしてないからよけいに悪徳宗教とか疑似科学が流行るって話もあったりするわけで)。
これからのこの社会の課題として、そういう「逃げ道」として(比較的)健全さを保った、(比喩としての)プラシーヴォ効果を一定程度供給してくる疑似科学なり宗教なりをいかに確保し、かつ100万円の壷買わせる拝み屋、みたいのをいかに排除していくか、について科学的世界観の持ち主、社会の善導者たるエリート様におかれましては向きあう必要があるのではないでしょうか(そういう意味では、現状での温泉とか鍼灸がヒントになる気もする)。せめてもの妥協として。
少数派は批判されればされるほど、その事実こそが自らの正しさを証明しているのだと思うようになる(って心理学実験の論文が出たってGIGAZINEかどっかにも書いてあった)わけだし、叩くのではなく「仕分け」た方が効率がいいはず。
もちろん同時に、義務教育課程においていかに科学的な思考法を浸透させていくかも問題になるわけだけど、まあ所詮限度があるだろうし、そもそも世代交代には時代がかかるわけだから、当面は上に書いたことを推し進めていくしかないと思う。
これは感覚ではなく事実。自転車の方が徒歩の半分のエネルギーで同じ距離を移動できる。
そのラクなほうが消費カロリー高いっていう結果に「意外」と思った人を
ここがもう騙されてる。
なんで騙されてるのかわからない人は文章をよく読むこと。
少なくとも自分には「同じ距離を移動するとき徒歩より自転車のほうがラク」という感覚があるから
そのラクなほうが消費カロリー高いっていう結果に「意外」と思った人を「疑似科学にはまる奴と大差ない」と断ずるには早計じゃないかな?
元増田です。そのとおりだと思う。
ひどい未舗装路や石畳や坂道の多い街では徒歩の方が精神的に楽。
自分は現在札幌在住なので、北大周辺や新川通り等を自転車でよく飛ばしてる。
この時期のちょっとした遠出なら車でなく自転車で行く事もあるし。
自転車で数時間移動するけど、徒歩で数時間移動するよりもはるかに気分はいい。
本当にスピードが出て爽快で、体も冷えて疲れが溜まりにくく、辛いという意識が無かったので、カロリー消費が意外とあるというように感じたのです。
元記事に懐疑心を持ったり疑似科学だと思う人は、そもそも自転車が爽快で精神的負担が少ない運動だという感想を抱いていないのでは。
疑似科学批判とかややこしい専門用語や一部の人しか通じない単語続出でああいうのにだまされやすい科学リテラシーの低い人に余計に通じにくくなってるように思う。
騙される人は科学の知識も論理的思考力も平均以下ということを前提にした運動でないと机上の空論で空回りしそう。
こういうことを言うと「科学教育がたりないから増やせ」みたいな話になるんだろうけど、現状の義務教育レベルの科学知識のない人も少なくないのに教育すれば解決だってのは実効性ないだろうに。
法律とか経済でも同じように「教育が足りないからだ」で済ませようとしてる人がよくいるが、現状の義務教育すら理解できない人は少なくない現実をどうするのかの具体策ないなら意味がない。理解できない人がいるというのをまず出発点にしないと。
こういう人は自然科学も社会科学も全部きっちり理解した上で世の中の人はみんな自分と同様の頭のよさだと思い込んでるのか、自分ができないことを他人に要求してるのかどっちなのか気になるところ。