はてなキーワード: 墓所とは
帰還したナウシカは捕虜の釈放を見届けた後、ただ一人「義理は果たした」といわんばかりにメーヴェで旅立ち、クシャナ、クロトワ、兵たちはそれを複雑な思いで見送る。
土鬼包囲軍で攻城包囲戦の指揮をとっていた僧会軍司令官チャルカは、皇弟より「青き衣の者」復活を知らされた後、戦場でナウシカと相まみえ、土着の民の救世主であるはずの「青き衣の者」がトルメキア軍にいることに戦慄する。しかし、その後その後釈放された捕虜達から彼らを解放したのがナウシカであることを知る。
一方、皇弟は頑強に抵抗する敵に業を煮やし、「蟲か森を使おう」と決断する。この戦術による国土の崩壊を恐れるチャルカは必死で抵抗するが、止めることはできなかった。
クシャナは軍団の大部分をサパタに残し、コルベット一隻の小部隊で、大移動する蟲の群に紛れて友軍の基地に停泊する艦船をハイジャックし、自軍の兵員の救出に使おうとするが、すんでのところで兄皇子のひとりに阻止され、コルベットは撃破される。彼女にとって父や兄たちは政敵である以上に母王妃を発狂させた仇敵であった、幼い彼女の誕生祝いに王が送った杯の毒酒を、母は身代わりに飲んだのである。
母を侮辱され彼女は激昂するが、クロトワは機転で「蟲の群が来ると」脅し、兄皇子を撤退させる。撤退した兄皇子のコルベットは実際に飛来した蟲の群に襲われて墜落炎上し、あまりにあっけない仇の死にクシャナは虚脱する。彼女達にも襲い掛かる蟲の群の前にも彼女はなお虚脱したまま、母親のごとく部下達をかばいながら静かに子守唄を歌うのみだった。そしてまもなく、蟲達は反撃の意思がない彼女達の元から去ってしまう。
一方、ナウシカは砂漠の中のとあるオアシスの古びたお堂で、弾圧された土鬼の土着信仰の上人と、謎の少年チクク(後に、神聖皇帝に滅ぼされた土鬼の土王の末裔らしいとわかる)に出会う。ここで上人はナウシカに、土鬼の聖都シュワに、旧世界の技術を封印した墓所があり、神聖皇帝はその封印を解いて旧世界の技術を戦争に利用していること、また土鬼の古い教えによれば、現在進行中の破局は世界浄化の過程に他ならないと言うことを告げる。
「滅びは必然です 神聖皇帝の愚考すら その一部なのですよ すべての苦しみは世界が生まれ変わるための試練なのです」と語る上人に、ナウシカは「わたしたちの風の神様は生きろといっているもの!! わたし生きるの好きよ 光も風も人も蟲も私大好きだもの!! わたしはあきらめない!!」と抗う。
上人はナウシカの言葉を肯定も否定もせず「永く待ったかいがありましたね ええ・・・・ 風が来ました やさしく猛々しい風が・・・」と今は亡き自分の盟友達と語り合いつつ、入寂する。最後に「お行き 心のおもむくままに いとしい風よ・・・・」と彼女を励まして
瘴気に襲われたオアシスをチククとともに脱出したナウシカは、この瘴気が「腐海」の瘴気をはるかに超える毒性を持ち、「腐海」の蟲達にとっても致命的であることを発見する。その瘴気の発生源を追跡してナウシカは、土鬼の浮き砲台に遭遇する。それはチャルカと皇弟の乗り込む艦だった。
この艦は瘴気を産む生物兵器の正体、墓所の技術で作られた腐海の粘菌の突然変異体を輸送していたのだが、この粘菌が爆発的に増殖し、
艦ごと食われようとしていた。チャルカは皇弟を逃がし、自分は一人艦に残って粘菌ごと自爆しようとする。ナウシカは皇弟の追撃をチククの超能力の援護でかわし、チャルカを手伝って、艦を爆破、チャルカ、チククとともに脱出する。
脱出後、チャルカは新たな艦を呼び、疲労のあまり昏倒したナウシカとチククを救出して、暴走する粘菌を救出する粘菌を追跡する。
目覚めたナウシカはチャルカに、粘菌の暴走が蟲たちを呼び大海嘯を誘発と警告する。初めチャルカは信じないが、折から各地で粘菌の暴走が同時的に多発し、戦線は大混乱に陥るのを見てナウシカの言葉を信じざるを得なくなり、残存艦隊を動員して人々の救出作業に当たることを決断する。(ここまでで単行本第四巻)。
> 【補足】
> 人造人間が生き残ったが、最後には腐海が世界を浄化するので汚染された大気でしか生きられない人造人間は
原作7巻の中盤あたりで、ナウシカが庭園で沐浴することで身体が変化する。
庭園の主が言うには「ここの空気は甘い」、「人が火を知る前の組成になっている」
つまり、ナウシカは完全に清浄化された地でも生きていける身体になったと
考えられる。
この千年の間に、何人もの(ナウシカと同じような)人間がやってきて、時には
これって、某SFじゃないファンタジーマンガの騎士の血みたいに一般人に拡散していったりしてな。
ついでに、墓所の博士たちは人間をヒドラにできるし、王蟲のクローン化くらいの
テクノロジーは手に入れている。ほろびかけた技術のマネとはいえ、滅亡はまのがれるかもね。
「私たちは血を吐きつつ くり返し くり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」
そういうこと。
> 【補足】
> 人造人間が生き残ったが、最後には腐海が世界を浄化するので汚染された大気でしか生きられない人造人間は
原作7巻の中盤あたりで、ナウシカが庭園で沐浴することで身体が変化する。
庭園の主が言うには「ここの空気は甘い」、「人が火を知る前の組成になっている」
つまり、ナウシカは完全に清浄化された地でも生きていける身体になったと
考えられる。
この千年の間に、何人もの(ナウシカと同じような)人間がやってきて、時には
これって、某SFじゃないファンタジーマンガの騎士の血みたいに一般人に拡散していったりしてな。
ついでに、墓所の博士たちは人間をヒドラにできるし、王蟲のクローン化くらいの
テクノロジーは手に入れている。ほろびかけた技術のマネとはいえ、滅亡はまのがれるかもね。
「私たちは血を吐きつつ くり返し くり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」
そういうこと。
> 【補足】
> 人造人間が生き残ったが、最後には腐海が世界を浄化するので汚染された大気でしか生きられない人造人間は
原作7巻の中盤あたりで、ナウシカが庭園で沐浴することで身体が変化する。
庭園の主が言うには「ここの空気は甘い」、「人が火を知る前の組成になっている」
つまり、ナウシカは完全に清浄化された地でも生きていける身体になったと
考えられる。
この千年の間に、何人もの(ナウシカと同じような)人間がやってきて、時には
これって、某SFじゃないファンタジーマンガの騎士の血みたいに一般人に拡散していったりしてな。
ついでに、墓所の博士たちは人間をヒドラにできるし、王蟲のクローン化くらいの
テクノロジーは手に入れている。ほろびかけた技術のマネとはいえ、滅亡はまのがれるかもね。
「私たちは血を吐きつつ くり返し くり返し その朝をこえて とぶ鳥だ!!」
そういうこと。
先日、私の祖母が亡くなった。85歳だった。
祖母との思い出といえば、私が生まれてから成人するまでのおよそ20年間、元旦に直系の親族一同とともに正月祝いを行っていたことを思い出す。正月祝いと言っても、細田守の「サマーウォーズ」に描かれるがごとき祝祭的な性格のものというよりは、近況報告を兼ねて親族同士で気を使いあう儀礼的な色彩のつよいものであった。
祖母には一人の息子と三人の娘がおり、息子が一番年長、その下に長女、次女、三女と続く女風上の一家で、この末娘が私の母である。四名とその家族が毎年元旦に祖母のいる実家へ帰省していたわけだが、態々そのような古臭い集まりを続けていた理由は簡単で、いずれの親族も実家から車で1時間以内の場所に住んでおり、集合するのが容易だったためである。
長男は、礼儀正しく気の優しい人で、奥方とも仲睦まじいが、子宝には恵まれなかった。長女は結婚してすぐ最初の孫――――私のいとこに当たる娘を産み、次女もまた結婚後すぐに娘を一人もうけたので、祖母からすれば、自身の若いうちから孫を抱いて可愛がる楽しみを得ることが出来た。私が生まれたのは次女の娘よりも5年ほど遅れてのことだったが、あとから母に聞いたところによれば、祖母にとっては初めての男の孫であったから、幼少時の猫可愛がりは尋常ではなかったということだった。現在を見てみれば、いい年をして結婚もせず、祖母の期待に沿う形には成長できなかったのだが。
私に遅れて妹と弟がそれぞれ誕生したが、正月にはこれらが皆、映画のように広い日本家屋などではなく、昭和のごく平均的な一軒屋に集まるわけだから、私たち孫の小さいころの祖母は片付けや食事作りなどにてんやわんやで、忙しそうに家中を動き回っていた。
生前における祖母と祖父のおしどり夫婦ぶりは母や親戚から伝え聞いているが、その足取りは大抵のものではなかった。
大正生まれの祖父は、呉服屋の息子で自らも商店を営んでおり、利発聡明と専ら評判の若者であったが、当時の男性としては体は丈夫なほうではなかった。そのためかは定かではないが、第二次大戦時もなかなか徴兵されることはなく、結局日本が敗戦する直前になって突如として徴兵されることとなったという。
終戦後、祖父は無事帰還したものの、兵役の最中に肺結核を患っており、生業である商売もままならず、しばらくは寝たきりの生活を余儀なくされた。戦後の結核治療の確立から一命はとりとめたものの、後遺症か定かではないが、原因不明の発熱と咳に生涯悩まされることとなり、商店の経営にも難渋した。
祖母は、看護学校を卒業していたが(戦中、従軍看護婦になることを希望していたのかもしれない)、卒業後すぐに祖父と結婚したことから、看護婦となることはなく、祖父の徴兵後は夫に代わって商店を切り盛りしていた。しかし、祖父の体調不良もあって戦後いよいよ先行きが怪しくなり、結局私の母が生まれて5年後に閉店したという。
その後の祖母は、しばらく職を転々とした後、昭和42年ごろ、某市の市立病院の看護婦となる。祖母にとっては、高校以来の看護業であり苦労は並大抵ではなかったというが、持ち前の剛毅さと天性の快活な性格にナースは天職であったようで、中途採用者としては異例の副婦長の地位まで昇進したという。60歳で定年した後も、市内の私立病院に嘱託職員として居場所を得、4人の子供を成人させ、病の夫を支え続けた。
しかし、その祖父も私が5歳のときに癌で帰らぬ人となる。確かではないが、病室で遺族が泣き伏せる中、祖母は一度も涙を見せなかったと幼いころの私は記憶している。
祖母との最後の思い出らしい思い出は、一昨年の夏のものである。
何とか就職が決まり、自分の車を手に入れた私は、何を思ったか一人で先祖の墓を参りたいと考え、祖母に親類の墓地の場所を尋ねに行った。その前の年、私の父が母と離婚しており、20年続いていた正月の集まりは中止されてしまっていた。祖母の顔を見るのは、同年の冬、祖母が初期の癌を患っていることが判明し、見舞いに訪れた病院以来であったと思う。これは治療により完治し、祖母は実家で一人暮らしを再開していた。
唐突に尋ねてきた孫に、祖母はメロンを振舞ってくれた。墓地の場所を教えてもらい、私はひとり車を走らせる。天気は伸びぬけるような快晴であった。セミが絶息の声を漏らして、草だらけの殺風景な墓所に風情を齎していた。確か、わざわざ花を携えて行ったと記憶している。
墓めぐりが終わって、私はもう一度祖母の自宅を訪ねた。最近腰が痛くて食器の片付けに苦労するというので、洗物を手伝い台所の片づけをした。年季の入った炊事場の汚れを見ると、正月に走り回りながらおせち料理を拵えてくれた、祖母の苦労が感じられるようだった。帰り際に、祖父の眠る仏壇へ線香を立てた。
帰り際、私を何事か心配そうに見つめながら、祖母は言った。
「私はもう、長くない。私が死んだら、後のことは頼む」
私は、何を言っているの、おばあちゃんは癌になったって死なない人でしょう、と言った。豪快な祖母のしおらしい一面を見て、私は意外に思いつつ、やや後ろ髪を引かれながら岐路に着いた。
その2週間後、祖母は脳梗塞で倒れた。
以後の祖母の容態は、芳しいものではなかった。脳梗塞からただちに生命の危機には至らなかったが、脳の神経が一部破壊されてしまったことから、記憶の維持に支障が生じ、軽度のアルツハイマーの様相を呈していた。また、翌年の冬、恐れていた癌の再発が認められた。
近年の病床の不足から、祖母は短期間の転院を繰り返し、結局地元の病院(かつて勤務していた病院ではない)に落ち着いた。最後に会ったのは、今年の5月ごろであったと思う。もう、私の顔はあまり分からなくなった様子であったが、お見舞いに来てくれているのはわかっているようで、こちらが手を振ると童子のように身振りで返してくれた。黒かった御髪はすっかり白くなり、顔も痩せて、さながらどこぞの聖人のようでもあった。母は週に一度見舞いに行っていたが、亡くなる前日までは、元気に呼びかけに応えており、当日は眠るように安らかに逝ってしまわれたという。
通夜には、上述した親族はもちろん、各地に散らばっていた祖母の兄弟の他、長女の娘の息子と次女の娘の娘、つまり祖母にとっては曾孫に当たる二人も参列した。二人とも終始、お経が退屈で帰りたいとぼやいていたが、赤ん坊のときにまだ健全だった祖母に抱かれたことは記憶にないのだろう。
私にとっては従甥・従姪にあたる二人の相手をしながら、私はかつてこうして祖母の実家で遊んでいた時代のことを思い出していた。辛櫃の前をずいぶん騒がしくしてしまったが、生涯をかけて一家を守ってきた祖母にとっては、たぶんこの光景が一番望んでいたことであったのだろう。
おばあちゃん、生前は本当にお世話になりました。
こころあたりがない。
しかし、「私は、なにか間違いでもしてかしたんだろうか」と思った。なんだかいろいろなことが、ここ十数年あったので。
内容は、私の遠縁ーー正確には、祖母の係累の、墓所のとりあつかいについての話だということがわかった。
私の行いとは、とりたてて関係がなさそうだ。
なんでも、長い間、その墓所についてどうするかを決めていなかったらしくーー。
「みんな元気かな」
「みんな」って誰だ、自分。
実は、私の親類は、かなり散り散りになっている。
奇妙なことに遭遇したことがある。
たとえば、幼いころ突然、自分のおじ(「伯父」「叔父」どちらなのか口頭だったのでわからない)だと言う人に声をかけられたことがある。
「おじ」だと言う人は、私の家族について二三尋ね、ぽち袋を私の手に握らせると去っていった。
とても親身な感じで、怪しい感じは全くしなかったのだがーーところが、もらったぽち袋を母に渡しながら、そのことを言うと、「どういう人?」などいろいろ聞かれたーー「心当たりのある「そういう人」」が、やたらいたらしいのである。
それどころか、「父がた」「母がた」どちらの「おじ」なのかわからないーーーどういうことなんだろ。
二度か三度、そういうことがあった。そのたび、母は、不審そうな顔をする。
「ねえ?それって亡くなった私のおじさんのことじゃない?」と母が聞いた。なんだって?
変なことを聞いた。いや、聞こえなかった。