「疑似科学」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 疑似科学とは

2010-08-10

http://b.hatena.ne.jp/entry/23940896

今週の週刊金曜日千島学説を好意的に紹介してる件

あれれ?

買ってはいけない」の「輝かしい」(笑)実績があるから、疑似科学バスターブクマカーが金曜日disるのは当然だが、ボガスとかあぐりこらあたりは知的水準からいっててっきり「医師会自民党と厚生官僚米帝陰謀で偉大なる千島博士の学説が世界定説になってないニダ!!!アイゴー!!!」の合唱すんじゃねえかと思ってたんだが?w

2010-05-24

http://anond.hatelabo.jp/20100524161839

元ネタの「40年ほど前に行なわれたヨーロッパでの比較実験」の出典が不明だからなんとも言えないが

本当に「クレーマー体質になる」のかを示さないで議論をすることは、疑似科学の始まりだ

ほっとかれた方は無気力になりなんでも諦めるようになるだろうというのは確かだと思うんだけど、

あなたが「確かだと思う」ことには何の価値もなくて、(出典が不明だけれど)実験によって確かめられたことに価値がある

一方、クレーマー体質になるかどうかは、実験がおこなわれていないので真偽は不明だ

2010-04-21

http://anond.hatelabo.jp/20100421160848

内容はよくわからん

「人工的な何かが悪い」ってよくある疑似科学だよね

2010-03-22

http://anond.hatelabo.jp/20100322143211

業界の話をしてるん?

小売業界のように、新規で出そうとすると、大手メーカーが類似商品出したり、バックマージン付で、潰しに来る業界で、結果大手の下請けをせざるを得ず、ブラック化していく業界のこと?

これは、楽天とかのおかげでだいぶ少なくなってきた。昔よりかはメーカーががんばりやすい。

 

同じ流通系でも、某マルチ的な会社から疑似科学的な会社までの事を指しているなら、こりゃ啓蒙しか無いよね。

ITなどの技術職で言うなら、孫請けとか曾孫請とか、偽装派遣偽装請負を根絶していかないとね。いまだ普通にあるから。まぁ、法律の話だ。 

2010-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20100319113756

ただ「エビデンス」と書いてるところをさりげなく「完璧エビデンス」と書き換えて極論に持っていこうとする人。

疑似科学信者なんかがよく使うロジックだね

相手の発言に「完璧な」とか「絶対に」とかをそっと付け加えてから反論しようとするのは

疑似科学信者というより単に子供やアホに多い。

こういう可哀想なぐらいのアホが吹き上がってるから邪魔臭いんだよなあ。

ほんとあたまがわるいアホを規制して欲しいw

http://anond.hatelabo.jp/20100319112940

ただ「エビデンス」と書いてるところをさりげなく「完璧エビデンス」と書き換えて極論に持っていこうとする人。

疑似科学信者なんかがよく使うロジックだね。

2010-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20100310224151

モテるオスは大体優秀だしモテないオスは大体劣等。そんだけの話。

社会進化論的な「適者生存」思想は疑似科学の典型中の典型なんだが。

疑似科学によってしか「正当性」を主張できない恋愛って何なの?

恋愛肯定論者の頭の中は未だに1930年代のままなの?

2010-02-25

http://anond.hatelabo.jp/20100225025718

批判するわけじゃないが、ここに書いてることって疑似科学と区別がつかないよね

「ゲシュタルト」と専門用語を出して、「自転車に乗るときの感覚だ」と誰でも理解できる概念適当ミスリードする

そして「人間本来の脳の力」が発揮されるとかどうとか

2010-02-22

結論:BI議論はキモイ

http://www.asks.jp/users/hiro/66376.html

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asks.jp/users/hiro/66376.html

賛成派

1. なんかキモイ人たちが集まってキモイ盛り上がり方してる

はたから見てるとオタクっぽい人たちが集まってオタクっぽく内輪で盛り上がってオタクっぽく「俺たちは正しいんだけど世の中はわかっちゃくれないチェケラッチョ」ってほざいてるだけでのなんら発展性も将来的な進展もなさそうだしとっとと選挙出馬して落ちて馬刺しなっちまえ豚ども声のキーたけえんだよお前ら

2. 略称がキモイ

BIってなんだよ最初見た時国際バカロレア資格かなんかかと思ったよなんですか日本もうダメなんでフランスアメリカにでも逃げましょうってかそれどこのキチガイちきりんだよBIってバカインポッシブルの略なのか? グーグル先生で「BI」検索しても出てくるの「ビジネスインテリジェンス」ばっかりだぞ向こう二十ページ「ベーシック」のべの字もでねぇベーシックどころかマイナーマイナーじゃん北野武の『HA-NA-BI』にすらSEOで負けてるぞこれはそのまま貴様らのクズさだよもうベッカムでいいんじゃん。ベッカムで。

3. 叩かれた時の反応がキモイ

まるで疑似科学批判批判批判者みたいに「だからソレが間違ってるんだってば」とか!あのね疑似科学批判はいいのそれなりに正当性が実証されてるからでもベーシックインカムはまだいろいろよくわかんないのなのに説明もせずはてブで正しさ超自明みたいな態度でいけばそりゃ残念なニート扱いされて切り捨てられてもしゃーないっつのはてブで語るなブログで語れ説明しろよ努力しろよ勉強しろよしてるヤツはいいが他人の尻馬に乗るヤツは落馬してさくらしゃぶになっちまえ


懐疑派

もういいよどうせお前らも「内輪で盛り上がってるバカどもを喝破する俺カコイイ」とか思ってんだろこの中二病キメエんだよ 

オトナは汚い。夢だけは過剰にみせてくれるくせに叶える段になると急に「自己責任」だの「お前の努力がたりない」など言い出して責任逃れをはじめる。

どうせベーシック・インカム社会未来永劫訪れないし人類はいくら待っても火星に到達しないしロボットは五十年立っても不気味の谷を越えられないくさってやがる早すぎたんだ……。それをわかってて汚いオトナどもは口先だけつっつきだして、飽きられてきたな感じたらポイして別のこと語り出す。わかってるはずだ、君はそれが理解できているはずだ。見ないフリすんなよわかんないフリすんなよ盲か貴様ベーシックなんたらの議論する前にレーシック手術受けた方がいいんじゃないか? 

しかたない。

オトナどもが汚い以上しかたない。

俺が貴様らに唯一に無二の幸せゲット策を伝授してやる。

耳ン穴かっぽzipてよう聞けや。



死ね

2010-02-13

http://anond.hatelabo.jp/20100212132124

そもそも、「疑似科学批判」と「疑似科学信者叩き」が同一視されていることが問題。

疑似科学の間違いを指摘して批判するのには科学リテラシーが必要だけど、

信者を叩くのは、疑似科学批判を引用して「こんなの信じてるなんてバカじゃね」と言うだけなので誰にでもできる。

結果「信者叩き」ばかりが蔓延して、疑似科学批判までウザがられるようになりつつある。

でも、疑似科学批判者の中にも、とにかく疑似科学が注目されて話題になればいいと

信者叩き」を煽っていた人も結構いたので自業自得だよね。

2010-02-12

http://anond.hatelabo.jp/20100212132124

俺はそこまでやってないけど。

俺が疑似科学を叩くのは単にウザいからだよ。

何もわかってない馬鹿がホラを信じ込んで何か言ってるのが不快

2010-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20100211161741

うん、だから姓名判断でも怒るだろ、つってんだけど。

姓名判断

デリケート

・判断するにはスキルが必要

動物占い

デリケートではない

・判断するには手間が必要

占い

血液型性格判断

デリケート

・判断するのが簡単

疑似科学っぽい

こういう分類ね。

で、元増田Twitterの人は、血液型性格判断がすぐ話題に上るようなものだから「話題になっただけで怒る」のだろう、たぶん。

もし姓名判断が気軽に話題に上るようなものになったら、いま血液型性格判断に怒っている人たちは、姓名判断にも警告を発するだろうさ。

2010-02-07

どーでもいいけど

超能力って科学じゃなくてオカルトでしょ

アレを魔術の対立候補としてあげるのはどーよ

しっかもなんか科学知識系が色々と怪しいし

なんか科学っていうより疑似科学じゃねぇ?

だからアレイスター・クロウリーなのか?

2010-01-10

白金ナノロイドを食べると肌がぷりぷりになります。

はてブで話題になっている、

http://b.hatena.ne.jp/entry/comicscience.seesaa.net/

コミックサイエンス撲滅委員会

http://comicscience.seesaa.net/

そのコメント欄

http://comicscience.seesaa.net/article/137779198.html#comment

で指摘されていること。

http://comicscience.seesaa.net/article/137819405.html

エントリから、

http://twitter.com/Amidalachan

中の人であることが分かる。

で、喧々諤々のネーミングを決めたのは

http://twitter.com/Amidalachan/status/7574907227

アプトの岡山社長かな?で、変更しません。以後、このネタは原則スルー。RT @yunyundetective: #comicscience では誰が決めたネーミングなのでしょう? 少なくとも疑似科学を指す単語としてコミックサイエンスと言うのは一般的では無いと思うのですが。

また、TwitterWeb

http://iddy.jp/profile/buu/

元木一朗さん

http://blog.livedoor.jp/buu2/

ブログには、

http://blog.livedoor.jp/buu2/archives/50017438.html

僕も所属しているHVC戦略研究所岡山さんが「コミックサイエンス」という言葉を教えてくれた。


http://www.hokkaido-vc.com/activity/venture.html

http://www.apt-ca.com/ja/company/

岡山峰伸という人らしい。

そのアプト株式会社製品

http://www.apt-ca.com/ja/products/

白金ナノロイド

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%87%91%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

健康食品化粧品などに添加される。うたわれている効能は、白金触媒作用によって皮膚表面や腸内の活性酸素を除去する抗酸化作用があるというもの。また、酸化還元電位の作用や、マイナスイオンによる効果をうたう商品もある。

ロイドの分散粒子は半透膜を通らないことから、分散媒である白金が皮膚や腸から体内へ吸収されることはなく安全だと、多くの商品でうたわれている。

この点について、東京大学宮本教授最近研究により[1] 白金ナノロイドは小腸からほとんど吸収されないことが分かってきている。経口投与された白金ナノロイドは腸管内で活性酸素を消去し、血中や体内の過剰活性酸素を減少させているのではないかと考えられている。

しかしながら、金属を微小粉末にすると、表面積が増える事から特異な性質を持つ事があり、コロイド状の白金が人体にどのように作用するかは、現時点では不明確である。

2009-12-31

ゲームは「作品」か「商品」か

タイトルのような議論は、『ゲームは「作品」でも「商品」でもある』という結論に落ち着く。大抵は。

なんか違うよな、と思ってたのだが、少し前に下のようなスレを見つけてから、さらにモヤモヤが増してきたので、少し書きたいと思う。

まず、件のスレ(すでにDAT落ち)。

宮本「俺が作ってるのはゲームじゃなく商品」

http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1260455702/

>約1時間の講演の中で、個人的に印象に残ったのは、宮本氏の

>「僕らは作品ではなく商品を作っている」という発言だった。

ゲーム開発者にとって、主役はあくまでお客さんであり、

ゲームそのものではない。宮本氏は普段から、スタッフにも自分たちが作っているものを

>「作品」ではなく「商品」と呼ぶよう指示しているという。

ttp://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0910/27/news082.html

金儲けしか頭にないんだな、この老害は・・・



自分過去ログが見れない状態なので、記憶で書くしかないが、私が見た時には、いつも通りに荒れていたし、例の如くコテハン叩きもやっていたりと、まさにゲハだった。ただ、あまり決定打的意見はなかった印象もあった。宮本氏を守銭奴扱いする人間もいれば、「当たり前じゃないか!」という人間もいて、色々意見が分かれていた。

じゃあ、お前が決定打的意見を出せるのか?と言ったら、まあ、怪しいものだが、自分なりの落ち着き所が欲しいし、モヤモヤも何とかしたいので、書きながら考えを整理してきたい考えだ。


……と、能書きはこの辺までとして、本論に入ろう。

まず、『ゲームは「作品」でも「商品」でもある』というのは、正確じゃないよね?というのが私の立場だ。単なるとんちに聞こえるかも知れないが、『ゲームは全て作品であるが、中には商品として売っているものもある』がより正確だと思う。(フリーで遊べるのもある訳だから)

要するに、「商品」と「作品」は一つの対立軸にはなり得るけれど、「商品」と「作品」は対照的な存在という訳でもない。

無料」と「有料」は「0か、0でないかだから」、TrueとFalseの条件式に使えるけれどもだ。

販売者の側から見ると、「作品」は、単なる「商材」である。

「商材」を消費者から見て「商品」に仕立て上げるのが「商人」である。

アップルは良い見本で、安く「商材」を仕入れて、手を入れ、磨き上げ、組み上げて、大勢の人間が良いと思わせる「商品」に仕立て上げている。

その結果、スティーブ・ジョブズは、オープンソース教徒には守銭奴に見えるだろうし、アップルファンには神の使いに見える。

(この図のように→http://i.imgur.com/YRoqC.jpg)

例えば、記憶で書くので間違っている部分もあるかも知れないが、ハリウッド映画にもなった映画Shall we ダンス?」は、本家日本版も米国で公開されていて、(米国では)200万人を動員したそうだ(Wikipediaより)。

米国で公開する際、米国インディペンデント系が買い取ったらしいのだが、そのバイヤー曰く、「私が発見した」という言葉を使ったらしい。監督周防正行氏曰く、「私はすでに商業作品を作って成功している(から、発見したという表現はおかしい)」。

周防正行氏は、バイヤーから見れば「(今まで現地で紹介されてこなかった新しい)商材」に見えるのだろうし、氏自身から見れば自身を「(立派に成功した)商業作品」の監督であると思うのは当然だ。その視点(立場)の違いによって意見の相違が生まれているということなのだと思う(私の記憶の違いもあるかも知れないので、詳しくは「『Shall we ダンス?アメリカを行く (文春文庫)」を見て下さい)。


話がさらに脱線するかも知れないが、アニメーター労働条件が酷い件についても、似た様な違和感を感じる。

具体的には、あまり電通がどう、中間搾取がどう、とかという時代でもないだろう、みたいな気が非常にする。

ゲームもそうなのだが、無料でも見ないような「作品」、遊ばないような「作品」がネットレンタル廉価版ワゴン中古にいくらでも転がっている。今の時代、それこそ、インディーズ映像全体まで枠を広げると、YouTubeだって一人の人間で見きれない状態だ。

しかしだ。それでも、売れているものは売れている。

例えば、任天堂ゲームなんてあまり値下がりしないし、それなりの値段がするが、売れている(おお、ゲームの話に戻ってきた)。

つまり、「作品」があふれる時代に、「作品」で金を稼ぐにはどうすればいいのか?という問題に戻ってくる。

「作品」をどう「商品」に仕立て上げるか?ということが問題になってくる。

編集者のいない漫画雑誌であるコミックギアは三号で潰れたそうだが、金を取るなら「作品」である前に「商品」であることを求められるという訳だ(例え、作者が不本意に連載を続けていても)。

当たり前だが、人は、欲しい時に欲しいものが欲しい。

果たして、みんなが持っていたオモチャを買ってもらえなかった時の気分はどうだったろうか。

要するに「商機」をつかめばものは売れる。

つまり、たった一杯の水でも、砂漠では高く売れる。

何でもないものが希少価値になる。

そして、需要がある所に商品を適正価格供給してやれば、感謝される。

満足感があれば、リピーターになってくれる。

それがまっとうな商売だ。皆の幸せに繋がるのだ。

そういった「商機」を見抜く目があり、実際行動する人が尊敬される商人なのだと思う。

果たして、廃人育成MMOマルチ商法ソーシャルアプリがまっとうな商売か?と聞かれた場合、ハイ、と答えられればそういうゲームの営業をやればいいと思うし(別に非難している訳ではない。悪意はあるが)。

もちろん、「商品のまっとうさ」というのは実に微妙なものだ。特にエンタテイメント業界においては。

例えば、任天堂の「脳トレ」も疑似科学批判があった訳だし。

だが、売っている人間が自身の商品のまっとうさを信じられるかというのは実に大きなファクターだと思う。より悪意のある書き方をすれば、詐欺的商売でも、自身の商品のまっとうさを営業が信じていれば、ものすごい力になるから。


もう一つ気になるのは、クリエイティブ性の問題だ。

クリエイティブの敷居がこれだけ低くなると、もう、プロクリエーターは好きなものを作れなくなるのではないか。

当たり前と言えば当たり前だが、仕事というのは、いやな作業をする代償としてお金をもらうようなものだから、クリエイティブアマのものになるのかも知れない、的な雰囲気がなんだか漂っている気がする。

例えば、米国では、10年くらい前までは業界を引っ張っていた制作者が半分趣味で作っているようなPC大作がほとんど出なくなっている代わりに、クリエイティブインディーズゲーム活性化しているようだ。

……すると、ものすごい安い賃金本業と儲けの高い同人活動をこなすアニメーターみたいな訳の分からないものがこれからの本道なんだろうか?

とすれば、プロ活動とアマ活動を両輪にして生き残る、というのも一つの考え方という訳だ。

もちろん、いやいや、プロは今のハリウッドの様に空虚になるのではないか?とか、CGMはどうよ?とか、まだまだ言及が足り無いこともあるが、疲れたので寝ることにしよう……。

2009-10-20

(酷く入念な)空想の歴史観、つまり個人史について。

過去の栄光にすがるな」とは言え、回想に浸ってみる。ターゲットが未だ定まっていないからだ。

これは何かの自己啓発本に書いてあった「謎解きのヒントは自分過去に必ず在る」という物で、

「先ずは自分を見つめ直せ」といったごく在り来たりなフレーズに耳にタコが出来そうになる物のフロイト的にもオールオッケー。

それがどんなに下らない物であっても一通り書き下すと良い。しかし後で必ず捨てろ。生ゴミは持ち歩かない方が身の為だ。

大文字歴史」と「個人史」の間には必ず偏差が在る。否、「大文字歴史」は宗教と同様「何者かに決められた個人史」の可能性も否めず、

大文字と小文字の間に偏差が在る事は誰にも簡単に理解出来るが、しかしそのバリューは誰にも計れない。

歴史事実はある意味で「ロマンチスト免罪符」という訳だ。

話を戻そう。

2つの「大文字歴史」ここは手軽にウィキペディアの写しを並べ、しばし考えた後、“あえて”片方を逆にした物が前回だ。

これは「進化論」あるいは「疑似科学的なハッタリ」とも言えるカマしだが、進化論からすれば「進化」と「退行」は同じ物である。

(勘ぐるに「大人」とは「退行を良しとしないが、進化も止めた人」と読めるが、それは行き過ぎだろう。)

別にどう読んで頂いても構わないが、「この2つに相当性が見受けられる」という結論に落とし込まざるを得なかった。

これはロマンチストに依る完全なる空想の産物であるが、決定的事実に見せかけるには十分であったと思う。

結局個人史という物は捏造も修正も幾らでも可能だが、大文字歴史は簡単には曲がらない。そこを上手く誤摩化して撹乱させた。

ワタシの偏愛する文章の大半は「どの様にでも読めるが、結局どの様に読んでも同じ」「自由かつ不自由」という不気味な拘束具だったりする。

                           〜T.H.

2009-09-27

もやもやとすること

ネットを通じて誰かにコンタクトをとる際のモチベーション自分の場合は怒りであることが多い。他人のブログコメント欄Wikipedia などに思わず下らない書き込みをしてしまうのは、そのコンテンツについてやりきれない怒りを感じた時が非常に多い。怒りの対象は端的にいえばバカなコンテンツ。この場合のバカな、というのは無責任で軽薄で有害かつその害悪に無自覚な - つまり誤解をおそれずにいえば悪意なき疑似科学喧伝者みたいな(?) - という意味。無論ネタである場合はどうでもいい。実生活で見かける「バカ」にはかなり寛容だという自覚はあるが、ネットではそれ自体愚かなことだと分かってはいてもなぜか怒ってしまう。多分そのコンテンツを書いている人間を一目見ればどうでもよくなってしまう感情なのだろうが。「やり場のない怒り」というのはやり場がないから「怒り」とならざるを得ない何か別種の情動が根幹にあるのではないかとも思うのだが、だとすればそれは何だろうか。分からないが、とりあえず「もやもや」とするのだ。

例えば Wikipedia は、内容は酷いがいずれ段々よくなってゆくだろう、という期待をベースにして、つまり最終的に平均的な善意依存しつつ動いているプロジェクトだ、と理解できないことはない。その Wikipedia でどうしようもない誤謬を訂正した後、あるいはどうしようもない権利侵害をどうにか正常化した後、ふと「自分はこの編集善意からやっているのだろうか」と疑問に思う。むしろ動機の重心は、そのバカな内容を書いた編集者をそういった言説の空間から排除したいという「怒り」のようなものだ。それはまったくもって善意ではない。自分は「貢献」ではなく、地獄への道をせっせと整備している人間にそういった迂遠な方法で何らかの啓示を与えたいだけなのだと思う。啓示とは大げさかも知れないが、自覚とか自尊とか責任とかいうものはそうやってしか与えられないという気もしてしまう。

あるいは、下らない会社が下らない翻訳者を雇って運営している下らない「ブログメディア」の数々。書店週刊誌を眺めて怒るというのはまったく正気の沙汰ではないが、インターネットはそれさえ可能にしてしまったようだ。例えばアルバイトで雇われている「翻訳者」がひとつの記事で受け取る報酬はいくらだろう、と考えてしまう。よくて数千円くらいのものだろうか。何回か見ていると、どうやら編集体制は実態がなく、単純な誤植もそのまま掲載される上、指摘されても訂正されることはほとんどないということが分かってくる。中には留学経験のある者もいるが、彼(彼女)を含めて20代のアルバイトが量産する「記事」はあまりに酷い。もうどういっていいか分からないくらいに酷い。だがそれはいい。誰にでもミスはあって、あとは誠実さと人生観の問題だ。では自分は何に「もやもや」とするのかと言えば、そういった「執筆者」を端金で使い捨てながら企業体を回している経営者の立場なのかも知れない。実名と不自由な日本語をセットで垂れ流している執筆者に文句をいうのはお節介というものだろう。

それで? というわけだが、どうなれば自分は満足なんだろうかと考えてみると、やはりそういう対象に何らかの啓示を与えたいのだと思う。何かに気づいているフリをして欲しいのだと。さもなければ、殺せるものならば殺してしまいたいと思う。だがこういった情動も、彼らの顔を見れば忘れてしまうようなものだろう。バカは死ねばいい。あるいは、死ぬほど恥じ入ればいい。何に恥じるべきかを知ればいい。自分はそう思いながら「もやもや」としているのかも知れない、と思う。コンタクトをとった後はどうなのか? 経験からすれば、大抵の場合は無視されるか、あるいは非常に丁寧に対応してもらうかのいずれかになる。それで満足か? と言われれば、どんな対応が帰ってこようと満足したことはない。

インターネットは他人になどつながっていないのではないか、と思う。そこにあるのは自分の欲望の蠢きに過ぎない。しかも誰にとっても、その欲望はどれひとつとして自分のものではない。

2009-09-24

http://anond.hatelabo.jp/20090924203025

本当に頭が悪くて迷惑なのは単なるリテラシーを「頭のよさ」と勘違いしてしまう人かなと思う(元増田エントリブコメに変なのが湧いてるような気がする)。

文脈は無視するが手元の辞書によると literacy とは ability to read and write のことでそれ以上でも以下でもない。

科学リテラシー」は科学的な文章なり議論なり論理なりをまともに「読み書き」する技術でしかない。だからこそ早い段階の教育に意義があって、自覚がなくともある程度読み書きできるようになれば「まともでない」ものもある程度判別できるようになる。それが知性のレベルを上げる土台になることは確かだが、内容空疎な美文を弄する輩がままいるように、リテラシーはやはり読み書きを遂行する能力に過ぎない。

逆に「科学リテラシー」の高さをもって「頭のよさ」を自負する者は例えば宗教を話題にまともな議論をする「頭のよさ」があるのか。かのアインシュタインスピノザの神は認めるといったそうだが、理系でも自然観と理神論をめぐる議論くらいは茶飲み話に出てくることもある。その手の議論では、知らず知らずに身に付いたリテラシー論文を量産するだけのハードサイエンス論理や知識だけでは内容のある対話にはならない。要は他者(この言い方は嫌いだが)とか歴史とか(異)文化に対する自分のありようが問題になるわけで、逆にいえば「科学」というものを十分に理解しているか、という問題にもなる。

あくまで個人的な問題として勝手を書かせてもらえば、疑似科学批判の問題は批判者がどれだけ自己を相対化する能力がある(フリをできる)か、というところに説得性の鍵があるような気がする。オカルトを見つけて騒いでいる人々はどうも頭が悪く見えてしかたがない。それはいわゆる「正しさ」に凝集して安堵することとも関係なくて、「センセイ、黒板の式が違ってます!」と声を張り上げて悦にいる「出来のよい子供」のようなものだ。それは間違ってはいないし、「社会」に有益な正しい行いであることは言を俟たない。皆は感謝して彼は尊敬されるだろう。しかし愚かな教師は間違いを繰り返す。そうした指摘は教師にとってまったく恐るるに足らない子供との交流に過ぎないからだ(関係ないが、恐ろしい子供が声を上げるのは得てして国語時間だ。算数のできない教師はいないが、文章が「読めない」教師は昔から案外多い)。そうした交流(人はそれを戯れとも呼ぶわけだが)にはそれほど読むべき空気もないような気もするが、どうだろう。

そこに空気があるときについていえば、その空気を読まないことは発言権を得るためのひとつの出発点に過ぎないということは自覚しておくべきだ。おそらく同席者が「白ける」のは、発言権を得た人間がまともな芸を披瀝することなく不発に終わるからではないか。技術的にいえば、まずは巧みに美しくこなさねばならない。「イタさ」は内容ではなく技術の問題だ。迷惑な存在は場を白けさせる。批判すべき相手は完膚無きまでに叩きのめすべきだが、公衆の面前での議論というのはひとつの劇であって芸でもある。

つまり説得すべき相手は常に第三者と心得るべきだが、注意すべきなのは初めから第三者に向いて語るというのは病的な転倒と自覚すべきだということだ。「はてブ」界隈の腐臭はその辺に関係があるのではないかという気がする。大槻義彦は確かに「クール」でも「クレバー」でもないが、愚直に相手に対峙する健全さ(のフリ)はあった。あのヒドい議論がショーとして放送に耐えたのはなぜなのかを考えてみてもよいかも知れない。

とりあえず血液型性格判断の話題が出たら、それに自分なりの見解を示しつつ、なおかつ盛り上がっている者たちの玩具を取り上げない方法、あるいはそれに代わる新しいおもちゃを提供する用意が自分にはあるのか、とひと呼吸考えてみるというのはいかがだろうか。それがなぜそんなにいい玩具になっているのか、という話題にスムースに移行できれば大成功だが、とりあえずはその話題について思考しようとしている、ということくらいは伝わる程度の演技が必要だ。そういう時に横にいる人と目で困惑を共有できるとストレスも溜まらず演出性も高いのだが、残念ながらそういう困難な場におかれたことがないのでこれ以上はよくわからない。言うまでもないが、少なくともそういった会話の場での演出だとか、話題の移行とか、それに伴う発話者の責務だとか、そういうのはいわば「会話のリテラシー」であって、「科学リテラシー」とも「頭のよさ」ともまったく関係ない。

以上、外野から。

http://anond.hatelabo.jp/20090924203025

それは違くね?

疑似科学を批判するはてなー

科学リテラシーを持ちながら、場の雰囲気も察して、

 TPOをわきまえて、科学リテラシーを『封印』する」

こうなれって言ってるんでしょ。

少なくとも俺はそのつもりで言ってる。

科学リテラシーEQは「反比例」する?

知的水準が高く、かつ理系比率が高い「はてな」は、

擬似科学感情が強く、参加者根底の思いとして

一般ピープル科学リテラシーを高めて、血液型占いとかの

 疑似科学を衰退させなきゃ」という思いが根強い。

しかし、「科学リテラシーが低くても、社会生活上支障ないじゃん?」という

投稿がはてなブックマークを集めている。

http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090921/1253543117

>世間一般の科学知識って、実は絶望的にレベルが低いんじゃないか、とは、私も過去何度か感じたことがあり。

>でも、逆に考えると、その程度の知識しかなくても、多くの人は幸せ人生を送ることができてるわけですよね?

>それも、そういう人がとりたてて低学歴社会的地位が低いとかそういうことではなくて。

>……ウチの奥さんだって、明らかに科学リテラシーは私より低いけど、社会人としての適性は私より高いし。

そうそう、ウチの妻も科学リテラシーめちゃ低いケド、世渡りは小生より「上手」だ。

これをもっと直球で言えば、

理系人間科学リテラシーを有している人間)は、確かに論理的思考力や知識には

 秀でているが、うまいこと世渡りをする術、以前の流行語で言えば「EQ」が低い」

と言えないか?

例えば、科学リテラシーが高い人は、血液型占いについて、基本的に否定的である。

しかし、例えば職場での茶飲み話で、血液型占いの話題になったときに、

真顔で「あれって科学的根拠ないんですよ、皆さん騙されていませんか?」と

言ってしまうと、「場の雰囲気」がぶち壊しになる。

一方で、科学リテラシーが低い人は、場の雰囲気を壊すことがなく、

会話も弾み人脈も維持する。

どちらがEQが高いか、は明白である。

あるいは女性とのデートの際に、ついつい理系的な受け答えをしてしまうと、

「場の雰囲気を壊してしまい」、女性に逃げられてしまう。

異性獲得という側面においては、なまじ科学リテラシーが高いと

「足を引っ張ってしまう」面がある。

(勿論、「理系的な頭のいい人がいい」という女性もいるだろうから、

 科学リテラシーが100%ダメ、ということはないのかもしれないが)

まあ、一番「賢い」のは、

科学リテラシーを持ちながら、場の雰囲気も察して、

 TPOをわきまえて、科学リテラシーを『封印』する」理系人なんだろうが、

その『封印』のタイミングが難しい。

血液型占いだと擬似科学臭が濃厚なので、

小生も「TPOを察知して封印」という「大人の態度」を取れるのだが、

ビミョーに疑似科学だと、うっかり『封印』し忘れることがある。

以前、職場の話題で「フロッピーディスクドクター中松発明したんだってね」

という話題になったときに、「いやいやあれはドクター中松じゃないんですよ」と

うっかり言ってしまって、「場が白けた」という失敗を個人的に経験している。

この場合、変にドクター中松フロッピーディスクについて「予備知識」を

持たなかった方が、「EQ的には高い」のである。

疑似科学

「脳が冴える云々」とかいうエントリーに嬉々としてブクマしている皆さんは偽の権威にどれくらい耐性があるのだろうか。

脳トレ人類の平均的な知性(「生産性」?)が向上するなら歓迎しなくもないが、働き盛りがみんなでボケ防止に勤しむっていうのも病的だよね。

Lifehack って要はいかに自分で考えずに要領の良さを獲得するか、という話だから仕方ないけど、「脳によい」とかいう題目がないと自分に負荷をかけられない人にはあなたの頭が冴えないのは自分で考えないからですよ、と言ってあげたい。

人間の生には「科学的」にはほとんど意味はないのだから、時間をかけて自分の脳を鍛えるにしろ、他人様が信奉する疑似科学を批判するにしろ、結局のところは「よく生きる」っていう話なわけで、そういう「徳」の部分については宗教に冷淡な日本人も案外弱いのかも知れないな。

2009-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20090919015743

国語

論理的思考

数学

自然科学

ケーススタディとしての歴史

いや・・・このへんて既に一応義務教育にあると思うけどなー。

国語教えない学校とかないでしょ。読解通じて論理的思考能力も養うでしょ。自然科学教えないとこもないし。

(あ、疑似科学を教える学校はあったかもしれないw)

せいぜい微妙なのはケーススタディとしての歴史ぐらいで。

正直、元増田が主張するように、政治経済を必修にして解決されるような問題じゃないと思う。

ところで、増田達の定義する政治リテラシーって、そもそも何を指す言葉なのかしらね

2009-09-03

http://anond.hatelabo.jp/20090903181227

俺は文系だが鳩ちゃんを見ると「理系でも疑似科学にはまるのか」とマイナスイメージを抱いてしまう。

色々とご都合があるんだろうが、理系の人が出て来るとそれだけで信じちゃう人もいるしなー。

2009-08-06

書籍から見るゼロ年代

今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.

一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本経済社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.

経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店平積みされていた.お金のことは銀行専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.

また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年

また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.

2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.

ゼロ年代を象徴する批評家東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.

また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.

2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.

格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会空気を表す本としてピックアップすることができる.

不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.

9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディアコントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.

2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社新書に力を入れ始める.

仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代サクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.

新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代キーワードを体現した.

また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本ナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.

相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長ベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.

また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipedia大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.

品格ブームを引きずって『女性品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.

データ重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.

その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田オプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.

また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.

どういう流れからか,『×型 自分説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分グーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本書店平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.

批評界では東にケンカを売る形で宇野ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャ生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.

ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.

##せっかくISBN記法したのに,増田だと使えないのね.

文字ばっかりでごめんなさい.

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